親愛忌譚⑧
夫は議員だった。
終末宣言が出てから、東京の空気が急速に変わっていくことを彼は誰よりも敏感に感じ取っていた。治安の悪化も、政治の機能不全も、人心の荒廃も、いずれ一か月も経たないうちに表面化するだろうと、そう口にしていた。
月子には、その頃の彼の言葉を、当時の重さのまま受け止めることはできなかった。世の中が壊れていく、などと言われても、現実感が薄かったからだ。だが彼は違った。分からないなりに手を打ち、どうにかしようとしていた。
最後まで、どこまでも真剣だった。
なのに。
「撃たれたの、彼」
展望台のに身体を預けたまま、月子は言った。軽く言ったつもりだったが、声は妙に乾いていた。
「信じられる? 日本だよここ。……ありえないよね」
銃で人が撃たれて死ぬなど、本来なら現実味のない話のはずだった。少なくとも、かつての東京で暮らしていた頃の感覚ではそうだ。だが、実際に彼は帰ってこなかった。帰りが遅いと思っていたら、そのまま戻らず、探しても見つからず、数日後に死体で発見された。
言葉にしてしまえば、それだけの流れだった。
あまりに簡単で、あまりに救いがない。
帰りを待った時間も、連絡の来ない夜の長さも、最後にはその一言に押し潰されてしまう。説明のつかない空白だけが残って、納得できる理由は何ひとつ与えられなかった。
隣に立つノアは、すぐには何も言わなかった。慰めの言葉を探す様子もなく、かといって露骨に距離を取るわけでもなく、ただ黙って聞いていた。
その反応は、月子にとってはむしろ都合がよかった。安い同情や、形だけ整った慰めを差し挟まれるよりは、その沈黙の方がましだった。
「復讐か」
「あはは……引いた? 間違ってるって思う?」
「それを決めるのは他人じゃないよ……こんな世の中じゃ、尚更ね」
ノアの返答は、淡々としていた。綺麗事のようにも聞こえる言葉だったが、不思議と押しつけがましさは薄かった。正論を振りかざす人間特有の湿っぽさがなかったからかもしれない。
「……優しい人だったんだよねぇ」
月子は、視線を大阪の街に向けたまま言った。
「彼、田舎生まれですんごく素朴な人で。私、東京育ちで箱入りだったからさ。わがままで、粗野で、ガサツで。良いところなんてひとっつも無いのに」
自嘲めいた物言いだったが、完全に本気というわけでもないのだろう。自分の厄介さを分かった上で口にしている、そんな調子だった。
ただ、少なくとも彼女の夫は、それを欠点として数えなかったのだろうということは、十分に伝わる言い方だった。理想化するでもなく、突き放すでもなく、面倒なものを面倒なまま引き受けるような、そんな。だからこそ、納得がいかない不和を抱えた声で。
「ね、因果応報って分かる? 日本のことわざ。あれってね、嘘なんだ」
吐き捨てるというほど強くはなく、しかし冗談でもない声だった。
「だってさぁ、殺されるぐらいの悪いことって、何?」
そこで初めて、月子の声にかすかな揺れが混じった。
「……してないよ、そんなの」
それはノアに向けた言葉でもあり、そうでないようでもあった。すでにいない相手を庇うようでもあり、世界そのものに対する反論のようでもある。
「だから、絶対に……っ」
だが、その先の言葉は続かなかった。
何を絶対に、なのか。許さないのか、見つけ出すのか、終わらせるのか。そのあたりは、本人の中でもまだ一つの形に固まっていないのかもしれなかった。
復讐という言葉で括るには、感情の中身が濁りすぎている。
怒りだけではない。悲しみだけでもない。悔しさや執着や、置いていかれたことへの反発まで混ざっているように見えた。
月子は息を吐いた。
「はぁ~あ……わかんないもんだよね、人生なんてさ……こんな筈じゃなかったのになぁ。なんで……何やってんだろ」
独り言に近いその言葉を、ノアはやはり遮らなかった。彼の沈黙は、気まずさというより、こちらの話を無理に整理しないための間に近かった。聞き流しているわけでも、深く踏み込むわけでもない。その距離感は、月子にとっては悪くなくて、だから分かった。ノアが自分の会話を聴きながら、別の何かを同時に辿っている事にも。
「ねぇ……今、何考えてたか当ててあげよっか?」
「気まずい、とか思ってないよ?」
「そこまで自意識過剰じゃないなら安心した」
その返しに、月子はわずかに笑った。
「大切な人のこと思い出してたでしょ。セーラー服の子とは別の人。んー……女かな」
ノア薄い金髪が、ほんの少しだけ揺れる。それは風が吹いたせいではなかった。反応はごくわずかだったが、月子にはそれで十分だったらしい。
「……どう?」
