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新世界より  作者: 福田雛子
3話 親愛忌譚
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親愛忌譚⑤


 誠さんの運転は、見た目に反して丁寧だった。


 いや、見た目に反してって言うと失礼かもしれないけど、だってあの人、さっき路地裏で人攫いをまとめてぶっ飛ばしてたのだ。もっとこう、乱暴な運転をするタイプかと思っていた。急ハンドルも急ブレーキもない。割れたアスファルトの段差を跨ぐ時も、なるべく揺れないようにしているのが分かる。


 その律儀さが、逆にちょっと怖かった。


 さっき助けられたばかりだし、今こうして助手席に座っているのも、自分一人で逃げるよりはずっと安全だって頭では分かっている。それでも、知らない大人の男の人と二人きりで車に乗る、という状況にまったく不安がなかったわけじゃない。けれど断るのも違う気がした。


 あのまま一人で放り出されても困る。そもそも、もしはぐれたら通天閣タワーで落ち合おうと決めていたのに、私はその通天閣が大阪のどこにあるのかすらちゃんと分かっていなかった。たぶん見れば「あれか」ってなるのかもしれないけど、逆に言えば見える場所まで辿り着ける保証がない。


 知らない土地で、一人。さっきみたいなことが、また起きるかもしれない。


 そう考えるだけで、喉の奥がまた細くなった。


 だから私は、シートベルトを両手でぎゅっと握りしめながら、なるべく普通の顔をしていた。


 誠さんは片手でハンドルを回しつつ、もう片方の手で缶コーヒーを器用に膝へ固定している。さっきの路地裏から持ってきたのか、どこかで拾ったのか分からないけど、ぬるそうだった。


「で、未來ちゃんは広島から?」


「はい。……えっと、四国を経由して、淡路島を通って、兵庫は素通りしたんですけど」


「おぉ、ちゃんと旅してんなぁ。行動力あるねぇ、最近の子は」


「最近の子っていうか、世界の方が勝手に終わりかけてるだけです」


「そりゃそうだ」


 誠さんはあっさり笑った。


 声が大きい人だ。身体も大きいし、笑い方も豪快で、さっきから車内の空気をほとんど一人で押しているみたいだった。なのに不思議と、押し潰される感じはそこまでしない。


 たぶん、無理にこっちへ踏み込んでこないからだ。


 聞くことは聞くけど、言いたくなさそうなところには雑に踏み込まず、話せる範囲で話を転がしてくれる。ガサツに見えて、その辺りの加減はちゃんとしていた。


「で、一緒に旅してるのがその……なんだっけ。外人の兄ちゃん。ノアさんだっけ? 彼氏?」


「違います」


「即答!」


「違います」


 念押ししたら、誠さんは腹の底から可笑しそうに笑った。その笑い声につられて、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。


 さっきまで、口を塞がれて、目隠しをされて、何をされるのか分からないまま車に詰め込まれていたのだ。いま自分がこうして助手席に座って、窓の外の景色を見られていること自体が、まだ変な感じだった。


 道路はところどころ冠水の跡が残っていて、脇には飛ばされたゴミや看板が寄せ集めみたいに溜まっている。台風一過の空は妙に明るくて、何もかも洗い流されたみたいな顔をしているのに、街の方はむしろ余計に汚く見えた。


 そんな景色を流し見ていた時だった。


 車内に、唐突に電子音が鳴った。


 テンポの良いマリンバのような音、聞き覚えのあるそれはスマホの着信音。


「……え?」


 思わず間抜けな声が出た。誠さんも一瞬だけ目を丸くして、それから「あっ」と言った。ジャケットのポケットを探って、スマホを取り出す。


「おぉ、珍しい。入る時は入るんだよなぁ」


「え、で、電波……生きてるんですか?」


「場所によるな。この辺はたまに繋がる」


 そう言いながら、誠さんはちゃんと道路脇へ車を寄せた。それも、かなりきっちりと。


 割れた白線の残骸に沿うみたいに車体を寄せ、ハザードまで点ける。いや、ハザードまだ生きてたんだこの車、という驚きと、こんな世の中でいちいち停車位置が律儀なの何なんだろう、という感想が同時に来た。


