星の魔女3
星の魔女3
迷ってから何日経ったのか分からなかった。
最初の頃は数えていた気がする。一日、二日、三日。けれど遺跡の中には朝も夜もなく、同じような景色ばかりが続いていたせいで途中から分からなくなってしまった。腹が減って眠くなり、少し休んだと思ったらまた歩く。そんなことを繰り返しているうちに、時間というものが少しずつ曖昧になっていったのだ。
食べ物はもう残っていない。最後の干し肉を食べたのがいつだったのかも思い出せなかった。
あるのは地下水だけだった。
遺跡の奥を流れる細い水路から汲んだ水は冷たくて驚くほど美味しい。それなのに飲めば飲むほど空っぽの胃だけが余計に存在を主張してきて、腹の奥がきりきりと痛んだ。
服もまだ乾いていなかった。
雨に濡れた時の冷たさはとっくに消えたと思っていたのに、湿った布はずっと肌に張り付き続けていて、歩く度に体温を少しずつ奪っていく。指先の感覚も薄れていて、握った拳にちゃんと力が入っているのか時々分からなくなるほどだった。
寒かった。
前を歩くウィズの背中を見る。
いつもならもっと大きく見えるはずなのに、今はどこか頼りなく見えた。肩は少し下がっているし、足取りだって軽くはない。それでもウィズは弱音を吐かなかったし、振り返ればいつも通りの顔をして「大丈夫だ」と言うのだろう。
大丈夫な訳がない。
お腹は空いているし、寒いし、疲れている。
それはウィズだって同じはずだった。
それでも前へ進み続けるのは、立ち止まるのが怖かったからだと思う。一度座ってしまえば、そのまま動けなくなってしまいそうだった。出口が本当にあるのかなんて分からない。それでも進まなければ、本当にこの遺跡の中で終わってしまうような気がして怖かった。
だから歩く。
ウィズの後ろを。
ただ必死に歩き続ける。
その時だった。
急に足が重くなった。
まるで見えない誰かに掴まれたみたいに膝が動かない。一歩前へ出そうとしても力が入らず、体だけがその場に置き去りにされていくような感覚がした。
おかしい。
まだ歩けるはずだった。
あと少しだけ頑張ればいい。
そう思っているのに体は言うことを聞いてくれない。
「ナラン?」
前を歩いていたウィズが振り返る。
返事をしようと口を開いた瞬間、視界が大きく揺れた。
世界が傾く。
壁も床も天井もぐにゃりと歪み、何が上で何が下なのか分からなくなる。
次の瞬間には冷たい石の感触が頬に伝わっていた。
倒れたらしい。
不思議と痛みはなかった。
ただ体が熱かった。
それなのに寒かった。
額は焼けるように熱いのに、背中には氷を押し付けられているみたいな寒気が走り続ける。歯は勝手に鳴るし、息をするだけで喉が痛い。頭の奥では鐘みたいな音が鳴っていて、何かを考えようとしても上手くまとまらなかった。
「おい。」
ウィズの声が聞こえる。
遠かった。
「ナラン。」
もっと遠かった。
肩を揺すられている感覚だけは分かるのに、目を開けることすら出来ない。
「しっかりしろ。」
無理だった。
そんなことが出来るなら最初から倒れていない。
そう言い返してやりたかったが、上手く口が動かなかった。唇を動かしたつもりなのに声にならず、代わりに熱い息だけが喉の奥から漏れていく。
体は鉛でも詰め込まれたみたいに重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。そのくせ額だけは異様に熱く、頭の奥では鐘を鳴らし続けるような鈍い痛みが響いている。
気持ち悪かった。
息を吸うたび喉がひりつき、肺の奥まで熱が入り込んでくるような感覚がした。何も考えたくないし、何も聞きたくない。ただこのまま眠ってしまいたかった。
その時、額に冷たい感触が触れた。
水に濡らした布だろうか。
じりじりと熱を持っていた皮膚から少しだけ熱が逃げていき、それだけで張り詰めていたものが少し緩む。
心地よかった。
そのまま意識を手放そうとした瞬間、近くで何かが倒れる音がした。
ごとり、と鈍い音がして、その後に小さな舌打ちが聞こえる。
珍しいなと思った。
ウィズはあまりそんな音を出さない。
だから気になって目を開けようとしたが、瞼は張り付いたみたいに重く、結局何も見えなかった。
