星の魔女4
星の魔女4
そしてその瞬間、何かが変わった。
最初に変わったのは音だった。遺跡の奥で滴っていた水音も、私の喉から漏れていた嗚咽も、ウィズの弱々しい呼吸さえも、薄い膜の向こう側へ押しやられたみたいに遠ざかっていく。静かになったのではない。世界の方が、私の声を聞くために息を潜めたような気がした。
涙で滲んでいた視界の中で、石壁がゆっくりと歪んだ。崩落で壊れたわけではない。熱で揺れているわけでもない。まるで水面に映った景色を指先でなぞったみたいに、遺跡の輪郭が頼りなく揺らぎ、その揺らぎの奥から見えない波が何度も押し寄せてくる。私は何が起きているのか分からなかった。分からないのに、その波が自分の胸の奥から広がっていることだけは、なぜかはっきり分かった。
握っていたウィズの手が少しだけ震えた気がして、私は息を呑んだ。けれどそれはウィズが目を覚ましたからではなかった。私の手が震えているのでもなかった。血に濡れた指先のさらに奥、骨の中、胸の底、名前のない場所で何かが脈打っている。心臓とは違う。呼吸とも違う。私の体の中にあるはずのない何かが、ずっと昔からそこにいたみたいな顔をして目を覚まそうとしていた。
怖いと思う余裕はなかった。目の前にはウィズがいて、血はまだ止まらず、胸の上下は今にも消えそうなほど小さくなっている。奇跡が起きるなら早くしてほしい。神様でも、星でも、悪魔でも、何でもいいから今すぐ手を伸ばしてほしい。そう思ったはずなのに、次の瞬間には違うと分かった。誰かが助けてくれるのを待っている時間なんて、もうどこにも残っていなかった。
私が助けるしかなかった。
その考えが胸の奥に落ちた瞬間、遺跡の空気が大きく震えた。砕けた石の隙間に溜まっていた水が細かく波立ち、床に広がっていた血が赤い鏡みたいに揺れる。私の髪がふわりと浮き、濡れた服の裾が見えない風に撫でられた。どこからともなく淡い光が滲み始める。白でもなく、金でもなく、星明かりを水に溶かしたような色だった。
その光は眩しくなかった。むしろ暗い遺跡の中で、ずっとそこにあったものがようやく見えるようになっただけのように思えた。石壁の傷にも、崩れた柱にも、床に散った砂にも、ウィズの血で濡れた布にも、細い光の筋が絡みついている。世界は空っぽではなかった。何も答えてくれないと思っていたこの場所にも、見えない何かが満ちていたのだと、その時の私は理屈ではなく肌で知った。
胸の奥が熱くなる。けれどそれは熱病の熱ではなかった。痛みでもない。私の中に入り込んできた何かが、私の願いを燃やしているようだった。失いたくない、いなくならないでほしい、まだ隣を歩いてほしい。ぐちゃぐちゃだったはずの感情が、ひとつの形になっていく。言葉にすればあまりにも小さくて、みっともなくて、子供みたいな願いだった。
生きていてほしい。
ただそれだけだった。
その願いに触れた瞬間、光が私の手から溢れた。驚いて手を引こうとしたけれど、もう遅かった。血に濡れた指先から細い星の粒みたいな光がこぼれ、ウィズの傷口へ吸い込まれていく。裂けた肩の肉が淡く輝き、脇腹に食い込んだ石の周りで赤黒く固まりかけていた血が、ゆっくりと色を失っていった。
何が起きているのか分からなかった。分からないのに、止めてはいけないことだけは分かった。私は震える手でウィズの傷へ触れ続けた。掌の下で何かが繋がっていく感覚がある。切れた糸を一本ずつ結び直すように、こぼれ落ちた命を両手ですくい上げるように、私の中から流れ出した光がウィズの体の中へ沈んでいく。
遺跡が震えていた。崩れているのではない。泣いているのでもない。長い間閉ざされていたものが、ようやく息をしたみたいに震えていた。石壁に刻まれた古い模様が淡く浮かび上がり、読めないはずの文字が星屑のように瞬いている。私はそれを綺麗だと思った。こんな時なのに、ウィズが死にそうなのに、それでも綺麗だと思ってしまった自分が少しだけ嫌だった。
