もし勇気と希望が
「月影……シオン?」
誰かが呟くように、その名を口にした。
日本ピアノ界の女王。
黒い衣装を好んだため、『夜の女王』などとも称されたピアニスト。
二年前に謎の死を遂げた事もあり、その名は多くの人の記憶に刻まれている。
「……宮藤。よりによってそんな人の作品パクったん?」
「ち、違う! 知らなかっ……いや盗作じゃ……ああ、クソッ、何でこうなった!?」
ユイの呆れと軽蔑のこめられた視線を受けて、ショウキは何とか弁明しようとしたが、もはや誤魔化しきれないと判断したのか悪態をついた。
「そもそも、それが月影シオンの作品だという証拠は!?」
それでも、ショウキは足掻いた。
当然だろう。認めてしまえば、音楽家としての名と信用は地に落ちる。
未だ混乱した頭のまま、ショウキはクランドの主張を崩す突破口を探りだす。
「楽譜を警察に鑑定してもらいました。紙の経年劣化はもちろんですが、わざわざ月影シオンの手書きの資料を集めて、筆跡鑑定までしています」
一方問い詰められたクランドは、いつも通りのポーカーフェイスで楽譜を示す。
彼が指差したそこには、『パンドラ第二楽章』という走り書き。それが月影シオンのものであるならば、楽譜が書かれたのは彼女が死ぬ二年より前という事になる。
「っ……しかしだよ、そこが月影シオンの直筆でも、楽譜そのものを……」
「いい加減にしてください」
「!?」
なおも食い下がるショウキを、冷たい声が貫いた。
「……え?」
その声に、ショウキだけでなくユウリとユイ、関屋教授までもが凍りついた。
ひたすらに熱を感じさせないそれは、しかし内に今にも吹き出し荒れ狂いかねない感情がこめられていた。
憤怒。
温和な、あるいは冷めた性格のクランドからは考えられない。その性質とは真逆に位置する激情。
「“アンタ”が『神無月の嵐』なんていう的外れな題名をつけて、的外れな演奏を始めたときの“僕”の気持ちが分かりますか?」
怒りのためか、いつも通りのはずの口調にブレが生じていた。
本人が意図しなければほとんど変わらないはずの表情が憤怒にわななき、耐えきれぬ憤懣に体は震えていた。
「パンドラはその名の通り、パンドラという“とある女性”を題材にした曲です。第一楽章は満たされた日常。そして第二楽章は罪と苦悩」
そこまで言うと、クランドは怒りに濡れた瞳をショウキへ向ける。
「決してあなたが弾いたような、嵐をモチーフにした曲じゃない」
静かな怒りを受けて、誰一人動くことができなかった。
いや、ただ一人。その怒りを一身に受けているショウキ。
誰よりも強い怒りを向けられているはずの彼だけが、クランドの姿を見つめたまま、驚愕に顔を歪めていた。
「そんな……まさか、君は……」
直接話したことはない。目をあわせたことすら数えるほどだ。
それほどまでに月影シオンは“彼”を隠し、人目に晒すことを嫌った。
だが忘れるはずがない。
夜の女王の秘蔵っ子は、気まぐれのようにコンクールに現れては、大人すら下を巻く演奏を見せつけた。
むしろ何故分からなかったのか。
数年の歳月が彼を変えたとしても、彼の演奏は変わらず己のちっぽけな心を揺さぶったのに。
「……月影・ラ……」
「え……?」
静寂のなかですら聞き逃しそうな、掠れた小さな声。
その呟きを拾い上げ、ユウリとユイもまた驚きに目を見開く。
「……そうか。だからそんなに。いや、君なら当然だ。あの人の子供である君には、僕を断罪する権利がある」
それまでの態度が嘘だったように、ショウキはあっさりと白旗をふった。
「……認めるんですか」
「ああ。ついでに君の事だ。あんな事言って、僕が父さんを殺した確信と理由もあるんじゃないかい?」
突然の変わり身に、ユウリたちだけでなく、ショウキを追い詰めたクランドすら呆気にとられ、調子を崩された。
しかしすぐに表情を消すと、クランドはショウキの腕を指し示す。
「その腕の傷は、猫ではなく宮藤先生につけられた傷ですね」
「その通り。なんで分かったのかな?」
「宮藤先生の右手の爪だけが、異様に短く切られていました。抵抗したときに犯人を引っ掻き、血がこびりついたから切ったのだろうと思ったので」
「正解」
降参とばかりにショウキは腕をあげ、包帯に巻かれた腕を晒した。
そこには確かに、猫ではなく人による引っ掻き傷が残っていた。
「でも何でそれを最初に突きつけないかな。まあ僕も弁解はするだろうけど、状況証拠としては有力だろう?」
「削ぐなり焼くなりして怪我の原型を消してるかもしれないと思ったので」
「……証拠隠滅にそこまでやる度胸は僕には無いよ」
さらりとえげつない発言をするクランドに、もはや仮面を捨てたショウキの顔がひきつる。
「ただ動機が分からない。仮に盗作について責められたのだとしても、あなたがそんな短気をおこすとは思えない」
「それは……」
何かを言いかけて、ショウキは口を閉ざした。その際に一瞬だけユウリを見たことに、クランド以外の人間は気づいただろうか。
しばしの沈黙の後、ショウキは困ったような笑みで口を開いた。
「魔がさした……とでも言っておくよ。続きは取調室で。さっきから外で刑事さんが手ぐすね引いて待ってるみたいだしね」
「気付いてたんですか」
確かに部屋の外には、万一の備えと犯人確保のために、二宮警部補を始めとした人員がはりこんでいる。
ショウキが急に何かを諦めたのは、もしかしたらそれに気付いたためでもあるのかもしれない。
「でも捕まる前に、深海クランドくんに聞きたいことがある」
「……」
ショウキの言葉にクランドは沈黙で応える。
それを肯定と受け取ったのか、ショウキはゆっくりとその言葉を口にした。
「君はもう一度『月影』を名乗ってピアノを弾く勇気はあるかい?」
七光りも楽ではないと、ショウキは何度も口にしていた。
だからこそ聞いたのだろう。
クランドに、偉大な親の名を背負う覚悟があるのかと。
「……分かりません」
その答えに、ショウキは勝手だと知りながらも落胆した。
やはり彼も自分と同じように名に潰されるのかと。
「しかし」
クランドは言った。
「その名にこめられたのは、母の愛と絆です。名乗る事に、義務や勇気なんて必要無い」
「……そうか」
はっきりと告げたクランドを、ショウキは目を細めながら見た。
きっと月影シオンは、ピアニストとしてだけではなく、一人の母親として息子に愛情をそそいだのだろう。
だからクランドは、平然とピアノ以外の道すら歩んでいける。
「……君たちが羨ましいよ」
そう言って、ショウキは寂しげに笑った。




