第118話「静かな診察室に戻るまで」
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が、いつも通りに返す。
窓の外は少し曇っていた。
ペケが、珍しく鳴かない。
羽を膨らませたまま、じっと外を見ている。
「……どうしたの?」
ミナが声をかける。
ペケはゆっくりと振り返った。
「クェー」
短い。
低い。
(来る)
それだけだった。
その直後、扉が勢いよく開いた。
大型犬が転がり込むように入ってくる。
体は濡れていて、呼吸が荒い。
「先生!」
飼い主の声が震えている。
「急に倒れて……!」
サクラギ先生はすぐに動いた。
「台に」
ミナは迷わず準備に入る。
タオル、器具、点滴。
手が先に動く。
(……苦しい)
低い声が響く。
肺の音が重い。
心拍も不安定。
「水を吸ってる」
サクラギ先生が短く言う。
「溺れかけたんだ」
ミナは頷いて、酸素の準備をする。
ペケが飛び降りて、近くまで来る。
「クェー」
(遅い)
焦れている。
珍しい。
処置が始まる。
時間が少しずつ削られていく。
呼吸は浅いまま。
(……まだ、だめ)
犬の声が弱い。
ミナは手を止めない。
いつも通りに。
でも、少しだけ速く。
「もう少し」
サクラギ先生が言う。
その声だけは、変わらない。
ミナは一瞬だけ顔を上げて、それから頷いた。
数分。
長く感じる時間。
やがて――
「……入った」
呼吸が変わる。
浅さが抜けていく。
(……あれ)
犬の声が少し戻る。
(……楽)
サクラギ先生が小さく息を吐く。
「大丈夫だ」
飼い主が崩れるように座り込む。
ミナはゆっくりと手を離した。
ペケが一度だけ大きく鳴く。
「クェー!」
(遅いんだよ)
でも、その声は少しだけ軽かった。
外の雲が、少しだけ薄くなる。
診察室の空気が戻ってくる。
ミナは入口の方を見る。
朝と同じ扉。
同じ場所。
そこから始まった一日が、まだ続いている。
「……次、来ますね」
「うん」
サクラギ先生が頷く。
さっきと同じ調子で。
何も特別じゃないみたいに。
でも、確かに違う一日が、
静かに進んでいく。