けれど目を逸らせなかった。
光は強くなっていく。私の体の奥から何かが引き抜かれていくような感覚があった。力が抜ける。息が苦しくなる。視界の端が白く滲む。それでも手を離すことだけは出来なかった。ここで離したら全部終わる。そう分かっていたから、私は自分の中身が空っぽになっていくような感覚に耐えながら、ただウィズの傷へ手を当て続けた。
やがて、掌の下で小さく何かが跳ねた。
それは本当に僅かな動きだった。けれど私は気付いた。ウィズの胸が、さっきよりも深く上下したのだ。止まりかけていた呼吸が、細く、頼りなく、それでも確かに戻ってくる。喉の奥から掠れた息が漏れ、青白かった頬にほんの少しだけ血の気が差した。
私は声を出せなかった。
泣きすぎて喉が潰れていたのか、体から力が抜けすぎていたのか、それすら分からなかった。ただ目の前で、さっきまで零れ落ちていた命がほんの僅かに繋ぎ止められている。その事実だけが、崩れかけていた私の心をぎりぎりのところで支えていた。
光はまだ消えない。私の手から、胸から、涙から、声にならなかった願いから、次々と溢れ続けている。遺跡の奥で何かが鳴った。鐘のような音だった。あるいは、星が瞬く音だったのかもしれない。どちらでもよかった。私には何も分からない。
この日、この場所で、私は何かをしてしまった。
人がしてはいけないことだったのかもしれない。世界の決まりを壊したのかもしれない。けれどそんなことはどうでもよかった。ウィズの呼吸が戻っている。まだ生きている。それだけで、私にとっては全部だった。
その事実を理解した途端、それまで感じていなかった疲労が津波みたいに押し寄せてきた。
腕に力が入らない。
肩が重い。
呼吸をするだけで肺が痛い。
何日も遺跡を彷徨い続けた疲労も、熱に浮かされていた時間も、崩落の恐怖も、失うかもしれない絶望も、その全部が今になって一斉に体へ戻ってきたみたいだった。
私はウィズの胸へ額を押し当てた。
鼓動が聞こえる。
弱々しいけれど確かに聞こえる。
その音だけで十分だった。
もう何も考えられなかった。
ただ胸の奥に積み上がっていた感情が決壊した堤防みたいに溢れ続けていた。
世界は静かだった。
遺跡も。
光も。
痛みも。
全部が少しずつ遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、とくん、と鳴る小さな鼓動だった。
それは今まで聞いたどんな音よりも優しくて、どんな言葉よりも安心できる音だった。
だから私は、その音に身を委ねるようにして意識を手放した。
気が付くと、私は見知らぬベッドの上で眠っていた。
最初は自分がどこにいるのか分からなかった。背中を包む柔らかな感触に違和感を覚えながらぼんやりと天井を見上げる。木だった。遺跡の冷たい石ではない。陽の光を浴び続けてきた色合いの木材が頭上に広がっていて、その隙間から差し込む柔らかな光が揺れている。
夢だろうかと思った。
けれど鼻先を掠めた薬草の匂いが妙に生々しくて、窓の外から聞こえる鳥の鳴き声も、どこかで誰かが話している声も、全部が現実だった。
そこで私は思い出す。
遺跡。
崩落。
血。
光。
そして――ウィズ。
心臓が大きく跳ねた。
さっきまで曖昧だった意識が一瞬で覚醒する。
私は勢いよく体を起こそうとして、頭の奥に走った痛みに顔を歪めた。視界がぐらりと揺れる。それでも構わなかった。
ウィズはどうなったのだろう。
生きていたはずだ。
確かに鼓動を聞いた。
呼吸も戻っていた。
でもその後は。
