第2話 最初の星
一、街道
屋敷を出て、街道を歩き始めて、まだ三時間も経っていなかった。
初秋の風が、麦畑の上を撫でていく。
道の両側には、刈り入れを終えたばかりの畑が広がっていた。黄金色の藁が積み上げられ、所々に小さな製粉所の屋根が見える。ノクトゥルナ家の領地の端、王都へと続く街道沿いの農村地帯だ。
歩きながら、僕は頭の中で計算を続けていた。
所持金は銀貨八枚と銅貨十数枚。マリアの差し入れを合わせれば、慎ましく生きて十日分の食費と宿代。その間に冒険者ギルドに登録し、最初の依頼を成功させなければならない。
計画は単純だ。今日中に街道沿いの最初の村まで歩いて、宿を取る。明日は王都に向けてさらに歩き、冒険者ギルドの支部を見つけ次第、登録。手続きに数日かかるはずだから、その間に低ランクの依頼を一つでも——
「……ん?」
思考を遮ったのは、街道の先から聞こえてきた音だった。
馬の嘶きと、男の怒鳴り声。それから、女性らしき悲鳴。
明らかに、穏やかな旅人の音じゃない。
僕は反射的に、街道脇の木陰に身を潜めた。
心臓が、嫌な感じで早鐘を打ち始める。前世なら、間違いなく見て見ぬふりをして遠回りした。今だって、それが一番賢明な選択肢だ。
でも——
いや、まだ判断するな。まずは情報だ。
深呼吸して、僕は意識を集中させた。
——【解析眼】、起動。
視界の隅に、いつものウィンドウが浮かぶ。木陰から首だけ出して、街道の先を覗き見た。
二、盗賊
百メートルほど先で、商人の荷馬車が立ち往生していた。
幌付きの大きな馬車一台、護衛らしき若い男が二人、荷物の上にしがみつくようにしている初老の商人。それを取り囲むように、剣や短弓を構えた粗野な男たち——四人。
【解析眼】の情報が、ぱらぱらと視界に流れ込んでくる。
『盗賊(人間)/レベル:7/武装:鉄剣、革鎧/状態:戦意旺盛』
『盗賊(人間)/レベル:6/武装:短弓、革鎧/状態:戦意旺盛』
『盗賊(人間)/レベル:8/武装:鉄剣、鎖帷子/状態:戦意旺盛(リーダー格)』
『盗賊(人間)/レベル:5/武装:短剣/状態:戦意旺盛』
……レベル5から8。
僕は、レベル1だ。
正面から戦えば、瞬殺される。それは疑いの余地もない。
「通行料として、その荷物を全部置いていけ! 大人しく従えば、命までは取らねぇ!」
リーダー格らしき男が、商人に剣を突きつけて怒鳴っていた。
商人は震えながら、何かを訴えている。「これは王都の薬問屋に届ける薬草で、私たち一族の半年分の生活が——」
「うるせぇ! お前らの生活なんて知るか! 寄こせ!」
その時、護衛の若い男の一人が立ち上がって剣を抜こうとした。
次の瞬間、短弓の盗賊が矢を放った。
矢は護衛の男の足を貫いた。
悲鳴。
商人がさらに震える。残った護衛も、もう動けない。
「次は心臓を狙うぞ。さっさと荷物を渡せ」
……これは、まずい。
僕は木陰でぎゅっと拳を握った。
逃げるべきだ。自分の身を守れ。今の僕は、誰かを助けられるような立場じゃない。前世だって、自分のことすら守れなかった人間が、何ができる。
でも——
でも、と頭の片隅で別の声がした。
前世と、同じ選択をするのか?
