第5話 銀霜の坑道(前編)
一、坑道へ
翌朝、僕は夜明けと同時に宿を出た。
昨夜エリスさんに紹介してもらった、ギルド近くの安宿。
一泊三十銅貨の素泊まり。
部屋は狭いが清潔でベッドも柔らかかった。
昨夜は久しぶりにぐっすり眠れた気がする。
ノクトゥルナ家の屋敷のあの屋根裏みたいな部屋よりずっと。
道具はそれなりに準備した。
エリスさんから借りたカナリアの籠。
前日の夜に薬草店で買った濡れ布(口に当てると呼吸が楽になる)。
鉱物の基本書。
懐には依頼票。
そして——【異界の星座図】。
意識を集中すると、視界の隅に夜空のような星座図が浮かぶ。
戦闘の星座には、【火の粉Lv1】の星がひとつ灯っている。
それ以外の星はまだ眠ったままだ。
今日何かが解放されるかもしれない。
「……行くか」
籠の中のカナリアがちちっと鳴いた。
王都の城門をくぐって、街道を北へ。
銀霜の坑道は王都から徒歩で半刻ほどの丘陵地帯にあるとエリスさんに教えてもらった。
朝の街道は静かだ。
行商人が数人、荷馬車を引いている。
農夫が畑に向かって歩いている。
誰も黒髪の少年が坑道に向かっているとは気づかないだろう。
気づかれなくていい。
今はまだ。
二、エリスさんが来た
「ア、アストさーーん!!」
街道を歩き始めて二十分ほどたった頃、後ろから声がかかった。
振り返ると栗色の髪を揺らしながら全力疾走で追いかけてくる人影があった。
エリスさんだった。
上着を羽織って、街着のまま。
明らかにギルドに出勤する格好ではない。
息を切らして、僕に追いつくと、膝に手をついて大きく肩を上下させた。
「はあっ……はあっ……よかった、まだ街道に……っ」
「エリスさん? ギルドは?」
「今日、非番なんです。だから……ああもう、どうしてこんな早くに」
彼女は、顔を上げて、僕を見た。
いつもの人懐っこい笑顔じゃない。
心配と少しの怒りが混ざった顔。
「昨日の夜、やっぱり気になって。F級の新人が、あの坑道に一人で……どうしても心配で」
「……わざわざ追いかけてきたんですか」
「だって!」
エリスさんが少し声を上げた。
「あなた、昨日のギルドでの様子、見てたんですよ。野次飛ばす連中の中で、全然動じなくて、静かに『笑いたければ笑ってください』って。なんかその……」
彼女は、ちょっと口ごもった。
「その目が、怖かったんです。強がりじゃなくて、本当に怖いものがないみたいで。そういう人が一番、無茶するから」
……なるほど。
見抜かれていた。
「心配してくれてありがとうございます。でも、危険になったら逃げます。それは約束できます」
「それだけじゃ足りません」
エリスさんは、きっぱりと言った。
「せめて、坑道の入口まで一緒に行きます。中には入りません。でも、一人で行かせたくない。……ダメですか?」
僕は少し考えた。
エリスさんを危険な場所には連れて行けない。
坑道の中はおそらく有毒ガスがある。
でも、入口までなら——
「……分かりました。入口まで、一緒に来てください」
エリスさんがほっとした顔でうなずいた。
籠の中のカナリアも、ちちっと鳴いた。
まるで同意するように。
三、坑道の入口
銀霜の坑道は丘の斜面を切り開いた場所にあった。
横板を渡した木の支柱が暗い穴の両脇に立っている。
入口の板には黒々とした文字で「立入禁止」と書かれていた。
最近誰かが書き直したらしく、まだ墨の色が新しい。
「……ここが」
エリスさんが坑道の暗い入口を見上げて、小さく声を漏らした。
「ええ。中に入ると頭痛と息苦しさが起きる。でも魔物はいない、原因不明——でしたよね」
「はい。三組の冒険者が試みて、全員途中で引き返してます」
「分かりました」
まずは【解析眼】を起動して、入口付近の空気を調べてみる。
『空気(入口付近)/成分:通常範囲内/状態:問題なし』
やはり、入口付近は普通だ。
問題は坑道の奥——密閉された空間に、重いガスが溜まっているはずだ。
次にカナリアの籠を入口に近づけてみる。
小鳥は、特に反応しない。
元気にさえずっている。
「今のところ、入口は安全です」
エリスさんにそう伝えて、僕は坑道の壁に手を当てた。
【解析眼】が情報を返す。
『岩盤(石灰岩系)/経過年数:推定200年以上/風化度:中/亀裂:複数』
『木製支柱(坑木)/使用年数:推定30〜50年/腐朽度:高』