その後どうなったのか何も覚えていない。
助かったのだろうか。
ほんとうに助かったのだろうか。
もしあれが最後だったら。
そんな考えが頭を過った瞬間、胸の奥が嫌な音を立てながら縮こまる。
私は毛布を掴んだ。
落ち着こうとしても無理だった。
鼓動が速い。
呼吸も浅い。
今すぐ探しに行かなければならない気がした。
その時だった。
部屋の外から足音が聞こえてきた。
木の床を踏む軽やかな音だった。
ひとつ。
ふたつ。
ゆっくり近付いてくる。
私は息を止めた。
誰だろう。
ここはどこなのだろう。
私はどれくらい眠っていたのだろう。
次々と疑問が浮かぶ。
けれど一番知りたいことは一つしかない。
ウィズは生きているのか。
それだけだった。
足音が扉の前で止まる。
静寂が落ちる。
ほんの数秒だったはずなのに、やけに長く感じた。
そして。
ばんっ、と勢いよく扉が開いた。
思わず肩が跳ねる。
差し込んできた光に目を細めながらそちらを見ると、そこには見たことのない少女が立っていた。
私より少し年上だろうか。
陽に焼けた麦色の髪を後ろでひとつに束ねていて、肩まで捲り上げた服の袖からは健康的な腕が覗いている。大きな瞳は驚くほど生き生きとしていて、まるで野山を駆け回る小動物みたいに落ち着きがない。
少女は私を見るなり目を見開いた。
そして次の瞬間には顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「あっ!」
元気の塊みたいな声だった。
私は呆気に取られる。
少女はそんなことお構いなしに部屋へ飛び込んでくると、今にも私へ抱きつきそうな勢いで身を乗り出した。
「起きた! 本当に起きた! おじいちゃん! おじいちゃーん! あの子起きたよー!」
そのまま廊下へ向かって叫ぶ。
私はぽかんと口を開けたまま固まっていた。
何が起きているのか分からない。
知らない少女。
知らない部屋。
知らない声。
頭が追いつかない。
けれどそんな混乱の中でも、一つだけ聞かなければならないことがあった。
私は乾いた唇を動かす。
掠れた声が喉から漏れた。
「……ウィズは」
少女が振り返る。
きょとんとした顔をする。
そして。
何でもないことのように答えた。
「ん? 一緒に運ばれてきたお兄さんなら生きてるよ?」
その言葉を聞いた瞬間、私は全身から力が抜けていくのを感じた。
張り詰めていた糸がようやく切れたみたいだった。
窓の外では風が吹いている。
鳥が鳴いている。
誰かが笑っている。
当たり前の音が、どうしようもなく遠くて、どうしようもなく温かかった。
続きは、ムギの明るさで一度空気を緩めつつ、ナランの不安が完全には消えないようにして、コマンドルフとウィズの現状へ繋げる。
その温かさに触れた途端、張り詰めていた体から力が抜けて、私は毛布の上に手をついたまましばらく動けなかった。少女の言葉は確かに聞こえたはずなのに、胸の奥ではまだ疑うような何かがくすぶっていて、生きているという一言だけでは足りず、この目で見なければ本当に安心することなんて出来そうになかった。
「……会える?」
掠れた声でそう尋ねると、少女は一瞬だけ目を丸くした後、私の顔色を見て少しだけ慌てたように両手を振った。
「会えるよ、会えるけど、今すぐ飛び出すのは駄目。十日も眠ってたんだから、いきなり動いたらまた倒れるって。あ、私はマフェルト・ムギルフ。ムギって呼んで!」
ムギと名乗った少女の声は不思議なくらいよく通り、さっきまで部屋に満ちていた不安を窓から追い出すみたいに明るかった。けれど私の胸の奥にあるものは簡単には消えてくれず、私は彼女の言葉の中から必要な部分だけを拾い上げるようにして、十日、という音を頭の中で何度も繰り返した。
十日。
