第108話「わかっているから」
朝は、いつも通り。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が答える。
変わらない診察室。
その日の患者は、一匹の老犬だった。
ゆっくりと歩く。
白くなった毛。
穏やかな目。
「健康診断をお願いしたくて」
飼い主が言う。
声は落ち着いている。
でも、少しだけ硬い。
「最近、よく寝るようになって」
「食事の量も少し減ってきていて」
ミナがそっと近づく。
「こんにちは」
老犬はゆっくり尻尾を振る。
(……ここ、しってる)
「来たことあるんだね」
(……むかし)
サクラギ先生が静かに診る。
心音。
呼吸。
体の動き。
どれも、大きな異常はない。
でも――
「少しずつ、だね」
穏やかに言う。
飼い主が小さく頷く。
「やっぱり……」
言葉の先を、飲み込む。
老犬は、静かに座っている。
(……だいじょうぶ)
「何が大丈夫なの?」
ミナが聞く。
(……おわり、ちかい)
静かな声。
驚きはない。
ただ、受け入れている。
ミナが言葉を失う。
サクラギ先生は、変わらない。
「怖くない?」
(……すこし)
「でも?」
(……このひと、いる)
飼い主の方を見る。
ゆっくりと尻尾を振る。
(……だから、いい)
飼い主は気づいていない。
ただ、優しく撫でている。
その手が、少し震えている。
「先生……」
小さな声。
「この子、まだ大丈夫ですよね」
問いかけ。
でも、確認でもある。
「うん」
サクラギ先生は答える。
「今は、まだ一緒にいられる」
はっきり言う。
嘘はない。
でも、全部も言わない。
老犬は静かにしている。
(……いう?)
サクラギ先生が、ほんの少しだけ目を細める。
「どうしたい?」
(……いわない)
「そっか」
(……このひと、かなしい)
「うん」
(……いまは、まだいい)
選んでいる。
わかっているからこそ。
ミナが小さく息を吸う。
何かを言いかけて、やめる。
その代わり、そっと撫でる。
「いい子だね」
(……しってる)
少しだけ誇らしげ。
診察が終わる。
「無理させずに、いつも通り過ごしてください」
サクラギ先生が言う。
「好きなことを、できる範囲で」
飼い主が頷く。
「はい」
リードを持つ手が、少しだけ強い。
帰り際。
老犬は一度だけ診察室を見回す。
(……ここも、おわりがある)
でも、悲しくはない。
ただ、ひとつの場所として記憶している。
扉の前で止まる。
飼い主を見上げる。
(……もうすこし)
そして、歩き出す。
午後。
いつもの診察が続く。
元気な動物たち。
小さな違和感。
いつも通りのやり取り。
でも、その中に、
静かな終わりの気配も、確かに混ざっている。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナがぽつりと言う。
「……わかってるんですね」
「うん」
「言わないのも、やさしさなんですね」
「そうだね」
サクラギ先生は窓の外を見る。
「全部伝えることだけが、正解じゃない」
ミナが少しだけ目を伏せる。
「でも、ちょっと寂しいです」
「うん」
否定しない。
「それも、ちゃんと大事」
窓の外は夕焼け。
終わりを知っている時間と、
知らないまま過ごす時間。
どちらも同じように流れていく。
この診察室は、
始まりも、
途中も、
そして終わりも、
静かに受け止める場所だった。
夕暮れの光の中、
言葉にしないやさしさを残して、
今日も一日が終わった。




