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新世界より  作者: 福田雛子
3話 親愛忌譚
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親愛忌譚⑦


 通天閣タワーへ向かう道中、車内には妙に途切れない沈黙があった。


 誠さんは鼻歌まじりにハンドルを握っていて、さっき路地裏で人を殴り倒していたのと同じ人間とは、まだ少し思えない。フロントガラスの向こうでは、台風の爪痕が残った街が午後の日差しにべたついていた。濡れた路面、ひしゃげた標識、道端に吹き寄せられたゴミ。空だけがやけに明るいせいで、壊れた街のほうが嘘みたいに見える。


 さっきノアさんと少しだけ話せた。その事実が、胸の奥の冷たさをかろうじて薄めてくれている。


 けれど、安心にはまだ遠い。


 シートベルトの金具を指先でなぞりながら、私は窓の外に視線を逃がした。何か喋ったほうがいい気もするし、黙っていたほうがいい気もする。助けてもらった相手なのに、気まずい。気まずいのに、怖いわけではない。その半端な感じが、かえって落ち着かなかった。


「それでよぉ」


 誠さんが、前を見たまま口を開く。


「合流したら、嬢ちゃんらはそのまま北上すんのか?」


「たぶん。ノアさん次第ですけど」


「ふぅん。広島から徳島経由で淡路島抜けて大阪まで来て、そっからまた上かぁ。旅してるねぇ。若いのに根性あるわ」


「いや……根性っていうか、流されてるだけっていうか」


「はは、旅ってだいたいそういうもんだろ」


 気楽に笑われて、私も曖昧に笑い返した。


 徳島から大阪。


 その距離感に、もうここにいない女の子の無邪気な笑顔が浮かんだ。


 徳島、四国。海。山を越えた先にあった、あの朝の青さと漣が甦る、胸の奥が鈍くざらつく。歩いて、歩いて、歩いて、やっと辿り着いた渚の果てで、私達が置きざりにした小さな命。


 私は小さく息を呑んで、その先を無理やり止める。


 今は駄目な気がした。さっきまでの出来事が引いていなくて、心の底のほうがまだ変に柔らかい。そこへ別の不安まで流し込んだら、たぶん簡単にいっぱいになる。


 だから私は、誤魔化すみたいに別の話を選んだ。


「そういえば、東京って今どうなってるんですか」


 誠さんが、ちらっとだけこっちを見る。


「いや、その……月子さんと東京から来たって言ってたから」


「あー、ヤバいよ。今の東京は、絶対行かない方がいい。」


 誠さんは一つ頷くと、少し面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「変な宗教が台頭しててな」


「宗教……ですか」


 反射で、かなり嫌そうな声が出た。


 その瞬間、頭の奥で忘れたはずの空気がべたつくみたいにフラッシュバックする。


 薄暗い部屋。開けっぱなしの引き出し。乱雑に積まれた紙束。聞いたこともない言葉を、やけに真剣な顔で繰り返す声。何かに縋るみたいに、何かに選ばれたがるみたいに、熱っぽく、でも中身の見えない話をしていた姿。内容はもう曖昧なのに、それの息苦しさだけは、嫌なくらい身体が覚えている。


 自分でも分かるくらい顔が曇ったせいか、誠さんが苦笑する。


「おぉ。変な集団が議事堂とか皇居乗っ取って好き放題してんのよ」


「議事堂……」


 なんかもう、終わり方が雑すぎる。


 世界が終わると分かってから、たくさんのものが壊れたのは知っている。家族も、学校も、街も、人の心も。けど街を宗教集団が乗っ取るというのは、壊れた先の景色としてあまりにもそのまんますぎて、逆に現実味がなかった。


「しかも食料の配給とかやり出したお陰で、信者がボンボン増えちまってな。俺ら自衛隊も面目丸潰れってわけ」


「じえ……え、誠さん自衛隊なんですか!?」


 驚きすぎて、声が裏返った。


 それはびっくりする。いや、たしかに、あの強さを見れば納得ではあるのだけど。でも、目の前のこの人が、さっきまで「チビちゃん」とか言いながら人攫いをぶっ飛ばしていたこの人が、自衛隊。


