ep.07 パパの回想、その1
耳の奥でゴォ……とぼやけた低い音が響いていた。
俺はうっすらと目を開ける。
……うん?
なんだ、ここは。
視界いっぱいに、水色が広がっていた。
ぼやけた視界にピントが合わず、ゆっくりと瞬きをする。
その瞬間、覚えのある違和感が走った。
この感覚、俺は知っているぞ。
遠い記憶だ。
小学生の頃に、試しにプールでゴーグルをつけずに潜り、目を開けてみた、あの時の――。
「――っ」
(そうか、水中だ!)
口から、ゴボボッと泡が漏れる。
慌てて辺りを見渡すと、そこには深く、広い海が続いていた。
誰もいない。
俺はただ一人、ゆっくりと沈んでいた。
なのに、なぜだろう、不思議と苦しくはない。
息ができる。
(上、上はどこだ)
視線を巡らせると、遠くに、ぼんやりとした白い光が見えた。
(あそこが水面か)
俺は光を目指し、夢中で泳ぐ。
なん、で。
なんでこんなことになってるんだ。
なにがあったんだっけ。
さっきまで、確か――。
……そうだ、洗濯機。
てんこともみ合いになって、吸い込まれて――。
(てんこ……!)
娘の存在を思い出し、心臓が跳ねた。
あいつも一緒に吸い込まれたんじゃ……?
俺は浮上するのをやめ、再び慌てて辺りを見渡す。
足元のずっと下の方に、何かゆらゆらと揺れている黒いものが見えた。
誰かの髪。
(……てんこ?)
俺よりも深く、海の底へ向かうように、一人の少女が沈んでいくのが見える。
力なく、ぐったりとした――。
「――っ‼」
大量の水泡とともに、音にならぬ声が口から漏れる。
俺は無我夢中で水中を搔き、娘のもとへ向かった。
沈んでいく、小さな身体。
目を閉じたまま。
……生きてる、よな。
最悪な予感が脳裏をよぎる。
俺の馬鹿野郎、てんこも巻き沿いにしてしまった。
ていうか、洗濯機に吸いこまれて、なんで海まで流れているんだよ。
混乱で感情がぐちゃぐちゃの中、俺は必死に手を伸ばす。
あと、少し。
指先が届きそう、
だが、その瞬間だった。
何かが唸るような、低い音が聞こえた瞬間、
――ゴォォォォォ
(なんだ⁉)
振り返った瞬間、背後に巨大な渦が現れた。
(っ――‼)
そのまま、凄まじい勢いの水流が俺の身体を横からさらい、視界が横転する。
(てんこ‼)
俺の叫びもむなしく泡に飲まれ、てんこの姿は遠ざかる。
嗚呼、届かない。
伸ばした手が空を切り、次の瞬間、俺の視界は白く塗りつぶされた。
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「ハッッッッ」
ガバッと勢いよく身体を起こした。
――なん、だ?
さっきまで視界を覆っていた水も、耳の奥に響いていた鈍い水音も消えている。
眩しい。
代わりに、やけに明るい光が飛び込んできて、俺は目を細めた。
夢、だったのか?
夢から覚めたのか?
だったらどこからが夢で……いや、違う――。
俺は乱れた息を整えながら、周りを見渡す。
徐々に、明るさに慣れ始め、視界がはっきりしてくる。
どこだ、ここ。
見覚えのない部屋だった。
エメラルドグリーンを基調にした広い空間。
壁には金色の装飾が施され、天井には巨大なシャンデリアが吊るされている。
部屋のあちこちに、西洋貴族のような連中の大小さまざまな大きさの写真。
俺の前に広がる長机には、立派な花が生けられた花瓶と、分厚い本が何冊も積み上がっていた。
辺りを漂うのは、紙とインクのにおい。
それから、俺の前に開かれた一冊のノート。
なんだ?
そこに並ぶ文字を見て、眉をひそめる。
見た事のない文字、なのに――。
すげぇ、俺、読めるわ。
なになに? えーっと。
“各属性における魔法基礎理論”
……は?
