愚者と恋①
北海道を目指して三か月。私たちは人生最後の夏を迎えた。
そうやって頭の中で言葉にすると、少しだけ大げさな気もする。けれど実際、大げさでも何でもなかった。人生最後。夏。どちらも、冗談じゃなく本当なのだから。
大阪を離れてから、もう三週間になる。
あの街で起きたことを、私は完全には忘れられていない。というか、忘れられるわけがなかった。湿った路地の臭いも、通天閣の上で見た空も、抱きしめられた時のノアさんの腕の感触も、ふとした拍子にまだ身体のどこかから出てくる。
でも、旅は待ってくれない。
止まっていたら、そのまま置いていかれるだけだ。食べ物も、水も、寝床も、明日の道も、誰かが用意してくれる世界じゃない。だから私たちは歩いた。拾えそうな車があれば使って、駄目なら諦めて歩いて、壊れた道と人の少ない道を選びながら、少しずつ北へ向かった。
七月一日。京都。
ようやく辿り着いたその街は、観光地として知っていた京都とは似ても似つかなかった。
いや、私は修学旅行で来たことがあるわけでもないし、テレビやネットで見たことがあるだけだけど、それでも分かる。これは、あの「京都っぽい京都」じゃない。
人の消えた街の静けさは、どこへ行っても似ている。けれど京都は、その静けさの底に、妙に古いものが沈んでいる感じがした。
崩れた塀。閉ざされた門。誰もいない商店街。看板だけは立派なままなのに、中身はとうに空っぽの店。遠くに見える山の緑だけがやたら濃くて、そのぶん街のほうが余計に死んで見えた。
「京都ですねぇ……」
思わず呟くと、隣を歩いていたノアさんが、少しだけ肩をすくめた。
「感想が薄いなあ」
「もっとこう……風情ある感じかと思ってました」
「あるじゃない。ほら、風情」
「寂れてるだけでは?」
「それを風情と言い張るのが観光の強さだよ」
適当だ、この人。
でも、そういうどうでもいい会話をしていると、少しだけ気持ちがほぐれる。世界が終わる前なら絶対しなかったような雑なやり取りを、今は毎日のようにしている。
七月二日。
蒸し暑かった。
朝から空気がぬるくて、歩くだけでじわじわ汗が滲む。日差しはまだ真夏ほど暴力的じゃないのに、湿気があるせいで息苦しい。道端の草はやたら元気で、アスファルトの割れ目から伸びた雑草が、見慣れた人工物を少しずつ飲み込んでいた。
途中で見つけた自販機は当然死んでいたし、コンビニも中身はほぼ空だった。水だけは前日に確保できていたから困らなかったけど、こういう「ありそうで無い」が積み重なると地味に疲れる。
ノアさんは相変わらず前を歩くのが上手かった。
人の気配がある場所を避けるのも、通れそうな道を見つけるのも、危なそうな建物を見分けるのも、この人は私よりずっと速い。背が高くて目立つくせに、変に目立たない歩き方をするのもずるいと思う。
そのくせ、たまに立ち止まっては後ろを振り返る。
私がちゃんといるか確かめるためだけの、短い視線。
べつに子ども扱いされたいわけじゃない。荷物だって持てるし、歩くぐらい一人でできる。そう思うのに、その視線があると少しだけ安心してしまう自分もいて、なんだか悔しい。
七月二日が過ぎて、三日飛んで七月四日。
私たちはできるだけ市街地を避けながら、ゆっくりと川沿いを進んでいた。
川の名前なんて分からない。けれど水の流れはちゃんと生きていて、濁ってはいても、止まった街の中に一本だけ時間が残っているみたいだった。
川辺の風は市街地より少しましだったけど、それでも涼しいとは言えない。むしろ湿った空気が肌にまとわりついて、歩いていると首筋がじっとりしてくる。草むらの匂いと泥の匂い。ときどき腐った何かの臭いも混ざる。夏が始まる匂いは、綺麗なものばかりじゃない。
それでも市街地の中を突っ切るよりはずっとよかった。
視界が開けているぶん不意打ちされにくいし、道の先も見やすい。人の生活が死んだあとでも、川だけは勝手に流れている。その無責任さが少し好きだった。
「京都って、もっとこう……観光客でごった返してるイメージだったんですけど」
私が言うと、ノアさんは前を向いたままふっと笑った。
「未來、いま観光客になりたいの?」
「なりたくはないですけど。いや、ちょっとはなりたいかもですけど」
「どっちだよ」
「だって、こんな時代じゃなければ普通にお寺とか見て回って、湯葉とか抹茶とか食べてたかもしれないじゃないですか」
「食べる方が本命だね」
「当然です」
即答したら、ノアさんが小さく笑った。
その笑い方が、最近少しずつ分かるようになってきた。ちゃんと面白い時の笑いと、話を流したい時の笑いと、私をからかっている時の笑いは、似ているようで微妙に違う。
今のは、割とちゃんと面白がっている時のやつだった。
七月五日。
野宿なんて、もう慣れたものだった。
