愚者と恋④
診察が終わったあと、私は本堂の縁側みたいなところに腰を下ろしていた。
西に傾きかけた陽が、境内の土をやわらかい色に変えている。昼間はただ乾いて見えた地面が、今は少しだけ温度を失って、踏めばほろりと崩れそうな影を持っていた。風は相変わらずぬるい。でも、建物の影に入るぶんだけ、外に立っているよりはずっとましだ。古い木の匂いが、湿った空気の中にじんわり混ざっている。そこへ炊きかけの米の匂いが重なって、さらに遠くから子どもの声が飛んでくる。
寺ってもっと、しんと静まり返った場所だと思っていた。
でもここは違う。静かじゃない。ちゃんと人が暮らしている家の音がしていた。誰かが歩いて、誰かが食べて、誰かが笑って、誰かが泣くかもしれない、そういう生活の音だ。
その音の中心に、あの子がいる。
さっきまで車の中でじっとしていたのに、今は同じくらいの年頃の子たちに囲まれて、見たことがないくらいはしゃいでいた。走る、ってほど無茶はしていない。けど、嬉しさが身体のほうに先に出ちゃってる感じ。笑うたびに肩が跳ねて、次に何かしたくて仕方ないみたいに足先がそわついている。大人が止める前に、もう笑ってしまうような、そういう浮き方だった。
ああいうのを見てると、ちょっと安心する。
世界がこんなふうになってから、子どもが無邪気にしてるのって、案外、贅沢な光景だった。
「ありがとね、ネコちゃん」
私が言うと、隣に立っていた彼女――寧子ちゃんは、少しだけ目を丸くした。
「あの子があんなにはしゃいでるの、初めて見た」
「良かったですね、ちゃんと骨くっついてて」
その言い方が、いかにも医者だった。
安心させるために、必要以上に大げさなことは言わない。でも暗くも言わない。言うべきことだけを、ちゃんと相手が飲み込みやすい温度で置く。たぶんこの人は、そういうふうに何人も診てきたんだろうな、と思う。世界が終わる前から、きっと。
「それに、歳近い子が多いのも良かったみたい。多分この先、小学生くらいの子と接する機会なんてそう無いと思うしさ」
寺の奥から、またひときわ高い笑い声がした。釣られるみたいに、何人かの声が重なる。
混じる声の数で、だいたいの人数が分かる。多い。思っていたよりずっと。
「……だから良かった。ネコちゃんとこ来れて」
「あのぉ……」
寧子ちゃんが、困ったように笑う。
「さっきから気になってるんですけど。その、ネコちゃんって」
「ん~?」
私はわざと首を傾げた。
「ふふ。変な女って言われたお返し」
「ええっ?」
素直にびっくりするから面白い。
こういう人、弄ると反応がいちいち真っ直ぐなんだよね。からかい甲斐がある。
「あはは。可愛くない? ネコちゃん。にゃーん、って感じで」
「あ、あー……あはは……」
笑ってはいる。でも全然乗れてない。愛想では笑えるけど、冗談のボールをそのまま投げ返すのは苦手、みたいな顔だった。真面目な人って、こういう時に困るよね。
「え、あ。ごめん。怒った?」
「あ、違うんです。そうじゃなくて、その……似合わないなって」
「私が?」
「いえ、私がです」
寧子ちゃんは視線を少し落として、白衣代わりみたいな薄い上着の裾を、指先でそっとつまんだ。
「私は、猫みたいになれないから」
その言い方に、私はちょっとだけ目を細める。
冗談として流せばいいのに、この人はちゃんと拾って、ちゃんと考えてから返してくる。そういうところが真面目で、面倒で、たぶん危うい。軽く受ければ自分も楽なのに、わざわざ意味のある方へ寄せてしまう。
「そうかな? 似合うと思うけど。語尾に『にゃー』とか」
「そ、そういうのじゃなくてぇ」
彼女が慌てて手を振る。かわいい人だな、とは思う。男が放っておかない感じも分かる。颯太くんがあんな顔になるのも、まあ分からなくはない。
「私が言ってるのは、その……生き方というか」
「生き方かぁ」
私は膝を抱えて、境内をぼんやり見た。
干してあるタオル。端に寄せたバケツ。雑に並べられた子どもの靴。誰かが使ったまま蓋を閉めた薬箱。縁側の柱に立てかけた掃除道具。生活って、だいたい痕跡がうるさい。丁寧に整えていても、人数が増えればすぐに物が喋り始める。
「ネコちゃん。このお寺って、ネコちゃんのお家なの?」
「はい」
「子ども、多いね」
「……はい」
「親は?」
一拍、間が空いた。
子どもの笑い声は遠くで続いているのに、こっちだけ少し静かになる。こういう空気の切り替わりって、私はけっこう好きだ。何でもない顔をしていた人の足元に、急に見えなかった穴が開く感じがするから。
「みんな、行く場所がなくて、ここに寄り合ってきたんです」
寧子ちゃんは、言葉を選ぶみたいにゆっくり言った。
「それを……」
「助けてあげたんだ」
私が続きを取ると、彼女は言葉を止めたまま、小さく頷いた。
「片腕なかったもんね、そーた君とか」
「養護施設で置き去りにされてて……死にかけだったんです。ひまりも、千佳も、颯太も。他の子も。それで……」
他の子も。
そう一括りにするには、たぶん一人ひとりにちゃんと事情があるんだろう。名前も、傷も、ここへ流れ着いた経緯も。でも今の彼女には、それを一個ずつ取り出して説明する余裕はない。抱えてる人って、そういうふうにまとめて言うようになる。