ノアは数秒黙ったのち、小さく息をついた。
「参った。凄いね」
「女の勘」
月子は肩をすくめた。それから少しだけ調子を和らげる。
「ふふ、なんてね。ごめんごめん。ホントに気まずかったんでしょ? 会ったばかりの人にする話じゃなかったね」
「もう一生会うことがないから話したんだろ?」
ノアの言葉に、月子は一瞬だけ目を瞬いた。軽く流したようでいて、こちらの事情を妙に正確に拾う言い方だった。
「これが礼になるなら、いくらでも聞くさ」
丁寧なのか、雑なのか、判断のつかない言い方だった。だが、月子はその不安定さをあまり嫌がってはいないように見えた。
「……ありがと」
礼の声は小さい。
「ま、物騒なこと言ったけど気にしないで。別にそれだけが目的じゃないから」
「あぁ、なら今度はこっちが当てようか……美味しいものを食べる、だ」
ノアが少しだけ口を緩め、その答えに、月子は吹き出す。
「ねぇ、もしかしてグルメ旅してるの?」
「言ったろ? 相棒が食い意地張ってるのさ」
軽口にしては、言い慣れた響きだった。月子もそこには気づいたらしかったが、あえてそれ以上は追わなかった。
「まぁ、それもイイかもだけど……私もね、人を探さなきゃいけないの」
笑いが引くと同時に、声の温度も少し下がった。
「徳島に居るのは分かってるから、なんとか見つけて……まぁ、生きてるかも分かんないけどね」
期待を持ちすぎないようにしている話し方だった。生きていると決めつけることも、死んでいると断じることも避けた、中途半端な位置に自分を置くような言い方だ。
ノアが短く息を吸う。
「あぁ……納得した」
「……? 何が」
「ここに来た時、探すの手伝おうとしてくれたの。初対面なのになんで、って思ったんだけど……その人は大事な人で、諦めてないんだろ? そっちも」
その言葉に、月子はすぐには返答しなかった。
諦めていない、という表現は、おそらく正しいのだろう。本当にすべてを諦めているなら、そもそもここまで来ていない。探すことも、誰かの捜索を手伝おうとすることもなかったはずだ。
「……だって、あそこで諦めろなんてさ……まるで鏡に言ってるみたいじゃない?……まだ何かを諦めきれないから、こんな世界で生きてるのにね。私たち」
自分自身が何かを手放せずにいるのに、他人にだけ諦めろと言うのは、たしかに滑稽だ。だから、あの時月子は手を伸ばそうとした。
ノアがかすかに笑う気配がした。
「因果応報って」
「うん?」
「あれ、良いことしたら良い結果が返ってくるって意味もあるらしいよ」
「……それ、もしかして励ましてる?」
「つもりだけど。おかしかった?」
月子は声を立てて笑った。
「ぷ、あはは」
さっきまでの話の重さを考えれば、場違いなくらい軽い笑いだった。だが、その軽さのおかげで、場の空気は少しだけ緩んだ。
「ううん、合ってる」
笑いの余韻を残したまま、月子は言う。
「日本語上手だね」
「かなり鍛えられたからね」
「大切な人に?」
その問いに、ノアはほんの少しだけ視線を逸らした。分かりやすい反応だった。だけど、深追いはしなかった。
「……そろそろ降りようか」
話題を切るように、ノアが階段の方を示した。
「車で来るんだろ? 下で待って」
「ダメ」
その即答に、ノアがわずかに表情を変える。
「……いや、けど」
「ダメ」
今度は、最初よりも強く、それはおそらく拒絶。
「ここで待つ。アナタもそうして?」
理屈というより、判断の方が先に来た口調だった。下で待つより、ここにいた方がいい。そう思ったのだろうが、その理由までは口にしなかったし、たぶん本人の中では既に完結している、何かがあって、だけどノアはその真意を読み取れない。だから少し迷った素振りをして、月子の言葉に従った。それから、ふと思い出したように言う。
「……そういえば、まだ聞いてなかったんだけど」
「なに?」
「一緒に旅をしてる彼とは、どういう?」
月子は一瞬だけ目を細めた。
彼、と言われると、どこかおかしみがあるらしかった。
「ん? あぁ、誠?」
名前を口にしたときの笑みは、さっきまでと少し種類が違う。可笑しさだけで済まない、説明しづらい含みがそこに混じる。
「あはは、誠だって」
だが、その笑いも長くは続かなかった。
「……あの人はねぇ、私の――」
そこで、月子は言葉を切った。
下の階から、誰かが駆け上がってくる足音が響いたからだ。金属の階段を打つ音は速く、ためらいがなく、展望台の空気を急に現実へ引き戻すのに十分だった。
月子は反射的にそちらを振り向いた。ノアも同じ方向へ視線を向ける。
さっきまでとは別種の緊張が、場の上に差し込んでいた。