そんなに眠っていたのだろうか。遺跡の中で時間の感覚を失ってから、どれだけ歩いたのかも分からなかった私にとって、十日という長さは上手く形にならなかった。ただ、ウィズがその間ずっと目を覚ましていたのか、それとも私と同じように眠っていたのか、それを考えた瞬間に胸の奥がまたきゅっと縮んだ。
「ウィズは……起きてるの?」
「起きてるよ。むしろ寝ろって言っても寝ないくらい。怪我人なのにおじいちゃんに剣を教えてくれって頼み込むし、あれはちょっと面倒くさいタイプの真面目だね」
ムギは呆れたように肩をすくめてみせたけれど、その目元には悪意ではなく、どう扱えばいいか分からない人を心配するような柔らかさがあった。私はその表情を見て、ウィズがここで乱暴に扱われているわけではないのだとようやく少しだけ理解した。
「怪我は」
「彼なら大丈夫。傷も塞がってる。ただ、無茶したぶん体はまだ全然戻ってない。普通なら寝台でじっとしてるところなのに、本人は何かしてないと落ち着かないみたいでさ」
ムギの声がそこで少しだけ落ちた。明るさの下に隠していたものが、ふと顔を出したようだった。
「あの人、ずっと謝ってたよ。ナランを危ない目に合わせたのは自分だって。目を覚ました日からずっと、君の部屋の前まで来ては戻って、来ては戻って、結局入れなくてさ。おじいちゃんに怒られても、働かせてくださいって言って聞かなかった」
私は何も言えなかった。ウィズが謝る理由なんてないはずなのに、きっと彼はそう思わないのだろう。遺跡へ行こうと言ったことも、私が熱を出したことも、崩落で私を庇ったことも、その全部を自分のせいにして、痛む体を休ませる代わりに何かを背負おうとしている。そう想像しただけで、胸の奥に苦いものが広がった。
廊下の向こうから、今度はゆっくりとした足音が近付いてきた。ムギの足音とは違って、重く、乱れがなく、床板のどこを踏めば音が沈むのか知り尽くしているような歩き方だった。扉の前に現れたのは、白い髪と深い皺を持つ大きな老人だった。背筋は真っ直ぐで、年寄りという言葉より先に、剣を持って立つ人なのだと分かる空気があった。
「目を覚ましたか」
低い声だった。怒っているようにも聞こえるのに、不思議と怖くはなかった。
「おじいちゃん、もっと優しく入ってきなよ。病み上がりの子が緊張するでしょ」
「お前の声の方がよほど心臓に悪い」
老人はそう言ってから私の方へ視線を戻した。その目は鋭かったけれど、刃物みたいに冷たいわけではなく、傷の深さや呼吸の乱れまで見逃さない医者のような厳しさがあった。
「マフェルト・コマンドルフだ。この家の主をしている。森でお前達を拾ったのはうちの者だが、礼を言う必要はない。あの地震の後で生きている者を見つけたなら、助けるのが人の仕事だからな」
私は言葉を探したけれど、喉の奥が詰まって上手く出てこなかった。礼を言いたいのに、ありがとうという一言だけでは足りない気がして、けれど他に何を言えばいいのかも分からない。そんな私を見て、コマンドルフは短く息を吐いた。
「まずは食事をしなさい。話はその後だ。あの少年にも会わせるが、倒れられては困る」
「でも」
「会わせると言った」
その一言には逆らわせない強さがあった。私は思わず口を閉じる。ムギが横で小さく笑った。
「おじいちゃん、怖いでしょ。でも大丈夫。あれで結構優しいから。昔は王都でも有名な騎士だったんだって。今は貴族の面倒くさい空気に嫌気が差して、隠居してる偏屈おじいちゃんだけど」
「ムギ」
「はいはい、偉大なるマフェルト・コマンドルフ様のご命令により、お粥を持ってきまーす」
ムギは軽い調子で敬礼のような仕草をして部屋を出ていった。残されたコマンドルフは少しだけ呆れた顔をした後、窓の外へ視線を向けた。