魔法って書いてある。
……うん⁉
「では姫様」
パニックに陥った、その時だった。
「復唱してください」
俺は、突如聞こえた、その低く、太い声にびくりとする。
顔を上げると――
「――っ⁉」
金色の毛並みに、鮮やかな緑の鬣。
眼鏡の奥には、鋭い琥珀色の瞳。
そこに立っていたのは、獅子だった。
……獅子⁉
……獅子⁉
お祭りとかで街を歩いてるやつやん⁉
俺は恐る恐る、奴の足元を覗き込む。
……こ、こやつ、普通に二足歩行で立っとるっ!
驚くべきポイントは、それだけだはなかった。
彼は、まるで人間のようだったのだ。
厚めの緑色のマントを羽織り、首元には黒いネクタイ。
しかも分厚い本まで抱えて。
獅子は右手を眼鏡に添える。
スチャッ
なんとっ。
インテリ系獅子っ。
悠然と歩きながら、獅子は本を閉じる。
「姫様? まさか、居眠りでもされていたんじゃないでしょうね」
「へ?」
……姫様?
俺と獅子は完全に目が合っていた。
俺はゆっくりと後ろを振り返る。
そこには本棚がひとつあるだけで、誰もいない。
……姫様って、俺のこと指してんだよな、多分。
混乱したまま、本棚から視線を外さないままいると、今度はそのガラス戸に映る人影を見て、俺はギョッと固まった。
俺だ。
俺は、ふらっと椅子から立ち上がり、本棚に近づくと、そのまま戸にベトッと手を付けた。
「うっそ、これ俺?」
ふと出た声に、喉をさする。
俺の声だ。
てか、顔も俺だ。
体格も、今朝鏡を見た時と変わらない。
だけども。
……俺は今、ふわっふわのピンクのドレスを身にまとっている。
レース、フリル、リボン。
七五三の時に、てんこが写真館で着ていたような、可愛いドレス。
そう、まさしくお姫様。
……キ、キモいッ!
な、なんだこれっ。
びっくりして、一瞬フリーズしちゃったよ。
我ながら、キモすぎるッ!
待って、ドレスだけじゃねぇな。
俺、化粧もしてんじゃん。
「ど、どゆことぉ……⁉」
俺は慌てて自分の頬をさわる。
感触がある。
……は、はぁっ⁉ ゆ、夢じゃないの⁉
再び、ガラス戸を見る。
うん、やっぱりいる、ムンクの叫びポーズのピンクな俺。
無理無理、視覚情報きつくて見てられん。
何、知らず知らずのうちにそんな趣味持っちゃったの、俺。
いや、認められていい時代にはなったけどさぁ。
「……リュミナ姫……リュミナ姫!」
急に大声が耳に飛び込んできて、俺は肩がビクッとなる。
呆れた顔の獅子と目が合った。
な、何て?
リュミナ姫……って誰?
「どうしたんです、いつまで夢の中にいる気ですか」
きょとんとしている俺に、獅子はやれやれと額に手を当てる。
沈黙が部屋をつつんだ。
ムシロ、ユメデアッテクレヨ……‼
「ふむ。しかし、お顔色が悪いですね、もしや体調が――」
俺の震えた声に、獅子は首をひねってこちらに近づいてくる。
やめろやめろ、近づいてくんなっ……!
得体のしれない異物に対する拒否感が俺の全身を駆け巡る。
その時だった。
「なにやら、面白いことが起きていますねぇ♡」
突然、頭上から少女の弾んだ声が降ってくる。
「――⁉」
俺と獅子は同じタイミングで天井を見上げる。
すると“彼女”は、天井の隅の暗がりから、ぬるりと現れた。
――生首⁉
なんと、少女の生首が、宙にぷかぷか浮かんだ状態で降りてくる。
逆さまの状態で、ぱっちりとした、澄んだ青い瞳が俺を覗き込んでいた。
「……あ、あぁ、あわわわわっ」
獅子を上回る衝撃に、俺は思わず腰を抜かす。
何なんだよ、獅子の次は生首ご登場って!
マジで今日何が起きてんだよ⁉
獅子が腕を組み、ジトーっと生首を睨む。
「全く。カロッソ殿、その姿で、いつも急に変な場所から現れないでと言ってますでしょう」
「いやぁ、講義中にご無礼致しました♡」
カロッソ、と呼ばれた生首は、くるりと空中で一回転し、正しい向きに直る。
「なんせ、私の首から下は別業務に従事しておりますからぁ♡ 限りある時間、コスパよく使いたいじゃないですかぁ♡」
「急にその姿で現れたら刺激が強すぎます」
――また。
俺は、目の前に広げられるノートの文字を見返す。
ここはやはり、魔法が使える世界なのか⁉
……え、何、つまり。
俺、もしかして本当に、洗濯機から別の世界に迷い込んじゃったってわけ⁉
……イヤ、ドウイウコトッ!?