代わりに聞こえてきたのは声だった。
頼むから起きてくれ。
そんな言葉だった気がする。
掠れていて、疲れていて、今にも消えてしまいそうな声だった。
ああ、心配をかけているんだなとぼんやり思う。
ウィズはずっと起きているのだろうか。
水を探して。
私を運んで。
熱を下げようとして。
こんな暗い遺跡の中で一人頑張っているのだろうか。
そう考えると胸の奥に小さな石が落ちたみたいに重たいものが残った。
ごめん。
そう言おうとした。
結局声にはならなかったけれど。
その後も意識は浮かんだり沈んだりを繰り返していた。目を覚ましたと思った次の瞬間にはまた眠っていて、どれだけ時間が過ぎたのかも分からない。ただ、その度に聞こえてくる音だけは変わらなかった。
水の流れる音。
布を絞る音。
そして時々聞こえるウィズのため息。
その音を聞くたびに少しだけ安心した。
ああ、まだいるんだなと思った。
気が付くと私はまた眠っていて、次に目を開けた時には少しだけ頭が軽くなっていた。熱に浮かされていた時のぼんやりした感覚も薄れていて、天井の石の模様まではっきり見える。
ゆっくり体を起こす。
まだ力は入らなかったが、倒れる前よりはずっとましだった。
その時、すぐ隣から小さな寝息が聞こえた。
振り向く。
ウィズだった。
壁にもたれたまま座っている。
いや、座ったまま眠っていた。
手には濡れた布が握られたままで、その足元には何度も水を汲みに行ったのだろう桶が転がっている。
顔色はひどかった。
目の下には濃い隈が出来ていて、髪も乱れている。
普段なら絶対に見せない顔だった。
なんだか胸の奥が少しだけ重たくなる。
私が寝ている間、ずっと起きていたのだろうか。
何度も水を汲んで。
何度も様子を見て。
熱が下がるのを待っていたのだろうか。
そう考えると落ち着かなかった。
私はそっと手を伸ばし、ウィズの肩を軽くつついた。
反応はない。
もう一度つつく。
今度は少し強めに。
「……ん。」
眠そうな声が漏れる。
さらにもう一回。
「起きて。」
ようやくウィズが目を開いた。
焦点の合わない目がこちらを向く。
それから数秒遅れて状況を理解したらしい。
驚いたように目を見開いた。
「ナラン……。」
掠れた声だった。
「元気。」
言ってみる。
実際はそこまで元気ではなかったが、多分こう言った方が安心すると思った。
ウィズはしばらく私の顔を見つめていた。
そして大きく息を吐く。
張り詰めていたものが一気に抜けたような息だった。
「そうか。」
たったそれだけだった。
でもその一言に、何日分もの疲れが混ざっているような気がした。
しばらく二人とも何も喋らなかった。
遺跡の中を流れる水の音だけが聞こえている。
やがてウィズが立ち上がった。
少しふらついていた。
多分私より疲れている。
「出口探すか。」
そう言って笑う。
いつもの笑顔だった。
でもその笑顔が少しだけ無理をしていることくらい、今の私にも分かった。
だから何も言わなかった。
代わりに立ち上がる。
足はまだ重かったが、歩けないほどではない。
今度は私がちゃんと歩かなければいけない。
ウィズだけに頑張らせる訳にはいかなかった。
そうして私達は再び遺跡の奥へと歩き始めた。
どこまで続くのかも分からない石の通路を進みながら、私は何度も前を歩くウィズの背中を見ていた。
その背中は相変わらず頼りなくて、どこか放っておけなくて。
それでも今は、その背中が見えるだけで少し安心できた。
暫くして頬を撫でた風に気付いた瞬間、それまで遺跡の中に淀み続けていた空気が少しだけ動いた気がした。地下水の匂いでも湿った石の匂いでもない。土と草の匂いを含んだ外の空気が確かに流れ込んできていて、その風を吸い込んだだけで肺の奥に張り付いていた重苦しさが少しだけ薄れていく。
前を歩いていたウィズも同じことに気付いたらしい。疲労で俯いていた顔を上げると、乾いた唇の端に小さな笑みを浮かべながら何度も周囲を見回していた。その表情を見ただけで胸の奥が熱くなる。
ここから出られる。