私は頭の中で人数を数えた。見えた顔、聞こえた声、置いてある食器の数、干してある洗濯物の量。米の匂いの強さまで入れれば、だいたい外さない。
「それで大人一人と子どもが……五人くらい?」
「……はい」
「そっか」
私は小さく息を吐いた。
「多すぎるね」
寧子ちゃんは何も言わなかった。
否定しない。できないんだろう。偉いですね、なんて言われたい顔じゃない。もうとっくに、自分の両腕で抱えられる量を超えているって分かってる人の顔だった。優しいというより、引き返すタイミングを失くした人の顔。
「余計なお世話かもしれないけどさぁ」
そう切り出した瞬間、寧子ちゃんはぱっと顔を上げた。
「あの、一つお願いがあるんです! 東京、向かってるんですよね?」
「うん」
「もし、音桐って名前の医者に会ったら……伝えてほしいんです。私のこと」
その名前だけで、声の温度が変わる。
ああ、なるほど。さっきから東京って単語に引っかかってた理由、これか。
「……多分、無理だと思うよ」
私は正直に言った。
東京で誰かを探す。しかも生きてるかも分からない相手を。今の世の中でそんなの、天気のいい日に海で落としたピアス探すようなものだ。波が来て、砂に埋もれて、どこへ行ったかも分からないのに、それでもきらっと光るかもしれないって期待だけで手を突っ込むみたいなもの。
「無理でもいいんです! 彼が生きてるかもわからないし、まだ東京にいるかも……わからないです。でも、もし。もし偶然会えたらでいいんです。それでいいので、私の伝言を届けてくれませんか?」
必死だ。
こういう顔、たまに見る。
会いたい人がいる顔。行けない理由を抱えたまま、それでも諦めきれない人の顔。自分で切ったはずの道の先を、まだ目で追ってしまう人の顔だ。
「んー……」
私は少しだけ考えるふりをして、それからにっこり笑った。
「イヤ」
「……え」
「ごめんね。出来ないお願いは断るようにしてるの。責任取れないから」
「できなくてもいいんです! 届く可能性を持てるなら、それだけで十分なんです。だから――」
「ごめんだけど、可能性があったとしても伝えない」
今度は、笑わないで言った。彼女の目が揺れる。傷ついた、というより、理解できないって顔だった。助けてもらったのに。さっきまであんなに軽く喋ってたのに。なんでそこだけそんなにはっきり切るの、っていう顔。
「なんで……!」
責めるというより、縋るみたいな声だった。
私はそこで、ようやく彼女をまっすぐ見た。
「逆に聞きたいんだけど。ねぇ、ネコちゃん。九か月後には隕石降ってくるんだよ。みんな死ぬんだよ? なんで自分で行かないの?」
「それは……」
言葉が止まる。
私には、その先がだいたい分かる。子どもがいるから。離れられないから。自分には責任があるから。そういうやつだ。
全部、正しい。正しいけど、だから何って話でもある。
「行けばいいじゃん」
私は言った。
「伝えたいことがあるなら、会いたい人がいるなら、やり残したことがあるなら、自分で掴みなよ」
「っ、それが出来るなら……!」
寧子ちゃんの顔が、ぐしゃっと歪む。あ、この人泣きそうだ。
「出来るならっ……」
そこで一回、言葉が切れた。
目元を押さえるでもなく、泣くのを堪えるでもなく、ただ息だけが乱れる。そういう崩れ方のほうが、見ていてしんどい。涙を見せるより前に、身体のどこかが先に限界を迎えてるみたいで。
でも私は、そこで手を差し伸べる気にはならなかった。だってこの人はたぶん、もうとっくに選んでいる。
ここに残ることを。子どもを抱えることを。会いたい誰かより、今ここで自分を必要としているものを優先することを。
だったら、その選択の外側にいる誰かに夢を預けるのは違う。
自分で抱えたものなら、自分で持っていくしかない。
「……すいません」
彼女が、ようやく小さく言った。
「その通りです。……忘れてください」
「うん」
私は立ち上がって、服の裾を払った。
「じゃ、もう行くね。色々ありがと、ネコちゃん」
彼女は顔を上げなかった。
少し離れたところで、子どもたちの輪の外にいたあの子が、こっちに気づいてぱたぱたと駆け寄ってくる。無理しない程度に、それでも急ぎたいのが丸分かりな歩き方だった。足のことを忘れてるわけじゃない。忘れたいくらい嬉しいだけだ。
私は手を軽く上げて合図して、そのまま隣に並ぶのを待つ。
境内へ降りる前に、一度だけ振り返った。
寧子ちゃんは縁側に立ったまま、夕方の影の中でひどく細く見えた。もともと華奢なんだろうけど、それだけじゃない。抱え込んだものの重さで、芯まで細っている感じがした。ああいう人は、自分が潰れる寸前まで抱える。優しいっていうより、下手なんだよね。捨てるのが。
私は子どもの歩幅に合わせて、山門の方へ歩き出す。
その背中に、ほとんど消えそうな声が落ちた。
「……ソウタ」
私は足を止めなかった。
背中の向こうで、子どもたちの笑い声がまた混ざる。夕方の空気に溶けて、どれも同じように軽く響く。
それでも彼女の気配だけは、ずっとそこに取り残されたみたいに重たかった。
自分で行けない人の願いは、だいたい叶わない。
こんな私でも、それだけはよく知っていた。