「お前が眠っている間、あの少年はよく働いた。怪我人のするような事ではなかったが、止めても聞かん。薪を割り、水を運び、馬の世話をし、しまいには剣を教えろと言い出した。理由を聞けば、次は守れるようになりたいとな」
窓の外から風が入り、薬草の匂いが少しだけ薄くなる。私は毛布を握ったまま、胸の奥に沈んでいくその言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。次は守れるようになりたい。その言葉の中に、ウィズがこの十日間ずっと見続けていたものがある気がした。崩れた遺跡、私の熱、止まらない血、自分の無力さ。きっと彼はそこから一歩も出られていない。
「会いたいか」
コマンドルフの問いに、私は迷わず頷いた。体はまだ重いし、頭の奥も鈍く痛む。それでも、会わなければならないと思った。生きていると聞いただけでは足りない。謝らせるためでも、責めるためでもない。ただ顔を見て、ちゃんと生きていることを確かめて、出来るなら私も生きているのだと伝えたかった。
コマンドルフは私の様子をしばらく見てから、扉の外へ向かって声をかけた。
「ウィズ。そこにいるのは分かっている。入れ」
その瞬間、胸が跳ねた。扉の向こうに気配があったことに私は気付いていなかった。廊下の静けさの中で、ほんの少しだけ衣擦れの音がして、それから長い沈黙が落ちる。入ってくるまでの数秒が、遺跡で岩が落ちてきた時とは別の意味でひどく長かった。
やがて扉がゆっくり開いた。
立っていたのは、ウィズだった。
見慣れた顔のはずなのに、最初の一瞬だけ知らない人に見えた。頬は痩せ、目の下には濃い影があり、肩や脇腹には厚く包帯が巻かれている。立っているだけでも痛むのだろう、体の重心がわずかに傾いていた。それでも彼は笑おうとしていた。いつもの調子で、大丈夫だとでも言うみたいに口元を上げようとして、けれど上手く出来ずに、結局ひどく歪んだ表情のまま私を見ていた。
「ナラン」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。十日前、遺跡の中で何度呼んでも返ってこなかった声が、今、目の前から私の名前を呼んでいる。それだけのことなのに、視界がまた滲みそうになった。
ウィズは一歩だけ部屋へ入ったが、それ以上近付こうとはしなかった。まるで近付く資格がないと思っているみたいだった。
「悪かった」
最初に出てきた言葉がそれだったから、私は少しだけ息を詰めた。
「俺が、遺跡なんかに」
「ウィズ」
自分でも驚くくらい弱い声だったのに、彼の言葉はそこで止まった。私は毛布の上で指を握り締め、まだ上手く動かない体を少しだけ前へ傾ける。
「こっち来て」
ウィズの顔が痛そうに歪んだ。傷が痛んだのか、言葉が痛んだのかは分からなかった。それでも彼はゆっくり近付いてきた。ベッドの傍まで来ると、何か言わなければならないのに何も言えない人のように立ち尽くす。私はその袖を掴んだ。
生きている。
布越しに伝わる体温だけで、そう分かった。
その瞬間、言いたかったことが少しだけ形になった。
「私、生きてるよ」
ウィズは目を伏せた。唇が震えている。
「ウィズも、生きてる」
それ以上の言葉は出てこなかった。許すとか、怒っていないとか、そんな難しいことは上手く言えない。ただ今ここに二人でいることだけを、彼に渡したかった。遺跡の中で何もかも終わりそうだったあの場所から、二人とも戻ってきたのだと、それだけをちゃんと見てほしかった。
ウィズはしばらく黙っていた。やがて、私に掴まれていない方の手で顔を覆う。肩が小さく震えた。
「……ほんと、よかった」
声はほとんど息みたいだった。