その考えが頭を過った途端、それまで当たり前になっていた空腹や疲労の存在が急に遠くなった。もちろん体は何も回復していない。足は重いままだし、何日もまともな食事をしていないせいで力も入らない。それでも出口が近いという事実だけで、人はもう少しだけ頑張れてしまうらしい。
だから私達は足を速めた。
風は確実に強くなっている。遺跡の奥から流れ込んでくる空気には草の匂いが混じり始めていて、その度にザザバンジュ村の景色が頭に浮かんだ。宿屋のおばさんの料理も、広場で遊ぶ子供達の声も、今までは当たり前だったのに随分遠い場所の出来事だったような気がする。
あと少し。
本当にあと少しなのだと思う。
その時、足元から伝わってきた違和感に思わず顔を上げた。
最初は小さな振動だった。疲れで足がふらついたのかと思ったが違う。壁に手を触れた瞬間、その震えが石を伝って掌まで届いてきた。
遺跡そのものが揺れている。
そう理解した直後、天井のどこかで石同士が擦れ合う音が響いた。
長い年月を耐え続けてきた建物が軋むような音だった。
壁の隙間から砂が零れ落ちる。
一粒。
二粒。
その量はあっという間に増えていき、やがて雨みたいに頭上から降り始めた。
ウィズの顔色が変わる。
私も同時に理解した。
ここはもう駄目なのだ。
轟音が響いたのはその直後だった。
天井の一部が崩れ落ち、人の頭ほどもある石が床へ叩きつけられる。その衝撃で足元が大きく跳ね上がり、壁に走った亀裂は蜘蛛の巣みたいに広がりながら遺跡全体へ伸びていく。
逃げなければならない。
けれど逃げ道そのものが崩れ始めていた。
右で石が落ちる。
左で壁が砕ける。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音が途切れることなく続き、視界の端では次々と巨大な岩が落下していく。
そんな中で見上げた先にあった巨大な影だけが、不思議なくらい鮮明に見えた。
天井から剥がれ落ちた岩だった。
真っ直ぐこちらへ落ちてくる。
避けなければならないのに体は動かなかった。
疲労で足が止まったのか、恐怖で動けなくなったのかは分からない。ただ視界いっぱいに広がる岩の影だけを見上げながら、自分でも驚くほど何も考えられなくなっていた。
空白行を除いた版。
時間が止まったように思えた。
頭上から落ちてくる岩の影だけが異様にはっきり見えていて、その向こうで遺跡全体が崩れ始めているはずなのに、不思議なくらい音が遠かった。
逃げなければならない。
そう理解しているのに足は動かない。
何日も歩き続けた足は鉛みたいに重く、力を入れようとしても膝が頼りなく震えるばかりだった。
視界いっぱいに広がる岩の影がどんどん大きくなる。
このまま潰されるのだろうかと考えた瞬間、誰かが私の名前を叫んだ。
聞き慣れた声だった。
けれど今まで聞いたことがないほど必死な声だった。
次の瞬間には肩に強い衝撃がぶつかり、景色がぐるりと回転する。
石の床へ投げ出された体は何度も転がり、その度に腕や背中へ痛みが走ったが、痛みを感じるより先に耳を裂くような轟音が全てを飲み込んだ。
岩が砕ける音。
壁が崩れる音。
石同士がぶつかり合う音。
それらが一度に押し寄せ、遺跡そのものが悲鳴を上げているみたいだった。
舞い上がった砂煙が視界を真っ白に染める。
息を吸えば喉の奥が焼けるように痛み、咳き込むたび肺の中まで砂が入り込んでくる気がした。
どれほど続いたのだろう。
実際にはほんの数秒だったのかもしれない。
それでも私には永遠みたいに長かった。
やがて轟音が遠ざかり始める。
崩落の音が消え、耳鳴りだけが残る頃には、遺跡の中は気味が悪いほど静かになっていた。
私は咳き込みながら体を起こした。
肩も足も痛かったが、そんなことはどうでもよかった。
胸の奥で膨らみ続ける嫌な予感だけが、呼吸のたびに大きくなっていく。
振り返らなければならない。
けれど振り返りたくなかった。
もし考えている通りだったら。
もしあの声の主が。
そんな考えが頭を過るたび、心臓がぎゅっと掴まれたみたいに痛む。
それでも目を逸らすことは出来なかった。
ゆっくり顔を上げた先には、さっきまで通路だった場所がある。
いや、あったはずだった。
