第107話「近すぎるやさしさ」
朝は、いつも通り。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が答える。
変わらない診察室。
その日の患者は、小さなウサギだった。
「この子、最近あまり動かなくて」
飼い主が心配そうに抱えている。
「ごはんは食べるんですけど、ずっとじっとしてて」
白いウサギ。
柔らかそうな毛。
腕の中で、大人しくしている。
(……つかれる)
小さな声。
ミナが少し首をかしげる。
「疲れる?」
サクラギ先生が静かに聞く。
(……ずっと)
「何が?」
少し間。
ウサギは、飼い主の腕の中で動かない。
(……だっこ)
ミナがはっとする。
飼い主は戸惑う。
「え?」
「この子、抱っこ好きで」
「かわいくて、つい……」
言いながら、少しだけ力が入る。
ウサギの体が、わずかに固くなる。
「ずっとですか?」
「はい、家にいるときはほとんど」
「安心するかなって」
(……うごけない)
小さな声。
でも、はっきりしている。
「ケージから出してる時間も、ほとんど抱っこで」
ミナがそっと言う。
「ウサギって、本当は結構動きたい生き物ですよね」
「そうだね」
サクラギ先生は頷く。
「安心と自由、両方必要」
ウサギはじっとしている。
(……すき)
「好き?」
(……このひと、すき)
飼い主を見る。
やわらかい目。
(……でも、ずっとはいや)
その両方が、本音だった。
飼い主の表情が揺れる。
「……ごめんね」
思わず、抱きしめる。
ウサギの体がまた固くなる。
「少し、離してあげようか」
サクラギ先生が静かに言う。
飼い主がはっとして、腕をゆるめる。
診察台の上にそっと置く。
ウサギは、しばらく動かない。
様子をうかがう。
そして――
ぴょん、と小さく跳ねる。
もう一回。
少しだけ速くなる。
(……らく)
体が伸びる。
呼吸が軽くなる。
ミナが笑う。
「動きたかったんですね」
「うん」
サクラギ先生も頷く。
「好きだから近くにいたい」
「でも、近すぎると苦しくなる」
飼い主が静かに聞く。
「どうすればいいですか」
「時間を分けよう」
「分ける?」
「抱っこの時間と、自由な時間」
「どっちもちゃんと作る」
ミナが続ける。
「自由にしてるときも、見守ってあげれば安心しますよ」
飼い主はゆっくり頷く。
ウサギを見る。
今は、診察台の上を小さく動き回っている。
楽しそうに。
「……かわいいな」
思わず言う。
でも、手は伸ばさない。
少し待つ。
ウサギの方が、近づいてくる。
足元で止まる。
(……いまならいい)
小さな合図。
飼い主が、そっと撫でる。
今度は、体は固くならない。
やわらかいまま。
「これくらいが、いいね」
「はい」
帰り際。
ウサギは自分からケージに入る。
無理に入れられるのではなく。
自分で選んで。
午後。
いつもの診察が続く。
やさしさは、形が難しい。
足りなくても、すれ違うし、
多すぎても、すれ違う。
ここでは、それを少しだけ整える。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナがぽつりと言う。
「好きって、難しいですね」
「うん」
「多ければいいってわけでもない」
「そうだね」
サクラギ先生は窓の外を見る。
「ちょうどいい形にする必要がある」
ミナが少し笑う。
「毎回調整ですね」
「うん」
短い答え。
でも、それがこの仕事だった。
窓の外は夕焼け。
近づくことも、
離れることも、
どちらも“やさしさ”。
そのバランスを見つけることが、
きっと一緒に生きるということ。
この診察室は、
その形を少しずつ整える場所だった。
静かに、
やわらかい一日が終わった。