研究を奪われた時、僕は何もできなかった。声を上げても誰も聞かなかった。「学生の言葉なんて」と切り捨てられて、ただ立ち尽くしていた。
あの時の自分を、今もまだ許せていない。
ここで見捨てたら、また同じだ。
また、後悔だけが残る人生になる。
「……」
深く息を吸って、僕は周囲の状況を再確認した。
【解析眼】を、人間以外にも向ける。
『地面(土/小麦粉が薄く堆積/推定濃度:低〜中)』
『麦藁の山(乾燥/燃焼性:高)』
『製粉所(稼働中/粉塵濃度:高)』
『風向き:南南西からの微風/秒速2メートル』
……来た。
地面に薄く積もった、刈り入れの後の小麦粉。麦藁。そして、近くの製粉所から漏れ出している粉塵。
燃料が、揃っている。
あとは、風上に回り込んで、粉塵濃度を上げて、着火源を投じれば——
粉塵爆発が、起こせる。
ふと、盗賊のリーダーが舌打ちした。
「……ちっ、急げ。騎士団が追ってきてるかもしれねぇ」
騎士団。
頭の中で、何かが繋がりかけた。だが今は考えている時間がない。
僕は意識を集中して、【異界の星座図】を呼び出した。
戦闘の星座、火の粉 Lv1——必要スキルポイント:1
迷いはなかった。
——解放。
星座図の中で、戦闘の星座の最初の星が、ぱあっと淡く輝き始めた。
同時に、指先に微かな熱を感じる。前世のゲームでは『役立たず』とされた、無属性の下位互換スキル。
ゲームの中なら、何の意味もない。
でも、ここは、現実だ。
「……行くぞ」
誰にも聞こえない声で、僕は呟いた。
三、最初の星
僕は木陰から動き出した。
とはいえ、堂々と歩いて行くわけにはいかない。盗賊たちに見つかれば、その瞬間に矢が飛んでくる。
街道脇の藁山と藁山の隙間を縫って、低い姿勢で移動する。アストの体は身軽だ。栄養状態が良いとは言えないけれど、十五歳の少年の身体は、思っていたよりも素早く動いてくれる。
目指すのは、街道の風上——盗賊たちから見て、南南西の方向。
【解析眼】が、地面の状態を絶え間なく教えてくれる。
『地面(土/小麦粉濃度:薄)』
『地面(土/小麦粉濃度:中/製粉所からの飛散)』
風上に近づくにつれて、小麦粉の堆積が濃くなっていく。製粉所から漏れた粉塵が、風で運ばれて、街道沿いに薄く積もっているのだ。
いいぞ。
風上の藁山の陰までたどり着いて、僕は息を整えた。盗賊たちはまだ商人を脅すのに夢中で、こちらに気づいていない。
ここから、勝負だ。
藁山に積まれた藁束を、僕は両手で抱えた。乾いた藁は思ったよりも軽い。一つだけ手に取って、街道の中央——盗賊たちのいる場所へ向けて、思い切り投げる。
藁束は宙を舞い、街道の真ん中で、ぱさりと地面に落ちた。
「あ?」
盗賊の一人が振り向く。
藁束が落ちただけだ。何でもない。普通なら、そう思う。
でも、僕の狙いは藁そのものじゃなかった。
藁束が地面に落ちた時、その下に堆積していた小麦粉が、ぶわっと舞い上がる。さらに僕は、次の藁束を別の場所へ投げる。三つ目、四つ目。
【解析眼】の表示が、刻々と変わっていく。
『空気中の粉塵濃度:低 → 中 → 中強 → 強』
もう少し。あと一押しで、爆発下限濃度に達する。
「おい、なんだあれ。誰かいるのか?」
盗賊たちが警戒を始めた。
まずい。気づかれた。
でも、まだだ。風がもう一吹き必要だ。
その時、まるで応えるように、強い南風が街道を吹き抜けた。
地面の小麦粉が、舞い上げられた粉塵が、一気に街道を覆っていく。視界が、薄白く霞んだ。
【解析眼】が告げる。
『空気中の粉塵濃度:強 → 飽和』
今だ。
「——着火」
僕は指先を、藁山の陰から街道に向けて伸ばした。
意識を集中する。前世のゲームで何百回も使った、無属性の下位互換スキル。ゲームの中ではエフェクトすら出なかった、ゴミ扱いされたスキル。
【火の粉】。
指先に、微かな熱。
そして、ぱちっという小さな音と共に、ほんの一粒、火の粉が散った。
ゲームの記憶通りの、本当にちっぽけな火花。これだけ見れば、何の脅威もない。
でも、それが——
舞い上がった粉塵に、触れた。
ボッ
次の瞬間、街道全体が、白く光った。
粉塵に火が走る。空気そのものが燃える。爆発というには控えめだけれど、燃焼の連鎖が、街道に沿って一気に広がった。
「ぐああっ!?」
盗賊たちが悲鳴を上げる。
彼らがいた場所は、粉塵濃度が最も高かったポイント。爆風と熱波が、彼らを正面から包み込む。
革鎧では防げない、突発的な熱衝撃。
四人の盗賊が、それぞれの方向へ吹き飛ばされ、地面に転がった。火傷と打撲、それから何より、強烈な閃光と爆音による衝撃で、戦意を完全に失っている。
商人と護衛たちは、たまたま風下にいて、爆発の規模も小さかったため、軽い熱風を浴びる程度で済んだ。荷馬車も無事だ。
「……できた」
藁山の陰で、僕は呟いた。
指先が、微かに震えていた。
ゲームでは『役立たず』だった火の粉が、現実では戦況をひっくり返した。