そういう類の漫画や映画は、子供の頃、好きだったけど。
事故とか、家のクローゼットとか、落とし穴から、知らない世界に飛ばされるようなストーリー。
そんなの、創作だけに限った話だと思っていた。
現実世界でも起こるのかよ。
混乱で、頭が真っ白になる。
よくわからんが、今のうちに逃げよう。
そんな中でも、そういう思考になる本能だけは働いていた。
獅子と生首に挟まれて、冷静でいられるわけがない。
2人の視線が俺から外れた隙を見て、そっと立ち上がる。
そのまま音をたてぬよう、俺はヒールを脱いで裸足になると、足音を殺しながら、慎重に扉に向かった。
「それで、シシマル――」
……うん?
そしてあと少し、のところだった。
ドアノブへ手を伸ばしかけた瞬間、俺は違和感に気づく。
なんか、こう、視界の高さおかしくね?
てか、それだけじゃなくて。
いつの間にか、俺の身体は元いた場所に戻されていた。
「講義の最中で申し訳ないのですが、姫を少々お借りしてもよろしいですかぁ?」
生首の声をバックに、再び、本棚のガラス戸に俺の全身が映る。
――なんとまぁ。
どこから現れたのか、白く小さな手に、俺は首根っこ掴まれて宙吊りにされていた。
「もうっ、なんなんだよっ」
猫みたいに持ち上げられたまま、俺はじたばたもがく。
しかし、そんな抵抗もむなしく。
カロッソは目がなくなるくらい、細く笑みを浮かべて、にこやかに告げた。
「陛下がリュミナ姫をお呼びでして♡」
。・:*:・゜★,。・:*:・゜☆。・:*:・゜★,。・:*:・゜☆
重厚な扉が軋んだ音をたてて開き、俺は首根っこ掴まれたまま、廊下へ連行される。
さっきの部屋に続き、廊下にも、長く、高い、豪奢な空間が広がっていた。
やはり目につくのは、巨大なシャンデリア。
床には赤い絨毯が伸びており、窓際には、立派な花瓶やソファーが等間隔に設置されている。
うわぁ……。
城だ。
王宮だ。
こんなの、テーマパークとかでしか見たことないよ。
俺は、ちらりと横目でカロッソを見る。
「ね、ねぇ、そろそろ降ろしてくれない?」
「無理ですねぇ♡」
だって、逃げちゃうじゃないですかぁ、とカロッソがニコリ。
ず、図星ではあるけど。
「リュミナ姫、ごきげんよう」
「本日も大変、お美しゅうございますね」
廊下ですれ違うたび、侍女や兵士の格好をした人たちは当然のごとく、俺に頭を下げてくれる。
あーあ、もうやめてくれ。
情けない。
ていうか、恥ずかしい。
マジで公開処刑だよ。
生首の女の子に宙吊りで運搬されてる事実も嫌なのに、こんな姿の俺。
「マジでどうなってんだよ」
てか、お美しいって、この俺が?