「もしもし?」


 通話を取った誠さんの声は、運転中より少しだけ低かった。


 私は黙って隣で息を潜める。窓の外では、濡れたアスファルトが白っぽく光っている。遠くの方で、どこかの建物の看板が風に軋んでいた。


「おぉ、月子。どした? ……あ? あー、いや、今ちょっとな」


 月子。女の人の名前だろうか。思った次の瞬間、誠さんの口から自分の名前が出た。


「いや、車は拾ったんだけど、セーラー服の女の子が攫われててよ。未來ちゃんっつって。いや、どうしたもんかと」


 そこで、誠さんの顔つきが変わった。


「……は? え、ちょ、待て待て待て」


 さっきまでの軽さが、急に別のものへ切り替わる。目が見開かれて、眉が上がって、聞き返す声が一段高くなる。


「未來ちゃん」


「は、はい」


「その同行者の名前、なんつったっけ」


「え……ノアさん、ですけど」


「居たかも」


「えっ」


「すげぇ偶然」


 誠さんは半分笑いながら、でも本気で驚いている顔で、スマホの画面を何度か叩いた。通話画面が切り替わる。耳に当てる形から、前へ掲げる形へ。


「え、えっ」


 心臓がどっと跳ねた。画面が暗くなって、少し遅れて、カクカクの映像が映る。


 画面は最初大きく揺れて、誰かの肩と砕けたガラス越しの光と、それから見慣れた金色が入った。


「ノアさん!?」


 思わず身を乗り出す。画面の向こうで、ノアさんがはっと顔を上げた。


「未來! っあ~っ……よかったぁ……怪我してない!? 無事!?」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に張っていたものが、一気に緩んだ。


 ああ、ノアさんだ。ちゃんと生きてる。ちゃんと声が出てる。しかも、珍しいくらい取り乱している。画面がぶれているのは通信のせいだけじゃない。持ってる手そのものが落ち着いていないんだと思う。


 私は喉の奥が熱くなるのを感じながら、慌てて頷いた。


「大丈夫です! あの……ごめんなさい、私、」


 本当はもっと言いたいことがあった。


 勝手に先に降りたこととか、浮かれてたこととか、捕まった時すぐ逃げられなかったこととか、心配かけたこととか。謝りたいことが多すぎて、逆に何から言えばいいか分からなくなった。


 だけどその途中で、誠さんがぬっと画面の前へ割り込んだ。


「ちょっと失礼っ、と。なぁオイあんた。この子の保護者さん? 何やってんだよ。危うく死ぬとこだったんだよ、このチビちゃん」


 チビちゃん。今ちょっと助かった直後の感動があったのに、その呼び方でだいぶ複雑になった。


 画面の向こうで、ノアさんが一瞬だけ言葉を失う。


「ぁ……あぁ。アナタが未來を?」


「おぉ。アンタら二人で旅してるんだって? でもダメだろアンタ。出来てないよ危機管理。こんなチビちゃんと一緒ってんならもっと――」


 珍しく他人に正論をぶつけられてるノアさんを押しのける様に、画面の向こうから別の声が割り込んできた。


「あー、うっさいうっさい。見ず知らずの相手に説教するのやめてくれる? しかも子供の前で。鬱陶しいからホントに」


 聞いた瞬間、空気が変わる声だった。だるそうで、投げやりで、それでいて言葉の端だけ妙に鋭い。あの時通話口で聞こえたのと同じ声だ、とすぐ分かった。


 少しして画面の端から、女の人の顔が覗く。


 黒髪を流した、綺麗な人だった。綺麗、という言い方が一番近いけど、たぶん素直な意味だけじゃない。ちゃんと美人なのに、なんだかひどく疲れて見える。目元が少しきつくて、投げるみたいな視線をしていて、画面越しでも近寄り難い雰囲気があった。


 でもその人は、こっちではなく誠さんの方へうんざりした顔を向けていた。


「いや、月子。そう言うけどな……保護者ってのはもっと、」


「私! この人とタワーで待ってるから! その子送ってきて! 手出さないでよ!」


「ばっ……こんな背もナリも貧相なチビに手出す訳ないだろ!」


「貧相……」


 思わず呟いてしまった。助けてもらった恩人に対して失礼かもしれないけど、わりと普通に傷つく。


 誠さんは「違っ、そういう意味じゃなくて!」みたいな顔をしたけど、もう遅い。


 画面の向こうの女の人――月子さんは、ちらっとだけ私を見た。その目つきは冷たいのに、不思議と私に向けた敵意は薄かった。ただ全部に疲れていて、ついでに誠さんにも疲れている、みたいな顔だった。


