愚者と恋②
七月四日。京都。
医者なんて、このご時世じゃ絶滅危惧種より珍しい。
京都まで来れば一人ぐらい拾えるでしょ、と思ってた私が甘かった。全然いない。笑っちゃうくらいいない。病院はだいたい閉まってるか荒らされてるか、運よく建物が残ってても中身は空っぽ。薬も人も、先に必要なところから消えていく。
そのせいで、ツレのケガを見てくれる人間が、ここまで見つからなかった。
ケガ自体は、前にたまたま見つけた生き残りの医者が応急処置してくれてる。だから今すぐどうこうって感じじゃない。多分骨折だから、安静にしておけばくっつきはするはず。だけど、ちゃんとくっついてるかなんて素人には分からない。分からないまま揺れる車に乗せて、何日も何週間も引っ張るのは、あんまり気分がいいもんじゃなかった。
しかも京都に入る手前で、道に迷ったついでみたいな顔をした面倒ごとまで拾った。
市内へ続く細い道で、女の人が襲われかけていたのだ。
襲う側も襲われる側も、この世界じゃもう珍しくない。だから本来なら、見なかったことにしたっておかしくなかった。というか、そうしたほうが安全だった。
なのに小田君は、勝手に車を止めた。
ほんと、ああいうところある。普段は横柄で、見栄っ張りで、頼りがいがなくて、セックスするしか能がない癖に、妙なところで善人ぶるのだ。人間らしいともいうのだろうか、
おかげで今、私は二人のツレを車で待たせたまま、その助けた女の人を送り届けるために、お寺の境内に立っていた。
立派なお寺だった。
さすが京都、って言い方で合ってるのか分からないけど、山門も本堂もちゃんと形が残っていて、崩れた街の中では妙にそこだけ時間が古い。人がいなくなった場所には独特の空洞ができるけど、ここにはまだ誰かの生活の気配があった。干した布。水の入った鍋。片隅に寄せられた子ども用の靴。そういう小さいものが、ちゃんと目に入る。
助けた女の人は、私たちを中へ通したあとで、少しだけ遠慮がちに笑った。
細くて、きれいな人だった。歳は私より上、多分二十代半ばだろう。なんとなく疲れ方が上の世代みたいだった。肩の力が抜けてるんじゃない。抜くしかなくて、ずっとそうしてきた人の顔だ。
白い手が、車の後ろへちらっと向く。
「あの……診れますよ私。ちょっとした怪我くらいなら」
一瞬、何の話か分からなかった。
でもすぐ、私はぱっと顔を上げた。
「ホント!? ならお願い! さっき車に乗ってた女の子なんだけど……」
「えっと……骨折、でしたよね?」
ちゃんと見てたんだ。
私はそれだけでちょっと嬉しくなって、うんうんと頷いた。
「ちゃんとした手当てはもうして貰ったの! 京都着いたら医者ぐらいいるでしょ~ってタカ括ってたら、も〜全然いなくて!」
半分愚痴みたいに言うと、その人は困ったように、それでもちゃんと笑ってくれた。
「いいですよ。私でお力になれるなら」
「ほんと!? 良かった〜」
思わず声が弾む。
世界が終わってから、こういう「助かる」がそのまんま助かるのって、案外少ない。大体は、助かったと思った次の瞬間に別の面倒ごとが生えてくる。だから単純に助かる時は、ちゃんと喜んでおいた方がいい。
私はつい、その人をじろじろ見た。
「ね、あなたここに住んでるの? 立派なお寺ね」
「はい……えっと、実家なんです。たまに必要なものを取りに市内の方に行ったりしてて」
ああ、なるほど。
さっき見かけた時の泥汚れや、袖口の擦れ方で、なんとなく分かる。ここに籠りきりじゃない。危ないのに、ちゃんと外へ出る人の汚れ方だ。
「で、襲われちゃったんだ? 危なかったもんね〜、さっきの」
私が言うと、その人は少しだけ目を伏せて、それからきちんと頭を下げた。
「あの、ホントにありがとうございました。あそこで助けて頂けてなかったら私、今頃……」
「いーのいーの! 小田君が勝手にやった事だからさ!」
本当に勝手にやっただけだし。
あいつは褒めると調子に乗るから、しかも女相手だとホントにすぐ調子に乗るから、ここで私の手柄みたいにするのも違う。
「でもたまには役に立つわ〜、あいつも」
口にしながら、私は軽く肩をすくめた。
「あ、私達ね! 車拾いながら東京向かってるの! 三人で!」