その一言を聞いた瞬間、私はようやく安心した。ムギの言葉でも、コマンドルフの説明でもなく、ウィズ自身の声でそれを聞いたからだ。窓の外では森が揺れている。遠くでムギが「お粥こぼした!」と叫び、コマンドルフが深くため息をついた。その何でもない騒がしさが、遺跡の静けさとはあまりにも違っていて、私は袖を掴んだまま少しだけ笑った。
星の魔女5
笑ったつもりだったけれど、喉の奥はまだ上手く動かなくて、口元がほんのわずかに緩んだだけだったかもしれない。それでもウィズはそれに気付いたらしく、顔を覆っていた手の隙間からこちらを見た。目の縁は赤く、いつもの軽い調子で何かを言おうとして失敗したような顔をしていた。
「なんだよ」
掠れた声だった。けれど、それはちゃんとウィズの声だった。
「お粥、こぼしたって」
私がそう言うと、ウィズは少し遅れて廊下の方へ目を向けた。向こうではムギがまだ何か言い訳をしていて、コマンドルフの低いため息と、器が置かれる硬い音が続いている。その音は遺跡の中で聞いた石の崩れる音とはまるで違っていた。誰かがそこにいて、怒ったり、慌てたり、食べ物を運んだりしている音だった。ただそれだけのことが、胸の奥に染み込むみたいに温かかった。
「……なんだか平和だな」
ウィズがぽつりと言った。
私は袖を掴む指に少しだけ力を入れた。平和という言葉が、今はとても不思議なものに聞こえた。ついこの間まで、私達は冷たい石の上で息を殺していた。暗闇の中で出口を探し、空腹に胃を縮ませ、濡れた服に体温を奪われ、最後には崩れ落ちる遺跡の中で互いの命にしがみついていた。それなのに今、窓の外では森が風に揺れ、部屋の外では誰かがお粥をこぼして叱られている。
「うん」
それ以上の言葉は出てこなかった。平和だね、と続けるには胸の奥に残っているものが重すぎたし、良かったね、と笑うにはウィズの包帯がまだ痛々しかった。だから私はただ頷いて、掴んだ袖を離さなかった。
ウィズはその手を見下ろしていた。逃げたいのか、近付きたいのか分からないような顔だった。少し前なら、彼は多分「そんなに掴むなよ、服が伸びるだろ」とでも言ったと思う。けれど今のウィズは何も言わない。ただ私の指先を見つめて、やがてゆっくりと息を吐いた。
「ごめん」
またその言葉だった。
私は眉を寄せた。怒ったわけではない。けれどその言葉を聞くたびに、ウィズが少しずつ遠くへ行ってしまうような気がした。彼は目の前にいるのに、自分だけまだ崩れた遺跡の中に残っているみたいだった。
「それ、もういい」
口にした声は小さかったけれど、自分でも思ったよりはっきりしていた。
ウィズが目を上げる。私は袖を掴んだまま、ちゃんと言葉を探した。上手く慰める方法なんて知らない。誰かの傷に触れる言葉を間違えずに選べるほど、私はまだ何も分かっていない。それでも、今ここで彼に謝り続けられるのは嫌だった。
「謝られると、困る」
「でも」
「困る」
もう一度言うと、ウィズは口を閉じた。私は胸の奥に残っている感覚を少しずつ拾い上げるようにして続けた。遺跡で目を覚ました時、私は何も持っていなかった。名前以外のことも、自分がどこから来たのかも、どうしてあそこにいたのかも分からなかった。そんな私にパンをくれて、村へ連れていって、くだらない話をして、夢の話を聞かせてくれたのはウィズだった。
「ウィズがいなかったら、私、ずっとあそこにいたかもしれない」
ウィズの表情がわずかに揺れた。
「だから、危ない目に合わせたとか、そういうのだけじゃない」
言葉にすると少し違う気がした。私が言いたいことは、もっと単純で、もっと形になりにくいものだった。怖かった。苦しかった。死ぬかもしれないと思った。それでも、ウィズと出会わなければ私は何も知らないままだった。温かいご飯の匂いも、焚き火を囲む夜も、誰かの夢を聞いて胸の奥が重くなる感覚も、誰かを失いたくないと泣くことも、何一つ知らなかった。
