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新世界より  作者: 福田雛子
4話 愚者と恋
33/34

愚者と恋③


 寺の廊下は、外よりいくらか涼しかった。


 日が高いうちは蒸し暑さがこもるくせに、日陰に入ると古い木の湿り気が先に立つ。畳の青い匂いと、線香の残り香と、炊き出しの米の匂いが、どれも薄く混ざっていた。奥の方では子どもが何かで笑っている。走る足音が一度だけ近づいて、また遠ざかり、建物はすぐに元の静けさへ戻った。


 寧子は柱に手を添えたまま、小さく息をついた。


 疲れていた。


 身体より先に、気を張りつめる方が先に擦り減っている。市内へ出る日はいつもそうだった。持ち帰るものを考え、帰り道を考え、見つからないことを祈る。その途中で何が起きるかは考えないようにしても、身体のどこかがずっと強張っている。


「センセ」


 声をかけられ、寧子は顔を上げた。


 廊下の向こうに、颯太が立っていた。さっきまで他人に向けていた剣呑な顔は少し和らいでいる。それでも、口の端はまだ不機嫌そうに引き結ばれたままだった。


「あ、颯太。さっきは、その……」


 寧子が言いかけると、颯太は先に口を開いた。


「……あの女、どうしたの」


「出てってはないよ。連れの子が怪我してるんだって。少し診てほしいって」


「そんなの、ほっとけばいいだろ」


 言い方にためらいはなかった。


「他人なんだから」


 寧子はすぐには答えず、ほんの少しだけ視線を落とした。


 この寺に来る人間は、だいたい二種類に分かれる。助けを求める側と、奪いに来る側だ。どちらとも判別がつかないまま近づいてくる者もいる。だから颯太の言い分は、冷たいというより、この場所で生き延びるための正しさに近かった。


「ひまりと同じくらいの子なの。足、折ってるみたいで」


 静かに言うと、颯太は嫌そうに顔をしかめた。


「だからって面倒見る必要ないじゃん」


「面倒までは見ないよ。診るだけ。少し様子を見たら、それで終わり」


「……本当に?」


「うん」


 寧子が頷くと、颯太は廊下の板目を睨んだまま、低く言った。


「ここにある米も水も、薬も、全部余ってるわけじゃないんだから」


「わかってる。ごめんね」


 その謝り方が気に入らなかったのか、颯太はすぐに顔を上げた。


「そういうの、いいから」


 ぶっきらぼうに言ってから、少し間を置く。


「……センセ、そういうとこあるよね」


「どういうとこ?」


「ほっとけないとこ」


 言葉にした途端、彼は自分で腹を立てたように舌打ちした。


「危ない奴だったらどうすんの」


 寧子は困ったように笑った。


「怒ってる?」


「別に」


 そう答える声は、別に、では済んでいない。


「……センセらしいって言ってるだけ。俺も、ここにいるチビらも、そのお人好しに拾われた側なんだし」


 投げるような言い方だったが、その中に甘えが混じっているのを寧子は知っていた。


 救ったつもりはない。見捨てられなかっただけだ。それでも、見捨てなかったことがここではそのまま責任になった。手当てをして、食べるものを分けて、熱を測って、泣き止むまで背を撫でる。その繰り返しのうちに、子どもたちは勝手に自分を必要なものにしていった。


 颯太は、その筆頭だった。


「……だからさ」


 彼の声がわずかに沈む。


「無茶しないでよ。センセいなくなったら、困る」


 それだけ言って、口を閉じる。


 寧子は少しだけ目を細めた。


「困る?」


「困るだろ」


「みんなが?」


 その聞き返しに、颯太は一瞬だけ言葉を失った。


 それから目を逸らし、唇を噛む。


「……俺も」


 ようやく出てきたのは、小さな声だった。


 廊下を渡る風が、その言葉だけを薄く撫でていく。


「おいで」


 寧子が手を伸ばすと、颯太は少しだけ顔をしかめた。けれど嫌がりはしない。こういうやりとりは初めてではなかった。寧子の方から呼んで、颯太が渋々みたいな顔で近づいてきて、結局おとなしく抱き寄せられる。そのたびに彼は不満そうにして、それでも離れようとはしなかった。


 寧子の腕の中に収まった身体は、思ったより熱かった。痩せているくせに、骨の内側には若い体温がちゃんと残っている。片方しかない腕で不器用に背へ回される力も、前よりずっと強くなっていた。


