愚者と恋③
寺の廊下は、外よりいくらか涼しかった。
日が高いうちは蒸し暑さがこもるくせに、日陰に入ると古い木の湿り気が先に立つ。畳の青い匂いと、線香の残り香と、炊き出しの米の匂いが、どれも薄く混ざっていた。奥の方では子どもが何かで笑っている。走る足音が一度だけ近づいて、また遠ざかり、建物はすぐに元の静けさへ戻った。
寧子は柱に手を添えたまま、小さく息をついた。
疲れていた。
身体より先に、気を張りつめる方が先に擦り減っている。市内へ出る日はいつもそうだった。持ち帰るものを考え、帰り道を考え、見つからないことを祈る。その途中で何が起きるかは考えないようにしても、身体のどこかがずっと強張っている。
「センセ」
声をかけられ、寧子は顔を上げた。
廊下の向こうに、颯太が立っていた。さっきまで他人に向けていた剣呑な顔は少し和らいでいる。それでも、口の端はまだ不機嫌そうに引き結ばれたままだった。
「あ、颯太。さっきは、その……」
寧子が言いかけると、颯太は先に口を開いた。
「……あの女、どうしたの」
「出てってはないよ。連れの子が怪我してるんだって。少し診てほしいって」
「そんなの、ほっとけばいいだろ」
言い方にためらいはなかった。
「他人なんだから」
寧子はすぐには答えず、ほんの少しだけ視線を落とした。
この寺に来る人間は、だいたい二種類に分かれる。助けを求める側と、奪いに来る側だ。どちらとも判別がつかないまま近づいてくる者もいる。だから颯太の言い分は、冷たいというより、この場所で生き延びるための正しさに近かった。
「ひまりと同じくらいの子なの。足、折ってるみたいで」
静かに言うと、颯太は嫌そうに顔をしかめた。
「だからって面倒見る必要ないじゃん」
「面倒までは見ないよ。診るだけ。少し様子を見たら、それで終わり」
「……本当に?」
「うん」
寧子が頷くと、颯太は廊下の板目を睨んだまま、低く言った。
「ここにある米も水も、薬も、全部余ってるわけじゃないんだから」
「わかってる。ごめんね」
その謝り方が気に入らなかったのか、颯太はすぐに顔を上げた。
「そういうの、いいから」
ぶっきらぼうに言ってから、少し間を置く。
「……センセ、そういうとこあるよね」
「どういうとこ?」
「ほっとけないとこ」
言葉にした途端、彼は自分で腹を立てたように舌打ちした。
「危ない奴だったらどうすんの」
寧子は困ったように笑った。
「怒ってる?」
「別に」
そう答える声は、別に、では済んでいない。
「……センセらしいって言ってるだけ。俺も、ここにいるチビらも、そのお人好しに拾われた側なんだし」
投げるような言い方だったが、その中に甘えが混じっているのを寧子は知っていた。
救ったつもりはない。見捨てられなかっただけだ。それでも、見捨てなかったことがここではそのまま責任になった。手当てをして、食べるものを分けて、熱を測って、泣き止むまで背を撫でる。その繰り返しのうちに、子どもたちは勝手に自分を必要なものにしていった。
颯太は、その筆頭だった。
「……だからさ」
彼の声がわずかに沈む。
「無茶しないでよ。センセいなくなったら、困る」
それだけ言って、口を閉じる。
寧子は少しだけ目を細めた。
「困る?」
「困るだろ」
「みんなが?」
その聞き返しに、颯太は一瞬だけ言葉を失った。
それから目を逸らし、唇を噛む。
「……俺も」
ようやく出てきたのは、小さな声だった。
廊下を渡る風が、その言葉だけを薄く撫でていく。
「おいで」
寧子が手を伸ばすと、颯太は少しだけ顔をしかめた。けれど嫌がりはしない。こういうやりとりは初めてではなかった。寧子の方から呼んで、颯太が渋々みたいな顔で近づいてきて、結局おとなしく抱き寄せられる。そのたびに彼は不満そうにして、それでも離れようとはしなかった。
寧子の腕の中に収まった身体は、思ったより熱かった。痩せているくせに、骨の内側には若い体温がちゃんと残っている。片方しかない腕で不器用に背へ回される力も、前よりずっと強くなっていた。
「ありがとね」
寧子が言うと、颯太は胸元へ顔を寄せたまま、低く答えた。
