第115話「小さな一言の大きな意味」②
朝の光が、診療所の窓からゆっくり差し込む。
扉の前で、ミナは一度だけ深く息を吸った。
――いつも通りに。
そう思って、口を開く。
「……」
声が、出なかった。
ぴり、と痛みが走る。昨日、治療中に動物をかばった拍子に切った口の中が、まだ塞がっていない。
もう一度、試す。
けれど、同じだった。
ミナは少しだけ眉を寄せて、それから諦めたように扉を開ける。
いつもなら、ここで自然に出てくる言葉がある。
それを言わないまま、入るのは少しだけ変な感じがした。
診察室は、いつもと同じだった。
窓の光。
棚の位置。
静かな空気。
サクラギ先生が顔を上げる。
ミナは、軽く頭を下げた。
ほんの少しだけ、間が空く。
「……おはよう」
サクラギ先生は、いつもと同じ調子で言った。
その声に、ミナは小さく頷く。
それだけで、朝は始まった。
ペケが窓辺で鳴く。
「クェー」
いつもより、少しだけ長い。
ミナはそちらを見て、口を開きかけて――やめる。
代わりに、手で軽く合図を送る。
ペケは首を傾げて、それから何かを理解したように羽を揺らした。
最初の患者は、小さな猫だった。
(……ここ、痛い)
サクラギ先生が頷く。
「見せてごらん」
ミナは器具を準備する。
言葉はなくても、手はいつも通り動く。
でも――
(それ、違う)
そう言いたい瞬間が、何度かあった。
届かない。
代わりに、少し大きく動く。
サクラギ先生が一瞬だけ視線を向けて、静かに修正する。
何も言わない。
ただ、それで通じる。
診察は続く。
犬。
鳥。
ウサギ。
いつもと同じ流れ。
いつもと同じ時間。
なのに、どこかだけ、少しずれている。
(……言いたいのに)
たった一言。
それだけのことが、こんなに遠い。
昼を過ぎる頃には、ミナはほとんど喋ろうとしなくなっていた。
その代わり、動きは少しだけ丁寧になる。
余計な音を立てないように。
余計な間を作らないように。
診察室の空気を、崩さないように。
夕方。
最後の患者が帰る。
扉が閉まる。
静かになる。
ミナは、ふっと息を吐いた。
それから、もう一度だけ口を開く。
「……」
やっぱり、出ない。
少しだけ、悔しそうに目を伏せる。
そのとき。
「明日には、出るよ」
サクラギ先生が言う。
いつもと同じ調子で。
ミナは顔を上げる。
「無理に言わなくてもいい」
短い言葉。
でも、どこかやわらかい。
ミナは少しだけ考えて、それから小さく頷いた。
――翌朝。
同じ光。
同じ扉。
同じ場所。
ミナは、昨日と同じように息を吸う。
ほんの少しだけ、ためらう。
それでも。
「……おはよう、ございます」
かすれる声。
でも、ちゃんと届いた。
診察室の中に、その一言が静かに落ちる。
サクラギ先生が、少しだけ目を細める。
「おはよう」
いつも通りの返事。
それだけで、朝はきちんと始まる。
ペケが、短く鳴いた。
昨日より、少しだけ軽い音で。
ミナはほんの少しだけ笑って、診察室の中へと進む。
昨日と同じようで、
ほんの少しだけ違う朝だった。