 なんだろう。妙な説得力と、妙な胡散臭さが両立している。


「元、な」


 誠さんは笑う。


「だからサバイバルには困んねーの。鍛えてたお陰で、チビちゃん襲ったみてーなチンピラも腕っぷしだけでボコボコにできるしな」


「はぇ……」


 変な声が漏れた。


 いや、実際見た。見たというか、正確には車の中で音だけ聞いていた時間のほうが長いけど、路地裏に転がっていた男たちの様子を見る限り、かなり容赦はなかったと思う。


 あれが元自衛隊の腕力だと言われると、妙に納得してしまう。


「じゃあ、それが原因で東京から?」


「いんや。正直、こんな明日もどうなるかわかんねー旅するより、引き籠ってる方が安全さ。けど月子がなぁ」」


 あっさり否定したその言い方には、実感があった。


 綺麗事じゃない。本当にそう思っている人の声だ。大阪までの道のりだけでも十分しんどかった。食べ物、水、寝床、天気、道、車、他人。何一つまともに保証されていない。移動するって、それだけでかなり命知らずだ。


 なのに誠さんは、そんな危ない旅をしてまで月子さんについてきている。


「あいつが出て行きたいって言うなら、着いていってやるしかねーからよ、俺は。こうやって足探すのにも苦労するが……しょうがねーのさ」


 あっけらかんとした言い方で、だけどその「しょうがねー」の中にあるものは、全然軽くなかった。私は膝の上で指を組み直す。なんとなく口に出した言葉は、思っていたよりずっと静かだった。


「……好きなんですね」


「あぁ」


 即答だった。迷いがない、というより、迷う余地がなかったみたいな返事だった。


「……ずっと好きで、ずっと傍にいて、ずっとずっと欲しかったんだ、アイツが」


 その言葉に含まれた、形容し難い重さのような何かに、私は少しだけ息を止めた。


 好きとか、恋とか、そういう可愛い単語で包むには、ちょっと重すぎる。執着、に近いのかもしれない。けど誠さん自身は、それを別に恥じてもいないし、隠そうともしていなかった。


「だから、どんなわがままでもお姫様だと思って聞いてやるのさ。まぁいわゆる――」


「惚れた、弱み?」


 つい先回りしてしまった。


 誠さんが、ぽかんとしたあと吹き出す。


「ぷっ、あはは。先に言われ……~んや」


 笑いながらも、そのまま少しだけ口ごもった。


「でもどっちかっていうと、償いだな。惚れた償い」


「償いって……なんかそれじゃ、好きになったのが悪いことみたいです」


「悪いさ」


 誠さんの横顔から、いつもの大雑把な明るさが少し引く。冗談みたいに喋っていた空気が、そこでわずかに変わった。


「なんせ……」


 そこで一度、言葉が途切れる。前を見たまま、低く息を吐いた。言い淀むというより、口に出すための順番を探しているみたいだった。


「あー、チビちゃんはさ、父親ぐらいの歳のオッサンと結婚してくれって言われたら、どうよ」


 私は数秒、返事に困った。妙に生々しい聞き方だったからだ。


 ただの例え話、にしては感触が近すぎる。年の差とか、そういう言葉で片づけるには、聞いた瞬間に胸がざわつく種類の質問だった。


「……困る。です」


「だろ」


 短く返される。その一言に、変な納得が込められていたから、私は少し焦って、慌てて言葉を継ぎ足した。


「でも! 気にしない人もいる……と思います」


「ハハ」


 誠さんは小さく笑った。けど、その笑いはいつもの豪快なものじゃなかった。


「……ホントはこんな筈じゃなかった、って思ってんだよ。月子は」


 車の中の空気が、じわっと重くなる。窓の外では日差しが反射しているのに、そこだけ少し陰ったみたいだった。


「どうせチビちゃんも、隕石降ってくるせいで人生台無しになった口なら、そう思った事あるんじゃねーの」


 私は答えるまでに、少し時間がかかった。


 隕石が降ってくる前から、私の生活はもうだいぶ限界だった。


 お母さんの介護で家はずっと息が詰まっていて、お姉ちゃんも出ていって、お父さんも少しずつ壊れていた。私だけが、まだなんとか大丈夫なふりをしていただけだ。家族だから、で飲み込んで、今日も明日も続くんだと思い込んでいた。