理論通り。化学反応は、物理法則は、この世界でも変わらず働いている。
化学者の道具箱は、本物だ。
四、騎士の眼差し
爆発の音が収まり、白い粉塵がゆっくりと地面に戻っていく頃。
遠くから、馬の蹄の音が近づいてきた。
数騎。早駆け。
僕は藁山の陰から街道に出て、商人たちの方を見た。彼らは呆然とした顔で、転がっている盗賊たちを見ている。
商人が、僕に気づいた。震える指で、こちらを差す。
「あ、あの少年が——あの少年が、私たちを救ってくれました……!」
馬の蹄の音が、すぐそばまで来ていた。
砂塵を巻き上げて、街道に騎馬隊が姿を現す。
三騎。
全員、青地に銀の縁取りが入った騎士服。胸には鷹をかたどった紋章——ヴァルディア王国第三騎士団の徽章。
その先頭を駆けていたのが、彼女だった。
金髪が、馬の速度に合わせて流れる。きっちりと結い上げられているのに、それでも光を弾いて翻る、ストレートのロングヘア。引き締まった体つきと、長身。鎧の上に纏ったマントが、風に踊る。
馬を引いて止めながら、彼女は一瞬で現場を見渡した。
倒れた盗賊たち。無傷の商人。藁山の陰から出てきたばかりの、黒髪の少年。
その視線が、僕に固定された。
「動くな」
澄んだ、しかし鋭い声だった。
馬から降りる動作にも一切の無駄がない。腰に佩いた剣に手を添えながら、彼女はゆっくりと僕に歩み寄ってきた。
近づくにつれて、その顔立ちがはっきり見えてくる。
凛とした、それでいて整いすぎているくらいの美貌。だが、表情には一切の柔らかさがない。怜悧な瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いていた。
【解析眼】が、自動的に情報を表示しようとする。
『ロジー・アルフレード/』
……それ以降の表示が、滲んで読めなくなった。
『——対象のレベルが高すぎて、一部の情報が表示されません。』
冷や汗が、背筋を伝った。
(こいつ、強い……!)
彼女——ロジー・アルフレードは、僕の前で立ち止まった。
「ヴァルディア王国第三騎士団、ロジー・アルフレード。盗賊団追跡任務中だ」
名乗りも事務的だ。
「商人の証言は聞いた。あなたが、この惨状を引き起こしたと?」
惨状、と彼女は言った。
助けた、ではなく。
「……はい」
僕は素直に頷いた。今さら否定しても意味がない。
「方法は」
「街道に堆積していた小麦粉と、製粉所からの飛散粉塵——可燃性粉塵を利用して、爆発反応を起こしました」
答えると、ロジーの眉が、ほんの僅かに動いた。
驚いた、というよりは、警戒の度合いが一段上がったような動き。
「……粉塵爆発」
彼女は静かに、その言葉を繰り返した。
知っている言葉だ、という反応だった。たぶん、騎士団は工場事故などでこの現象を把握している。だから、僕の答えが嘘でないことを、すぐに理解した。
その上で——
それを意図的に引き起こせる人間が存在する、という事実に、彼女は警戒したのだ。
「あなたは、これを意図して起こしたと?」
「はい」
「身分を」
僕は少し迷ってから、答えた。
「アスト・ノクトゥルナ。冒険者を志望する者です」
ロジーの表情は変わらなかった。だが、続く言葉で、彼女がすでに僕の正体を見抜いていたことが分かった。
「ノクトゥルナ家の三男。十五歳。三日前に屋敷から失踪。捜索届が王都に届いている」
「……」
「我々第三騎士団は、本日の朝に届け出を受理しました。それから半日も経たないうちに、こうして遭遇するとは」
彼女は腰の剣から手を離した。
その代わり、僕の前で、騎士礼を取った。
「アスト様。事情をお聞きする必要があります。我々の駐屯地まで、ご同行ください」
声には、若干の敬意が混じっていた。貴族家の子息に対する、形式上の敬意だ。
でも、瞳の奥には、明らかに別のものが宿っていた。
警戒。それから、強い興味。
「無属性のハズレ判定をお受けになった貴族の子息が——粉塵爆発の理論を、実戦で使った。これは、報告書に書くだけでは済まない事案です」
彼女は、僕を真っ直ぐに見据えて、こう続けた。
「あなたが何者で、どこでその知識を得たのか。詳しくお聞かせいただきます」
* * *
二度目の人生、最初の一歩で、僕は早くも騎士団に連行されることになった。
でも、不思議なことに、絶望はなかった。
藁山の陰で初めて起こした、あの小さな爆発。
戦闘の星座に灯った、最初の一つの星。
それは確かに、僕の人生で初めての——自分の力で掴んだ達成だった。
ロジー・アルフレードという名の女騎士に伴われて、僕は街道を歩き出した。
彼女の鋭い眼差しは、相変わらず僕に向けられていた。
でも、それは、もう恐怖の対象ではなかった。
誰かに、自分の力を見られた。
評価されるか、警戒されるかはまだ分からない。でも、少なくとも——見て、もらえた。
前世では、ついぞ叶わなかったこと。
夜空に、ようやく、最初の星が輝き始めた。