「どうだか。あー、着いたらちゃんと登ってきてね。じゃ」


「おい月っ……ぁ~、切れやがった。相変わらず……」


 黒くなった画面に、自分の間抜けな顔だけが映った。


 急に静かになった車内で、私はそのまましばらくスマホを見ていた。ほんの数秒しか話せなかったのに、さっきまで胸を押し潰していた不安の形が、だいぶ変わっているのが分かる。


 ノアさんは生きていた。私を探してくれていた。ちゃんと、無事だって伝わった。それだけで、さっきまで全身の内側にこびりついていた冷たいものが、少しだけ剥がれた気がした。


「悪いな、チビちゃん。もっと喋りたかったろ」


 誠さんが苦笑いしながら、スマホを引っ込める。


「いえ……ちゃんと無事だって伝えられただけで」


 声に出してから、改めて実感が追いついてきた。助かったんだ、私。


 あのまま知らない場所に連れて行かれていたかもしれないのに、こうしていま、ノアさんとまた会えるところまで戻ってきている。


 胸の奥が、遅れてじんと熱くなる。


「あの、あの! ありがとうございました!」


「ん?」


「助けてもらって、何から何まで」


 頭を下げると、シートベルトが鎖骨に食い込んだ。でもそんなのどうでもよかった。


「誠さんが助けてくれなかったら、私、たぶん今……」


 生きてないです。


 そこまで言い切る前に、喉が少しつかえた。さっきの車の臭いを思い出しそうになって、慌てて息を吸い直す。


 誠さんは、わざとらしく肩をすくめた。


「あ~、いいっていいって。さっき言ったろ? 元々使えそうな捨て置きの車探して、この辺りフラフラしてただけなんだよ。そしたらなんと! 人攫いの足に使われてるお車があるじゃあございませんか!」


 芝居がかった言い方だった。


 明るく言ってるけど、内容は全然明るくない。けど、その温度差のおかげで、こっちまで必要以上に深刻にならずに済んでいる部分もあった。


「……ま、相手がチンピラなら無理矢理盗っても言い訳が出来るからな。チビちゃんが助かったのはたまたま。助けたのはついでだよ。ついで」


「それでも!」


 思ったより強い声が出た。


 誠さんが少しだけ目を丸くする。


 私は自分の膝の上で握った手を見た。まだ手首に赤い跡が残っている。あの時の縄の感触は消えていないし、太ももの皮膚にはまだ気持ち悪い記憶が貼りついている。たぶん、しばらくは消えない。


 それでも。


「助けてくれなかったら私、今生きてないです。だから……ついででも何でも、助けてくれたのは本当に、ありがとうございます」


 言い終わる頃には、ちょっとだけ息が上がっていた。


 誠さんは一拍おいてから、へらっと笑った。


「はは。チビちゃんは礼儀正しくてイイ子だねぇ~」


 からかうみたいな言い方なのに、不思議と馬鹿にされてる感じはしなかった。


「月子もそれぐらいお淑やかだったらイイんだけどなっ、と」


 その名前で、さっきの通話を思い出す。


 月子さん。


 画面越しに一瞬見えただけなのに、妙に印象に残る人だった。綺麗なのに棘があって、だるそうなのに周りはちゃんと見ていて、誠さんに対してだけは遠慮なく雑だった。


「あの……さっき話してた女の人は?」


「あぁ」


 誠さんはエンジンをかけ直しながら、いかにも当然みたいな顔で頷いた。


「美人だったろ?」


「は、はい……まあ」


「だろ?」


 なんでちょっと誇らしげなんだろう、この人。


 車がまたゆっくり走り出す。路肩の水たまりがタイヤの脇でぴしゃっと弾けた。


「鬼灯月子。あいつは俺の……まぁ、奥さん、かな?」


 かな、って何だろう。


 夫婦ってそんな曖昧な言い方するものなんだろうか。そう思ったけれど、口には出さなかった。


 代わりに、フロントガラスの向こうを見つめる。台風の後の大阪はやたら明るくて、壊れた看板も、濁った水たまりも、道路脇に積もったゴミも、全部がはっきり見えすぎた。


 通天閣へ向かう道の途中で、私はまだ知らない大人たちの輪郭を、少しずつ眺め始めていた。





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