今そこにあるのは崩れ落ちた岩の山だけで、出口へ続いていた道は跡形もなく埋まっている。
視線が岩の隙間を彷徨う。
そして見つけてしまった。
見慣れた手を。
ごつごつしていて、傷だらけで、気付けばいつもガラクタを抱えている手を。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
気付けば走り出していた。
岩につまずいて転ぶ。
掌を切る。
膝をぶつける。
それでも立ち上がる。
重たい岩に手を掛ける。
持ち上がらない。
それでも押す。
腕が震える。
息が切れる。
視界が滲む。
それでも止まれない。
お願いだから。
お願いだから。
そんな言葉だけを繰り返しながら岩をどけ続ける。
ようやく最後の一つを押し退けた時、その下から現れた姿を見て胸の奥が冷たく沈んだ。
肩は大きく裂けていた。
脇腹には鋭く砕けた岩が深く食い込み、そこから流れ出た血が服を濡らし、石畳の隙間へゆっくり広がっている。
さっきまで歩いていた。
出口が見つかったと笑っていた。
あと少しだった。
本当にあと少しだったのだ。
震える手で肩に触れる。
まだ温かい。
その温もりに安堵しかけた瞬間、それが流れ出している血の温度なのだと気付き、全身から血の気が引いていった。
どれだけ布を押し当てても血は止まらない。
巻いた端から赤く染まり、手の隙間から滲み出た血が指を伝って落ちていく。
目の前で命が零れている。
それだけは嫌というほど分かった。
けれど薬はない。
食べ物もない。
助けを呼びに行くには遠すぎる。
どうすればいいのか分からないまま、弱々しく上下するウィズの胸だけを見つめていると、胸の奥で何かがぎりぎりと音を立てながら壊れていく気がした。
私は何度も布を巻き直した。
血で濡れた布を外し、新しい布を押し当て、震える指で結び直す。
それでも血は止まらなかった。
押さえた掌の下で脈打つように溢れ出し、せっかく巻いた布をあっという間に赤く染め上げていく。
最初のうちは必死だった。
次は上手くいくかもしれない。
今度こそ止まるかもしれない。
そんな希望がまだ残っていた。
けれど何度繰り返しても結果は同じだった。
布は赤く染まり、床には血が広がる。
また巻く。
また染まる。
また巻く。
また染まる。
まるで終わらない悪夢だった。
気付けば私の手も服も血だらけになっていた。
どこからがウィズの血で、どこからが自分の血なのかも分からない。
指先は擦り切れて痛いはずなのに、その痛みさえもう遠かった。
ただ目の前で少しずつ広がっていく赤だけが現実だった。
嫌だった。
見たくなかった。
それなのに目を逸らすことが出来ない。
逸らした瞬間、本当に全部終わってしまう気がした。
「ウィズ。」
呼んでみる。
返事はない。
さっきから何度も呼んでいる。
何十回も。
何百回も。
けれど返事は一度も返ってこない。
肩を揺する。
頬に触れる。
名前を呼ぶ。
何も変わらない。
微かに上下していた胸も、さっきより動きが小さくなっている気がした。
いや。
気のせいじゃない。
本当に弱くなっている。
その事実に気付いた瞬間、胃の奥が冷たく縮んだ。
助けを呼びに行こうかとも思った。
ザザバンジュ村へ戻れば誰かいるかもしれない。
薬を持っている人がいるかもしれない。
けれど駄目だった。
ここへ来るだけで何日かかったか分からない。
戻る時間なんてない。
往復している間に全部終わる。
それくらいは私にも分かった。
だから動けなかった。
何をしても間に合わない。
そんな考えが頭の中へ入り込んできて、少しずつ、少しずつ心の奥を削っていく。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
そんな言葉ばかりが浮かぶ。
でも現実は変わらない。
目の前では血が流れている。
その血は止まらない。
ウィズは目を覚まさない。
どれだけ呼んでも。
どれだけ願っても。
どれだけ泣いても。
何も変わらない。
ふと。
焚き火の前で笑っていた顔が浮かんだ。
両親に会いたいんだと言った夜だった。
少しだけ寂しそうで。
少しだけ恥ずかしそうで。
それでも夢を語っていた。