腐朽度、高。
……これだ。
「エリスさん、一つ聞いていいですか。この坑道、以前は何を採掘していたんですか」
「たしか……銀と、あと魔石鉱石だったと思います。百年ほど前に閉鎖されて、今は誰も使っていないはずです」
「閉鎖されてから百年。坑木の腐朽度が高い」
僕は頭の中で計算を進める。
木材が腐朽すると微生物の分解によって二酸化炭素が発生する。
特に密閉された地下空間では重いCO₂が坑道の奥の低い場所に溜まっていく。
同時に石灰岩が地下水と反応することでもCO₂が生じる。
酸素濃度が下がり、CO₂濃度が上がる——それが頭痛と息苦しさの原因だ。
前世の化学の知識が、一つ一つ噛み合っていく。
「原因は、たぶん分かりました」
「え?もう?」
「坑木の腐朽と、石灰岩の反応による二酸化炭素の蓄積です。目に見えないし、匂いもないから、気づかないうちに濃度が上がって、頭が痛くなる。酸素も少なくなるから、息苦しい」
エリスさんが、目を丸くした。
「……それ、どうすれば」
「換気です。空気の流れを作れれば、溜まったガスを外に出せる。坑道の構造次第ですが、本で読んだ知識で、たぶん換気経路があるはずです」
「……すごい」
エリスさんが、ぽつりと言った。
「F級の新人が、一夜にして原因を特定して……あなた、本当に何者なんですか」
「ただの、本好きの少年です」
笑ってごまかしてから、僕は濡れ布を口に当てた。
「行ってきます、エリスさん。——もし僕が三時間経っても戻らなかったら、ギルドに報告してください」
「……三時間。分かりました」
エリスさんが、少し震える声で言った。
「必ず戻ってきてください、アストさん」
僕は頷いて、暗い坑道の中へと踏み込んだ。
四、坑道の奥で
坑道に入ってすぐ、闇が僕を包んだ。
懐から取り出した魔石灯——安宿の主人から一晩借りた——が、橙色の光を前方に投げかける。
岩肌がその光を鈍く反射している。
足元は砂利と土。
天井は頭ひとつ分の余裕しかない。
【解析眼】を常時起動して歩きながら周囲を確認していく。
『空気(入口から二十歩)/CO₂濃度:やや高/酸素濃度:やや低/状態:要注意』
やや高いか。
まだ危険ではないが奥に行くほど濃度は上がるはずだ。
カナリアの様子を確認する。
籠の中の小鳥は少し羽を膨らませている。
不快そうな仕草。
でもまだ鳴いたり暴れたりはしていない。
「……まだ大丈夫」
呟きながらさらに奥へ進む。
十歩、二十歩。
【解析眼】の数値が、じわじわと上がっていく。
『CO₂濃度:中/酸素濃度:低/状態:注意』
カナリアが、羽をばたつかせ始めた。
「……ここで限界か」
一旦立ち止まって、周囲を観察する。
坑道の構造が、少しずつ見えてきた。
右手に、塞がれた横道がある。
さらに奥に、上方向に伸びる細い縦穴——換気孔の跡だろうか——が見える。
ゲーム『アストレア・サーガ』の記憶を手繰り寄せる。
確かこのゲームの廃坑ダンジョンには、閉鎖時に塞がれた換気孔が複数あった。
その換気孔の位置を知ることが攻略の鍵だったはずだ。
…………あれ。
【解析眼】で、右手の塞がれた横道を調べてみる。
『横道(閉鎖済み)/閉鎖年数:推定3年/閉鎖方法:木板と土砂』
……三年前。
坑道が閉鎖されたのは、百年前のはずだ。
なのに、この横道は三年前に閉鎖されている。
「立入禁止」の看板の墨が新しかった。
そして三年前に誰かがこの横道を——追加で——閉鎖した。
嫌な予感が背筋を走った。
さらによく見ると、土砂の隙間から何かが覗いている。
しゃがんで、魔石灯を近づける。
隙間から見えるのは——布の切れ端だった。
古くはない。
それなりに最近のものだ。
【解析眼】が情報を返す。
『繊維(麻布)/使用年数:推定1〜3年/染料:黄土色/状態:軽度の汚損』
1〜3年。
この坑道に、誰かが来ていた。最近。
しかもこの横道を意図的に塞いで何かを隠した——?
カナリアが、突然激しく鳴き始めた。
『CO₂濃度:高/酸素濃度:危険域/状態:即時退避推奨』
まずい。
気を取られている間に濃度が跳ね上がった。
頭がじわりと重くなり始める。
退避だ。
今すぐ。
僕は踵を返して入口に向かって走り出した。
頭の中では、一つの疑問が渦を巻いていた。
——この坑道に隠されたものは、何だ?