「東京……」
その人の声が、そこで少しだけ変わった。
驚いたというより、引っかかった、みたいな感じ。
「うん。なんかね〜、今めえっっっちゃすごい事になってんだって! 東京!」
「すごい事?」
食いつきが早い。
ああ、やっぱりそういう顔するんだ、と思った。東京って言葉に、期待とも未練ともつかない色が乗る人の顔。世界が終わってから、たまに見る。
私はわざと溜めてみせた。
「なんとぉ……」
「なんと?」
続きを言う前に、後ろから低い声が飛んできた。
「寧子、センセ。……誰、その人?」
振り向く。
廊下の奥から出てきたのは、十代後半くらいの男の子だった。細いのに、妙に刺々しい。髪は伸びっぱなしで、目つきは最初から喧嘩腰。こっちを見る視線に遠慮がない。服の片側が不自然に軽く垂れていて、その空き方で、片腕がないのが分かった。
なるほどねぇ。
この寺の「生活感」の正体が、少しだけ見えた気がした。
私はとりあえず、にこっとして手を振る。
「おっ、こんにちは! お邪魔してまーす」
「……誰だよお前」
うわ、初手からそれ? あでも、こういう子は嫌いじゃない。分かりやすいから。
「颯太、失礼でしょ」
それに、今ので名前も分かった。寧子ちゃんに、颯太君。
「変な女連れ込んでんじゃねーよ。チビ達になんかされたらどうすんだ」
「変な女」
思わず復唱してしまう。言い方があまりにも遠慮なくて、逆にちょっと面白い。
「ちが……この人は、助けてくれたの。その……市内で、」
「はぁ!? また行ったのかよ! あぶねーからって何回も言ってんじゃん俺!!」
声が一気に大きくなる。
怒ってる、というより怯えてる時の怒り方だった。失うのが怖い時の声。視線の向きも、私じゃなくて寧子に刺さっている。
「いくらチビらの食いもん探す為だからって、センセが居なくなったらどうなると思って、」
へえ。
そっか。そういう役割分担。
寺に残ってるのは子どもだけじゃない。子どもを抱えてる側の子どももいるわけだ。
私は二人の間に流れ始めた空気が変わる前に、ぱん、と手を叩いた。
「ストップストップ! まぁまぁこうして無事なんだし、ね? 落ちついてよそーた君?」
「気安く呼んでんじゃねぇよ! さっさと出ていけ! たかられても何もやらねーからな」
ひどいなぁ。
でも、追い出したいわりに、こっちが何人いて何を持ってるか、ちゃんと見てる目だった。馬鹿じゃない。警戒の仕方が生活に根付いてる。
「え、たからないよ。そんなに貧乏そうに見える?」
「見えるとか見えねぇとかの話じゃねえ」
「あ、颯太! ちょっと……」
寧子ちゃんが慌てて彼を追おうとする。でも颯太君はそれ以上何も言わず、舌打ちだけ残して奥へ引っ込んでしまった。足音まで不機嫌で、ちょっと笑いそうになる。
残された寧子ちゃんが、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「あの、ごめんなさい。その……ちょっと難しい子で」
私は彼が消えた廊下の方を見てから、わざと首を傾げる。
「ねぇ、変な女かな? 私」
「……ちょっと?」
「まじか」
「あ、ごめんなさい! 冗談です! 嘘!」
慌て方が真面目だ。冗談を言うのに向いてない人の、それでも場を丸くしようとして滑る感じ。悪くない。むしろ好き。
「ぷ、あはは」
笑いながら、私は彼女を見た。
「ねぇ『ねいこ』って名前? 先生って呼ばれてたけど、やっぱりお医者さんか何かなの?」
訊くと、彼女はさっきより少しだけ落ち着いた顔で頷いた。
「一応免許はあって……研修医でしたけどね」
でした。
その言い方が、もう戻らないものをちゃんと知ってる人の声だった。
彼女は視線を少しだけずらして、寺の奥を見た。誰かが走る気配がして、遠くで子どもの声がする。ここには、本当に何人もいるんだろう。
「……私も東京で働いてたんです。世界が変わる前までは」
東京。
またその単語が出る。
私は口元だけで笑って、でも頭の中では少しだけ別の計算をしていた。
東京にいた医者。京都に戻って、寺に子どもを抱えて住んでる女。世界が変わる前までは、と過去形で言う人間。
うん。
面白い話が聞けそうだった。




