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新世界より  作者: 福田雛子
3話 親愛忌譚
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親愛忌譚⑥


 風が強かった。


 誰かが暴れたのか、展望台の窓ガラスは大きく抜け落ちたままになっていて、そこから昼下がりの風が遠慮なく吹き抜けていく。湿気を含んだ大阪の空気はぬるいのに、高い場所の風だけは妙に容赦がなくて、肌に当たるたび少しひやりとした。


 床の縁から先にあるのは、柵も何もない空白だった。一歩踏み外せばそのまままっすぐ地面まで落ちて、豆粒程にみえる地上の人影や車の残骸と同じような染みになってしまうだろう。


 月子は割れた窓際から半歩だけ離れて、肩越しにノアを見た。


 外人さん――ノアは、さっきまでの張りつめた様子が少しだけ緩んでいた。未來が見つかったと分かったからだろう。けれど完全に落ち着いたわけじゃない。まだ呼吸の深さが浅いし、荷物を持つ手の力も抜けきっていない。助かった、で終われるほど器用じゃない顔をしていた。


「さっきはごめんね、うるさくて。昔っから、ああいう感じで。粗野っていうか、横暴っていうか」


 誠のことを言っているのだと分かって、ノアは少しだけ苦笑した。


「いや、助かったよ。本当に。あとでちゃんと礼を――」


「いいって。気にしないで」


 月子はひらひらと手を振る。


 実際、礼なんて別に要らない。誠が勝手に助けて、勝手に張り切っているだけだ。月子はそれを横から拾って繋いだだけで、自分が善いことをしたつもりもなかった。


 ただ、目の前の男には少し興味があった。


 金髪碧眼の長身。こんな世界でもまだ妙に目を引く顔立ちをしているくせに、さっきまでの必死さのせいで、今はどこか危うく見える。未來のことになると、ああいう顔をするんだな、と月子は思った。


 だから、なんとなく聞いてみた。


「……ねぇ、あの子、可愛かったね」


 わざと少し笑って言う。


「大事な人なの? 恋人?」


「……そんなふうに見えるかな?」


 沈黙は短く、だがその短さが逆に、適当に流すつもりはないんだなと思わせた。問い返し方は、少しずるい。肯定も否定もせず、相手へ返す。月子はそういう逃がし方が嫌いじゃなかった。大人だなとも思うし、腹の中を簡単には見せない人なんだなとも思う。


「私、実は女の子が好きだって言ったら意外?」


 意図がわからなかったのか、ノアは眉をわずかに上げる。


「あり得なくはない。と思う」


 慎重な答え。決めつけないし、露骨に驚きもしない。相手の言葉をいったん受け止めてから返してくる。言ってからどうやら質問の意味に気付いたのだろう、日本語は上手いが、皮肉や嫌味には疎いんだろうな、と少しだけ可笑しくなった。


「そういう事だよ。好きなのは男だけどね」


 風が抜ける。ガラスを失ったサッシが、かすかに軋んだ。遠くで何か金属が擦れる音がする。下界は相変わらず終わっていて、ここだけがやけに空に近かった。


「相棒なんだ。あの子は大事な……旅の相棒」


 恋人、とは言わなかった。


 家族、とも。


 月子はその言い方を少しだけ反芻する。大事な、と言いかけて、旅の相棒に置き直した。その小さな言い直しが、妙に耳に残った。


「ふぅん……良かったね。見つかって」


 風が髪をさらっていく。東京を出てから伸びた髪は、いちいち顔にかかって鬱陶しい。指で払ってから、月子はまた何でもない調子で続けた。


「でも大切な人なら、ちゃんと手ぇ繋いどきなよ。じゃないと、」


 言いながら、片手で銃の形を作る。人差し指を立てて、親指を跳ね上げる。子どもみたいな仕草で「ばーん」と、口でそう言ってから、月子は小さく笑った。


「知らないうちに、無くなっちゃうかもよ」


 冗談みたいな言い方だった。けれど、冗談として響かなかったのは、ここがもう、何が消えても不思議じゃない世界だからだろう。人でも、物でも、生活でも。手を伸ばしたときにはもう遅いことが、本当にある。


 ノアは一瞬だけ月子を見た。その顔から、さっきまでの柔らかさが少し引く。


「ここがヒューストンじゃなくて良かったよ」


 軽口の形をしていたけれど、声の底には乾いたものがあった。自分を責める手前で、無理に笑っているような響きだった。


 月子はそれ以上そこを突かなかった。突けば、たぶんこの人はちゃんと傷つく。そう分かったからだ。だから、話題を変える。


「ね、どこ向かって旅してるの? 四国の方なら、乗せてってあげるけど」


 ノアは少し意外そうに月子を見たが、すぐに首を振った。


「ありがたいけど逆方向。九州スタートで、北海道に向かってるんだ」


「へぇ。日本縦断じゃない」


 感心するように、月子が言う。終末の日本を南から北へ。言葉にすれば簡単だけど、やっていることはだいぶ正気じゃない。いや、この世界で正気のまま旅なんて続けられるのかどうかも怪しいけれど。


「何しに?」


 そう聞くと、ノアは今度こそ少しだけ、まともに笑った。


「相棒が、いくらと海鮮を食べたいって聞かなくてね」


「ぷ、あはは。何それ~……」


 吹き出した笑い声が、風通しのいい廃墟の上でやけに軽く響く。堪えきれず、もう一度笑う。


「ふふ。そっか」


 おかしかった。おかしいくせに、少しだけ救われる話でもあった。


 誰かを探して必死になっていた男の旅の理由が、世界を救うためでも、復讐のためでも、崇高な使命でもなく、海鮮を食べたいから。もちろん、それだけじゃないのは分かる。分かるけど、それを口にできるくらいには、この人たちの旅にはまだ普通の願いが残っているのだ。だから、安心したのはそのせいだった。


「行き先が違うなら、ちょっと安心かな」


「安心?」


「うん」


 月子は肩をすくめる。


「私ね、東京からこっち来たの。徳島が目的地だから、もうすぐゴール」


 ゴール、という言い方をしてみて、自分で少しだけ変な気分になる。目的地には違いない。でも、そこへ着けば何かが終わるのか始まるのか、月子にもよく分からなかった。


「へぇ。そっちの目的は?」


 問い返されて、月子はほんの少しだけ目を細めた。風が強い。割れた窓の向こうで、曇りかけた空がゆっくり流れていく。下では誰かの怒鳴り声のようなものが遠く小さく響いて、すぐに消えた。


 さっきまで笑っていたのに、その空気がふっと剥がれる。


「人殺し」


 沈黙が産まれた。月子に対したノアの表情は驚いた、というより、言葉の置き場を探しているような沈黙だった。


「殺したい人が居るの」


 声は平坦だった。


「隕石が落ちてくる前いどうしても。……だから旅してるんだ、私」


 風が、今度はさっきよりも強く吹いた。抜け落ちた窓の向こうに広がる大阪の街は、どこまでも汚く、どこまでも遠かった。ここから落ちたら、きっと一瞬だろうな、と月子はどうでもいいことを思う。


 その横で、ノアはすぐには何も言わなかった。軽口も、慰めも、正論も出てこない。


 それが月子には少しだけ意外で、少しだけまともに思えた。殺したい相手がいる、と言われたときに、すぐ綺麗な言葉を返してくる人間は信用できない。


 この男は、少なくともそこでは黙るらしい。


「…………」


「…………」


 展望台を吹き抜ける風の音だけが、しばらく二人のあいだにあった。


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