第106話「ちょうどいい距離」
朝は、いつも通り。
「おはようございます」
ミナが扉を開ける。
「おはよう」
サクラギ先生が答える。
変わらない診察室。
その日の患者は、一匹の大型犬だった。
「この子、すごくいい子なんですけど……」
飼い主が少し困ったように言う。
「全然甘えてこなくて」
黒いラブラドール。
体は大きいのに、静かに座っている。
視線は優しい。
でも、少しだけ距離がある。
(……だいじょうぶ)
落ち着いた声。
「呼べば来るし、言うことも聞くし」
「でも、自分から来ないんです」
ミナがしゃがむ。
「どうしたの?」
ラブラドールは少しだけ尻尾を振る。
でも、近づかない。
(……じゃましない)
「邪魔?」
サクラギ先生が聞く。
(……いそがしそう)
飼い主が少し驚く。
「え?」
「いや、そんなこと……」
少し考える。
「でも、仕事は忙しくて」
「帰りも遅い日が多いです」
「家でも、疲れてそのまま寝ちゃうことがあって」
ミナがそっと犬を見る。
ラブラドールは静かに座ったまま。
(……やすんでほしい)
「だから、行かないのか」
サクラギ先生が言う。
(……うん)
「呼ばれたら行く」
(……それならいい)
「でも、自分からは行かない」
(……がまんする)
飼い主の表情が、少しだけ曇る。
「……そんなつもりじゃ」
ラブラドールは穏やかにこちらを見る。
(……わかってる)
責める気配はない。
ただ、選んでいるだけ。
「どうしたらいいですか」
飼い主が静かに聞く。
「このままだと、かわいそうで」
「無理に変えなくていい」
サクラギ先生は言う。
「この子のやり方は、ちゃんと優しさだから」
ラブラドールの耳が少し動く。
「でも」
少しだけ続ける。
「遠慮しなくていいって、教えてあげよう」
「どうやって?」
「“来てほしい”を、はっきり出す」
ミナが頷く。
「遠慮してる子って、察しちゃうから」
「ちゃんと言わないと、ずっと引いちゃうんです」
飼い主がゆっくりラブラドールを見る。
少し迷って――
手を伸ばす。
「……来ていいよ」
静かな声。
でも、今までよりまっすぐ。
ラブラドールは動かない。
(……いいの?)
「いいよ」
今度は、少しだけ強く言う。
「来てほしい」
その一言。
ラブラドールの尻尾が、大きく揺れる。
ゆっくり立ち上がる。
一歩。
また一歩。
そして、飼い主のそばに来る。
大きな体を、そっと預ける。
(……ちょっとだけ)
控えめな重さ。
でも、確かな甘え。
飼い主が小さく笑う。
「重いな……」
でも、その手は優しく撫でている。
「全然、邪魔じゃないよ」
ラブラドールの目が、少しだけ緩む。
(……そっか)
ミナがほっとしたように息を吐く。
「来れましたね」
「うん」
サクラギ先生も頷く。
帰り際。
ラブラドールは自然に飼い主の隣を歩く。
少しだけ距離が近い。
でも、無理はしていない。
午後。
いつもの診察が続く。
それぞれの優しさ。
それぞれの遠慮。
重なったり、すれ違ったりしながら、
少しずつ整っていく。
夕方。
最後の患者を見送る。
扉が閉まる。
静寂。
ミナがぽつりと言う。
「優しいと、遠慮しちゃうんですね」
「うん」
「人も同じかも」
「そうだね」
サクラギ先生は診察台に手を置く。
「だから、言わないといけない」
「来ていいって」
ミナが少し笑う。
「シンプルですね」
「うん」
短い答え。
でも、それで十分だった。
窓の外は夕焼け。
近づくことも、
離れることも、
どちらも選べる距離。
この診察室は、
その“ちょうどいい”を見つける場所だった。
静かに、
あたたかい一日が終わった。