慣れた、と言っても快適なわけじゃない。地面は硬いし、身体は痛いし、虫はいるし、音には敏感になるし、朝になればだいたいどこかしら不快だ。それでも最初の頃みたいに、一晩中ろくに眠れないほどではなくなった。
人間って、嫌なことにもちゃんと順応する。あんまり嬉しくない才能だ。
その夜は、川から少し離れた草地の端で休むことにした。近くに半分崩れた建物の影があって、風を避けるにはちょうどよかった。地面は完全な平らではないけど、文句を言うほどでもない。むしろこの世界ではかなり当たりの部類だ。
夕飯の残りのぬるい水を少しだけ飲んで、荷物を枕代わりにして横になる。
夜の空気は昼よりずっとましだった。まだ夏の熱を引きずってはいるけれど、肌の表面を撫でる風だけは少しやさしい。草の匂いがして、遠くで水の流れる音がする。虫の声も聞こえる。世界が終わる前と同じような音ばかりなのに、空だけが妙に広かった。
隣にはノアさんがいる。
手が届くほど近く。だけど触れるには少しだけ遠い距離。
見上げた空は、思ったよりずっと晴れていた。街の灯りがほとんど死んでしまったせいで、星が変に近い。昔より空が深くなった気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
「ノアさん、見てくださいあれ」
私は空を指さした。
「あの星、何かわかります?」
ノアさんも仰向けのまま、視線だけを空へ向ける。
「アルタイル、デネブ、ベガ」
返事が早い。
「日本じゃ夏の大三角ってやつでしょ。綺麗だね」
「……相変わらず詳しいですね」
呆れ半分で言うと、ノアさんは喉の奥で少し笑った。
「これでも星に関してはほ……」
そこで、少しだけ間が空く。ほ。そこまで言いかけるなら言って欲しい。"ほ"に続く言葉って何だろう。
「未來。彦星と織姫がどれか分かる?」
「え? えーっと……七夕の?」
「そ。日本じゃ有名なんだろ? 天の川を挟んで一年に一度、二人が会う日だって」
有名。そう、有名だ。たぶん小さい頃にも何度か聞いたことがある。短冊に願い事を書いて、笹に吊るして、織姫と彦星がどうこうって。
でも、急に空を見ながら言われると分からない。
私は眉を寄せて、星の位置を見比べた。けれど似たような光にしか見えなくて、すぐ諦めた。
「……有名ですけど」
「けど?」
「ノアさんって、なんでそういう文化知ってるんですか? 日本人じゃないのに」
訊くと、ノアさんはすぐには答えなかった。
少しだけ沈黙があって、それから空を見たまま言う。
「隣でくどくど語ってくる人がいたのさ。日本の記念日とか、風習とかさ。そりゃもう刷り込まれるぐらい」
「へぇ」
「いつも私が仕事をしてる隣でね~」
「仕事?」
私はそっちに食いついた。
「へー、ノアさんってちゃんと仕事してたんですね」
「わぉ」
隣から、いかにも傷つきましたみたいな声が返ってくる。
「すごく失礼じゃない? それ」
「いや、だってなんか……」
「なんか?」
「ちゃんと働いてるイメージ、あんまりなくて」
「未來、君いまさらっと駄目人間扱いしたよね。私、そこそこハイペックじゃない?」
私はふふっと笑って、肩をすくめた。
「なんの仕事してたんですか?」
「んー」
ノアさんは少し考えるような間を置いてから、楽しそうに言った。
「質問に正解したら教えてあげよう」
「む」
ずるい。
この人は、こういうところが本当にずるいと思う。答える気がないなら最初から流せばいいのに、少しだけ餌をぶら下げる。気になる形で置いていく。だから、こっちは気にしてしまう。
でも、追いかけすぎると、たぶん逃げる。この三か月で少し学んだ。
「……おやすみなさぁい」
だからわざと投げるように言って、寝返りを打つ。
「おいおい」
呆れた声が返ってきた。
その声がおかしくて、思わず笑う。隣からも小さな笑い声がして、夜の空気の中でそれがすぐ薄まっていく。
二人で並んで笑うなんて、旅に出る前の私なら想像もしなかった。
人生最後の夏。
七月五日の夜。
空の向こうでは、たぶん何万年も前から変わらない星が光っていて、地上では私とノアさんが、終わると決まっている世界の途中で横になっている。
変なの、と思う。
変だけど、嫌じゃなかった。
隣に誰かがいて、同じ空を見上げて、くだらないことを話して、少しだけ笑う。
それだけのことが、今は昔よりずっと特別だった。
私は目を閉じる前に、もう一度だけ空を見た。
名前の分からない星と、名前のある星が混ざっている。どれが彦星で、どれが織姫なのかは結局分からないままだったけど、七夕が近いことだけは、なんとなく身体のどこかで覚えていた。
その時の私は、まだ知らない。
その笹の下に吊るされる名前が、私の旅の先にもう一度現れることを。