 だから、全部を壊したのは隕石だけじゃない。


 あれはたぶん、最後のひと押しだった。


 もうとっくにひびの入っていたものを、元に戻らないところまで割ってしまった、決定的な何か。お母さんを殺して、お父さんが狂って、私がセーラー服のまま知らない道を歩いている今に、強引につなげてしまったもの。


「……あります」


 自分でも驚くくらい、小さい声だった。誠さんはそれ以上そこを掘り返さなかった。


「逆なんだよなぁ、俺は。隕石が降ってきたお陰で、死ぬまでお月様みたいに眺める事しかできなかった女を手に入れたんだ」


 私は何も言えなかった。


 お月様、という言い方だけ切り取れば、ちょっと綺麗だ。綺麗だけど、たぶん中身は全然綺麗じゃない。遠くから見ているしかなかったものを、世界の終わりに紛れて自分の手元へ引き寄せた、みたいに聞こえる。


 それを幸福と言っていいのか、私には分からない。


 しかも、その「手に入れた」が、月子さんにとって同じ意味を持つとも思えなかった。


「…………」


 言葉が出ないまま、私は窓の外を見るふりをした。


 道路脇を、買い物カートを押した人が歩いていく。中身はペットボトルと毛布と、よく分からないガラクタ。終末の街では、ああいう荷物の積み方ひとつにも、その人の生活が露骨に出る。何を捨てられなくて、何を必要としているのか。


 きっと人の関係も同じなのだ。手放せないものを抱えたまま、変なかたちで歩いている。


「つーか、まぁ。そもそも旦那が居たんだよ。あ、元旦那になるのか」


「元……ってことは、その、離婚。とか?」


 自分で言いながら、ずいぶん平和な単語を選んだなと思った。


 でも他に何て言えばいいのか分からなかった。年の差があって、償いがあって、元旦那がいる。話の流れだけ追うなら離婚が自然だ。自然、だけど。


「殺された」


「え」


 短すぎて、一瞬意味が入ってこなかった。


 誠さんは前を見たまま、同じ調子で言う。


「殺されたんだ。半年前に」


 喉の奥が、ひゅっと細くなる。


 車のエンジン音がやけに大きく聞こえた。タイヤが濡れ残った路面を踏む音。遠くで何かが崩れるような響き。さっきまで普通に会話していたのに、その一言で景色の色が少し変わった気がした。


 半年前。


 世界が終わると知らされて、みんなが少しずつ壊れ始めて、けれどまだ今ほど全部が崩れきってはいなかった頃だ。


 そんな時に殺された。月子さんの旦那さんが。


 私は口を開きかけて、やめた。何を言っても軽くなる気がしたからだ。


 かわいそう、も違う。大変でしたね、なんて論外だ。そもそも、誰が、どうして、誠さんはそこに何をしていたのか。聞きたいことは一気に増えたのに、どれも簡単に訊いていいことじゃない気がした。


 誠さんの横顔は、もう笑っていなかった。


 けれど沈んでいる、というのとも少し違う。過去を悼んでいる顔というより、ずっと抱えている傷を、いつもの位置に戻しただけみたいな顔だった。


 私は膝の上の手を、そっと握りしめる。


 通天閣タワーまで、まだどれくらいだろう。


 ノアさんに会えたら、私はたぶん、今聞いたことをすぐにはうまく話せない気がした。

 

 月子さんと誠さん。あの二人の間にあるものは、私が最初に思ったより、ずっと重くて、ずっと気持ち良いものじゃなくて、そして多分、簡単な言葉では呼べない。


 車はそのまま、濡れた大阪の道を進んでいった。



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