「私、ウィズと来てよかったよ」
言った瞬間、ウィズの顔がくしゃりと歪んだ。笑おうとしたのか、泣きそうになったのか、どちらにも見えた。彼は何か言いかけて、結局声にはならず、包帯の巻かれた脇腹を庇うように少し体を曲げた。
「それ、ずるいだろ」
「何が」
「そんなこと言われたら、もう謝れないぜ」
「じゃあ、言ってよかったかな」
ウィズは困ったように笑った。今度はちゃんと笑っていた。いつもの軽さはまだ戻っていないし、目の下の影も消えない。それでも、その笑顔の端にほんの少しだけいつものウィズがいた。
私はようやく袖から手を離した。離しても、ウィズが消えないことを確かめるみたいに、膝の上で指をゆっくり丸める。布越しに感じていた体温が消えると少し不安になったけれど、目の前にはまだ彼が立っていた。
その時、廊下からムギの足音が戻ってきた。今度はさっきより慎重で、器をこぼさないようにしているのが音だけで分かる。扉の隙間から現れた彼女は、湯気の立つ粥の器を両手で抱えながら、私達の顔を交互に見た。
「あれ、空気重い? もしかして私、入るタイミング間違えた?」
「間違えてない」
私が答えると、ムギはぱっと笑った。
「じゃあ正解ってことで。病人はまず食べる。泣くのも謝るのも、胃に何か入れてからにしなさいっておじいちゃんが言ってた。私はそこまで偉そうには言わないけど、まあだいたい同意」
ウィズが小さく息を漏らした。笑ったのだと分かって、私は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。ムギは器を私の膝の上に置き、熱いからゆっくりね、と言いながら木の匙を添える。粥から立ち上る湯気には、米と薬草と塩の匂いが混じっていた。何日も遺跡の中で地下水しか口にしていなかった体が、その匂いだけで急に自分の空腹を思い出したようにきゅうっと縮む。
「食べられそうか?」
ウィズが尋ねた。
「食べさせてくれるの?」
私は悪戯っぽく聞いてみた。
「え、あ、俺がか?」
私は匙を持ち上げながら笑った。なんだか今日のウィズはかわいいと思った。一口目を口に入れると、熱が舌の上から喉へ落ちていき、空っぽだった体の奥へゆっくり広がっていった。味は薄い。けれど今まで食べたどんなものより、体がそれを必要としているのが分かった。
「おいしい」
そう呟くと、ムギは胸を張った。
「でしょ。おじいちゃん作」
「お前が作ったような顔をするな」
廊下の向こうからコマンドルフの声が飛んでくる。ムギは舌を出し、ウィズはまた少し笑った。その笑い方はまだ弱くて、すぐに痛みに引っかかったように眉を寄せたけれど、それでも笑った。
私は粥をもう一口食べた。
窓の外で森が揺れている。部屋の中には薬草の匂いと粥の湯気があり、すぐそばには包帯だらけのウィズがいて、扉の向こうではムギとコマンドルフがくだらない言い合いをしている。全部があまりにも普通で、だからこそ少しだけ泣きたくなった。遺跡の静けさは、まだ体の奥に残っている。けれど今は、それよりもこの騒がしさの方が近くにあった。
私は匙を握り直しながら、ウィズを見た。
「あとで」
「ん?」
「話そ」
いっぱい話したいことがある。
ウィズは少しだけ目を伏せた後、ゆっくり頷いた。
「俺も」
その短いやり取りだけで十分だった。今すぐ全部を言葉にしなくてもいい。謝罪も、恐怖も、あの光のことも、遺跡で何が起きたのかも、きっと後で向き合わなければならない。けれど今だけは、湯気の向こうで生きている人達の声を聞いていたかった。袖を掴まなくてもウィズがそこにいることを、何度でも確かめていたかった。