女体化したおっさんじゃねぇか。
「ご覧になられますかぁ?」
ふと、カロッソが廊下に飾られた1枚の大鏡の前で立ち止まる。
「はぁ?」
……なんだっていう……。
思わず言葉を失った。
何気なく覗き込んだ鏡の中に、俺はいない。
「こちら鏡に魔法をかけ、私以外から見えるあなた様の容姿を映し出しているのですぅ♡」
俺の代わりに映っていたのは、銀髪がゆらりと揺れる、美少女。
陶器のような白い肌、宝石のような深い緑色の瞳、華奢な身体。
「な、なんというか……」
ピンクのドレスがよく似合うわ、俺。
「あの、さ、君ってもしかして俺の現状、全部知ってたりする?」
俺は引きつった顔でカロッソを見上げる。
最初に会った時、“面白いことが起こってる”って言ってたし。
今だって、“私以外が見える容姿”って。
「もし知ってたら、教えてほしいんだけど」
「“君”じゃない、カロッソですぅ♡」
生首の少女はぷっくりと頬を膨らます。
「あなたの目には、お子様に見えるかもしれませんが、こう見えて私、何億年も生きておりますからぁ♡」
「……何億年⁉」
思わず変な声が出る。
お、おばあちゃんってコト⁉
ていうか、おばあちゃんっていう次元でもないのか。
もはや世界遺産か。
カロッソは満足そうに頷く。
「私はカロッソ、あなた様の今の御姿である、リュミナ姫のお側に仕える者でございます」
そしてカロッソは、何か考えるように、一瞬ふむぅと唸る。
「本来なら順を追って丁寧に説明したいところではあるのですが、こちらにも時間がございませんので」
なんだろう、嫌な予感。
「ご無礼お許しください♡」
そう言ってカロッソは、俺を宙に放り投げた。
「うおっい⁉」
そのまま、すっとカロッソの人差し指が俺の額に触れる。
瞬間。
「――っ⁉」
大量の情報が脳内へ雪崩れ込んでくる。
アルメシア王国、
魔法の世界、
リュミナ姫として生きた記憶、
家族、
言葉、
常識、
文化、
魔法の知識、その使い方、
そして、異世界転生、
見知らぬデータが一気に流し込まれる。
「ぐっ、あぁぁぁ」
処理が追い付かず、頭が割れそうになるほど痛い。
しかし徐々に、そのデータが自然と理解できるようになってくる。
「さて、理解できましたかぁ?」
いつの間にか俺は床に膝をつき、荒い息を吐いていた。
変な、感じだ。
俺じゃない、でも間違いなく俺が生きた人生のデータがこの体に染みこんでいく。
2人の俺がいる。
「……てかカロッソはなんで、俺のこと知ってんの? それに、おっさんとしての姿も見えてるし……」
「先ほどお伝えしましたでしょう♡ 私は何億年も生きている身ですぅ。私のような高位存在には、あなた様の本来の姿、データも得ることができるんですよぅ」
さぁ、と。
カロッソは俺に手を差し出す。
「こちらも色々と事情がございまして、あまり時間がないのですぅ。別世界に迷い込んで混乱の最中、こんな目に合うなんて、少し可哀そうですが♡」
別世界に放り込まれ、わけもわからず俺は姫になっていた。
そんなの、もう、混乱でしかない。
ただ。
こちらの世界と、もう1人の俺を自分のものと捉えてしまった以上、逃げようという気力は湧かなかった。
俺は観念し、カロッソの宙に浮かんだ手を握る。
「俺、元の世界に帰れるんかな?」
「異世界転生自体、そう滅多に起こる現象ではありませんから。なぜ、どうやって迷い込んだのか、どのような条件で帰れるのか、申し訳ないのですが、見当もつきません。ただ――」
そこでカロッソが言葉を区切り、
「長くこちらにいれば、あなた様の精神がこちらの世界に染まってしまい、いずれ完全にリュミナ姫として定着する可能性があります。記憶も、感覚も」
う、うそだろ。
俺は言葉を失う。
込み上げてくる吐き気を、慌てて飲み込む。
俺が、俺じゃなくなるのか……?
もう1度、大鏡を覗き込む。
俺が、この少女に生まれ変わっちまうってこと?
この少女でしか生きられないってこと?
脳裏に向こうの世界の家族の顔が浮かぶ。
……そうだ。
「娘も……!」
俺は顔を上げる。
「娘も、もしかしたら一緒にこの世界に来ているかもしれないんだ」
どうしてこんな大切なこと、忘れていたんだろう。
カロッソは少しだけ笑みを薄める。
「……どうも、お互い時間がないようですねぇ♡」
行きましょう、とカロッソは俺を促す。
てんこ……。
どこにいるんだ。
無事なんだろうな。
俺も。
どうなっちゃうんだ、この先。
なんで、こんなことに。
汗ばむ手を握る。
その先にある、
リュミナ姫の父親、アルメシア国王が待つ部屋の、重い扉を見据えて。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけましたでしょうかっ。
察しのいい方はお分かりかと思いますが、その1があれば、その2も必然的にございまして。
そういうわけで、次回、ep.8は【パパの回想、その2】です。
ぜひ、お手すきの際に、よろしくお願いいたします。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします♪