「別に」
「でも、あんまり乱暴しないで」
「乱暴じゃない」
「してたよ、さっき」
「必要だったから」
子どもみたいな言い張り方なのに、声だけは妙に真剣だった。
「男は俺しかいないんだから。俺がやんなきゃでしょ」
その言い方に、寧子は少しだけ黙った。
守る、だとか。やんなきゃ、だとか。颯太はそういう言葉を、覚えたばかりの刃物みたいに使う。自分を大きく見せるためでもあり、本当にそうしないとここでは居場所を持てないからでもある。
「……ねえ」
寧子が呼ぶと、颯太は顔を上げた。
「なに」
「寧子って呼んで」
それは初めての頼みではなかった。
気が緩んだ時や、疲れた時、寧子は時々そう言った。颯太も、それを知っていた。知っていて、そのたび少しだけ息を呑む。
センセと呼ぶのは、この寺での約束事みたいなものだ。誰かに聞かれても角が立たないし、子どもたちの前でも都合がいい。けれど寧子がその呼び方を嫌がる夜があることも、颯太はもう覚えていた。
「……また、それ?」
拗ねたように言いながらも、腕の力は緩まない。
「だめ?」
「だめじゃないけど」
颯太はほんの少し黙り込んだあと、低く言った。
「寧子」
たったそれだけなのに、寧子の肩がわずかに揺れた。
颯太はそれを見て、目を細める。
「……俺が、寧子のこと守るから」
言い慣れない約束を、確かめるように続ける。
「だから、ずっと一緒にいてよ」
寧子はすぐには返事をしなかった。
抱きしめる腕の力を少しだけ強め、それからゆっくり頷く。
「うん」
声はやわらかかったが、その表情は颯太には見えない。
「……腕、痛くない?」
「平気」
間髪を入れずに言って、颯太は少しだけ笑った。
「もう慣れたし」
「慣れるものじゃないよ、そういうのは」
「でも、寧子が触るとあんま痛くない」
寧子は答えず、ただ髪を撫でた。
その沈黙を破るように、颯太が脇に抱えていた紙束を差し出す。
「これ、ひまりたちから。渡しといてって」
色のばらばらな短冊が何枚も重なっていた。
「短冊?」
「今年で地球最後の七夕だから、いっぱいお願いするんだってさ。十枚ノルマ」
「何それ」
寧子は思わず笑った。
「欲張りすぎじゃない?」
「ガキなんてあんなもんだろ」
颯太もつられたみたいに口元をゆるめる。
「でもまあ、楽しそうだった」
寧子は短冊を受け取り、指先で揃えた。赤、青、黄色。端が少し折れているものもある。どこかから引っ張り出してきたのだろう。紙の軽さが、場違いなくらい無邪気だった。
「今日、七月四日だよね」
「うん」
「じゃあ、あと三日かぁ」
「書けばいいじゃん。願い事」
そう言ってから、颯太はすぐに付け足した。
「十個もあるなら、一個くらい叶うかもしれないし」
「そんな宝くじみたいな」
寧子が笑う。
その時、廊下の向こうで甲高い声がした。颯太の名を呼ぶ声だった。
「あー、呼ばれてる」
颯太が嫌そうに顔をしかめる。
「ひまりかな」
「行ってきてあげて」
「……わかったよ」
数歩進んでから、彼は振り返った。
「あの女、まだ居るの」
「うん」
「変なの連れ込まないでよ」
「わかってる」
「あと、さっきの話」
「うん?」
「……忘れないで」
何を、と聞く前に、颯太はもう駆け出していた。
「ひまり! 聞こえてるって!」
怒鳴る声が遠ざかっていく。
廊下に残ったのは、またいつもの静けさだった。
寧子は手の中の短冊を見下ろした。薄い紙が何枚も重なっているだけなのに、妙にまとわりつく。
「願い事、か」
子どもたちに必要なものなら、いくつもある。米も水も薬も毛布も、足りないものばかりだ。けれど、そういう現実的な願いとは別に、胸の底にいつまでも居座っているものがある。
短冊の端を親指でなぞる。
しばらくそうしてから、寧子はかすかに唇を動かした。
「……会いたい、って書いたら、怒るかな」
その声は、誰に聞かせるでもないものだった。
けれど、たった今遠ざかっていった少年に向けたものではなかった。
呼びたかった名は、別にある。
寺の奥でまた子どもの笑い声がした。風が吹いて、短冊の束の端だけが、かすかに揺れた。