奇跡の遺物を見つけるんだって。
絶対に見つけるんだって。
あんなに楽しそうに話していたのに。
まだ何も見つけていないのに。
まだ旅だって始まったばかりなのに。
どうして。
どうしてここで終わるのだろう。
胸の奥で何かが崩れる。
大事なものが音を立てて壊れていく。
呼吸が上手く出来ない。
涙で前も見えない。
それでも目の前の現実だけは消えてくれなかった。
私には何も出来ない。
助ける方法なんて分からない。
頑張っても駄目だった。
考えても駄目だった。
どれだけ手を伸ばしても届かない。
その事実だけが重たい石みたいに胸の上へ乗っかってきて、気付けば私はウィズの胸に顔を埋めるようにして泣いていた。
嫌だった。
本当に嫌だった。
世界なんてどうでもいい。
記憶なんていらない。
遺跡なんてどうでもいい。
奇跡の遺物なんていらない。
だから。
だからお願いだから。
この人だけは。
この人だけは連れて行かないで。
遺跡は静かだった。
返事をする人もいない。
奇跡が起きる気配もない。
ただ私の嗚咽だけが石壁に反射して、情けないくらい小さく響いていた。
当たり前だった。
願っただけで人が助かるなら誰も苦労しない。
死ななくて済むなら誰も泣かない。
そんなことくらい分かっている。
分かっているのに。
それでも願わずにはいられなかった。
ウィズの手を握る。
冷たくなっていた。
さっきまで温かかったはずなのに、指先から少しずつ熱が失われていくのが分かる。
嫌だった。
怖かった。
離したくなかった。
けれど握れば握るほど、その温度が失われていくことだけがはっきり伝わってくる。
胸の奥がぐしゃぐしゃになる。
私はこの感覚を知らなかった。
誰かを失うかもしれない恐怖も。
その人がいなくなった後に残る寂しさも。
知らなかった。
だって私は何も持っていなかったからだ。
家族も。
故郷も。
思い出も。
記憶さえなかった。
空っぽだった。
何も持たないまま遺跡で目を覚ました。
だから失うものなんてないと思っていた。
けれど違った。
気付いていなかっただけだった。
いつの間にか。
本当にいつの間にか。
この人は私の中にいた。
宿屋でご飯を食べた時も。
祭りの日も。
くだらない話をしながら歩いた道も。
焚き火の前で夢を語った夜も。
全部そこにいた。
当たり前みたいに。
最初からそうだったみたいに。
だから。
だから失いたくなかった。
胸の奥が痛い。
呼吸をするたびに何かが裂けていくみたいだった。
涙で視界が滲む。
何も見えない。
それでもウィズの手だけは離せなかった。
もしここで手を離したら、本当にどこかへ行ってしまう気がした。
「起きてよ。」
声が震える。
「まだ遺物も見つけてないじゃん。」
返事はない。
「両親に会うんでしょ。」
返事はない。
「会いたいって言ったじゃん。」
返事はない。
静かだった。
静かすぎた。
その静寂が怖かった。
どれだけ呼んでも返ってこない現実を突き付けてくる。
私は唇を噛んだ。
血の味がした。
それでも涙は止まらない。
止まる理由がなかった。
どうして私なんだろうと思った。
どうしてウィズなんだろうと思った。
どうしてこんなことになったんだろうと思った。
考えても答えは出ない。
出るはずもない。
世界は何も答えてくれない。
星も。
空も。
神様も。
誰も。
誰一人として。
だから私は顔を伏せた。
ウィズの胸に額を押し当てる。
弱々しい鼓動が聞こえる。
小さい。
本当に小さい。
今にも消えてしまいそうな音だった。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
そんな言葉だけが心の奥から溢れ続ける。
助けたい。
違う。
そんな綺麗な言葉じゃなかった。
失いたくない。
いなくならないでほしい。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
もっと笑っていてほしい。
ただそれだけだった。
その願いだけが胸の奥で膨らみ続け、やがて息をするのも苦しくなるほど大きくなっていく。
そしてその瞬間。
何かが変わった。