「ありがとね」


 寧子が言うと、颯太は胸元へ顔を寄せたまま、低く答えた。


「別に」


「でも、あんまり乱暴しないで」


「乱暴じゃない」


「してたよ、さっき」


「必要だったから」


 子どもみたいな言い張り方なのに、声だけは妙に真剣だった。


「男は俺しかいないんだから。俺がやんなきゃでしょ」


 その言い方に、寧子は少しだけ黙った。


 守る、だとか。やんなきゃ、だとか。颯太はそういう言葉を、覚えたばかりの刃物みたいに使う。自分を大きく見せるためでもあり、本当にそうしないとここでは居場所を持てないからでもある。


「……ねえ」


 寧子が呼ぶと、颯太は顔を上げた。


「なに」


「寧子って呼んで」


 それは初めての頼みではなかった。


 気が緩んだ時や、疲れた時、寧子は時々そう言った。颯太も、それを知っていた。知っていて、そのたび少しだけ息を呑む。


 センセと呼ぶのは、この寺での約束事みたいなものだ。誰かに聞かれても角が立たないし、子どもたちの前でも都合がいい。けれど寧子がその呼び方を嫌がる夜があることも、颯太はもう覚えていた。


「……また、それ?」


 拗ねたように言いながらも、腕の力は緩まない。


「だめ?」


「だめじゃないけど」


 颯太はほんの少し黙り込んだあと、低く言った。


「寧子」


 たったそれだけなのに、寧子の肩がわずかに揺れた。


 颯太はそれを見て、目を細める。


「……俺が、寧子のこと守るから」


 言い慣れない約束を、確かめるように続ける。


「だから、ずっと一緒にいてよ」


 寧子はすぐには返事をしなかった。


 抱きしめる腕の力を少しだけ強め、それからゆっくり頷く。


「うん」


 声はやわらかかったが、その表情は颯太には見えない。


「……腕、痛くない?」


「平気」


 間髪を入れずに言って、颯太は少しだけ笑った。


「もう慣れたし」


「慣れるものじゃないよ、そういうのは」


「でも、寧子が触るとあんま痛くない」


 寧子は答えず、ただ髪を撫でた。


 その沈黙を破るように、颯太が脇に抱えていた紙束を差し出す。


「これ、ひまりたちから。渡しといてって」


 色のばらばらな短冊が何枚も重なっていた。


「短冊?」


「今年で地球最後の七夕だから、いっぱいお願いするんだってさ。十枚ノルマ」


「何それ」


 寧子は思わず笑った。


「欲張りすぎじゃない?」


「ガキなんてあんなもんだろ」


 颯太もつられたみたいに口元をゆるめる。


「でもまあ、楽しそうだった」


 寧子は短冊を受け取り、指先で揃えた。赤、青、黄色。端が少し折れているものもある。どこかから引っ張り出してきたのだろう。紙の軽さが、場違いなくらい無邪気だった。


「今日、七月四日だよね」


「うん」


「じゃあ、あと三日かぁ」


「書けばいいじゃん。願い事」


 そう言ってから、颯太はすぐに付け足した。


「十個もあるなら、一個くらい叶うかもしれないし」


「そんな宝くじみたいな」


 寧子が笑う。


 その時、廊下の向こうで甲高い声がした。颯太の名を呼ぶ声だった。


「あー、呼ばれてる」


 颯太が嫌そうに顔をしかめる。


「ひまりかな」


「行ってきてあげて」


「……わかったよ」


 数歩進んでから、彼は振り返った。


「あの女、まだ居るの」


「うん」


「変なの連れ込まないでよ」


「わかってる」


「あと、さっきの話」


「うん?」


「……忘れないで」


 何を、と聞く前に、颯太はもう駆け出していた。


「ひまり! 聞こえてるって!」


 怒鳴る声が遠ざかっていく。


 廊下に残ったのは、またいつもの静けさだった。


 寧子は手の中の短冊を見下ろした。薄い紙が何枚も重なっているだけなのに、妙にまとわりつく。


「願い事、か」


 子どもたちに必要なものなら、いくつもある。米も水も薬も毛布も、足りないものばかりだ。けれど、そういう現実的な願いとは別に、胸の底にいつまでも居座っているものがある。


 短冊の端を親指でなぞる。


 しばらくそうしてから、寧子はかすかに唇を動かした。


「……会いたい、って書いたら、怒るかな」


 その声は、誰に聞かせるでもないものだった。


 けれど、たった今遠ざかっていった少年に向けたものではなかった。


 呼びたかった名は、別にある。


 寺の奥でまた子どもの笑い声がした。風が吹いて、短冊の束の端だけが、かすかに揺れた。



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