第116話「小さな一言の大きな意味」③
朝の光が、診療所の窓からゆっくり差し込む。
扉の前で、ミナは一度だけ息を吸った。
いつも通りに、声を出そうとして――
「……」
やめた。
口の奥が、じんと痛む。昨日のケガは思ったより厄介らしい。
少しだけ迷ってから、ミナはそのまま扉を開けた。
診察室の空気は、いつも通りだった。
サクラギ先生が顔を上げる。
ミナは軽く頭を下げる。
ほんの一瞬だけ、間が空いた。
「……おはよう」
サクラギ先生は、変わらない調子で言う。
ミナは小さく頷いた。
そのとき。
「クェー?」
窓辺のペケが、不思議そうに首を傾げた。
いつもなら返ってくるはずの声がない。
もう一度。
「クェー、クェー?」
少ししつこい。
ミナは苦笑して、手で「ちょっと待って」と合図する。
ペケはじっと見て、それから――
「クェー……」
なぜか、やや不満げに鳴いた。
そこへ、診療所の扉が勢いよく開く。
飛び込んできたのはクロだった。
「先生ー!!」
元気な声が頭の中に響く。
ミナは思わず顔を上げる。
(あれ、ミナさん静かだね?)
クロが近づいてきて、じっと顔を覗き込む。
ミナは口を開きかけて、やめる。
代わりに、少しだけ口元を押さえてみせた。
(あ、ケガ?)
クロはすぐに理解したらしく、表情を変えた。
(それは大変だ!じゃあ今日はボクがいっぱいしゃべるね!)
なぜか張り切る。
ペケが横から「クェー」と鳴く。
(うるさいのが増えたな)
そんなふうに聞こえた気がした。
ミナは思わず肩を揺らして笑う。
声は出ないけど、少しだけ気が楽になる。
「診察するよ」
サクラギ先生がいつも通りに言う。
(はーい!今日はね、ちょっとだけお腹が――)
クロの説明はやたら長い。
途中でペケが横から鳴く。
「クェー」
(長い)
(えっ)
クロが固まる。
ミナは思わず吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
痛い。
でも、ちょっと楽しい。
診察はそのまま進む。
ミナは言葉の代わりに、手で、目で、動きで伝える。
ときどきズレる。
でも――
(あ、それで合ってる)
クロが勝手に補足する。
ペケが横で「クェー」と鳴く。
なんとなく、回っていく。
いつもと同じじゃないけど、
ちゃんと、動いている。
夕方。
最後の患者が帰る。
静かになった診察室で、ミナは小さく息を吐いた。
そして、少しだけ口を動かす。
「……」
やっぱり出ない。
ほんの少しだけ、悔しさが残る。
そのとき。
「クェー」
ペケが短く鳴いた。
まるで「明日だな」とでも言うみたいに。
(ミナさん、明日いっぱいしゃべろうね!)
クロも元気に言う。
ミナは、今度ははっきり笑った。
――翌朝。
同じ光。
同じ扉。
ミナは息を吸う。
少しだけ緊張して、
それでも、声を出す。
「……おはよう、ございます」
少しかすれる。
でも、ちゃんと届く。
「おはよう」
サクラギ先生が返す。
「クェー!」
(言えたね!!)
ペケとクロが同時に反応する。
少しだけ賑やかな朝。
ミナは小さく笑って、診察室へと入る。
いつも通りで、
でも、昨日より少しだけ軽い一日が始まった。




