親愛忌譚③
口を塞がれて、目まで隠されると、人間ってびっくりするくらい簡単に子どもになる。
私は今、自分がどこに向かっているのかも分からないまま、小さく丸まっていた。
たぶんワンボックスカーの後ろ。広くはない。床は固くて、ゴムと埃と、何か古い飲み物でもこぼしたみたいな酸っぱい臭いがした。手首は後ろで縛られていて、足首もまとめてくくられている。少し身体を動かすだけで縄が食い込んで、骨の出っ張ったところがひりついた。
目隠しのせいで何も見えないのに、車が曲がるたび、自分の身体がどちらへ転がるかだけはよく分かった。
さっきまで、ノアさんといたのに。台風が去ったあとの空の下に出て、それが気持ちよくてほんの一瞬だけ気が緩んだ。その結果がこれだ。
喉の奥が引きつる。叫びたい。暴れたい。ノアさん、と呼びたい。
でも口には猿轡みたいに布が噛まされていて、出るのは情けない鼻息と、潰れた呻き声だけだった。
「ん、んんっ……!」
前の席で男たちが笑った。
「お、元気じゃん」
「どこでヤる?」
「ここで剥けばいいだろ」
「狭いんだよ。空いてるラブホとかねぇの?」
「ホームレスしかいねぇよ」
「しばらくどっかで飼おうぜ。顔も悪くねぇし」
笑い声が軽い。信じられないくらい軽かった。
その言葉が何を意味するのか、私だって分かる。分かるから、余計に身体が冷えた。寒いわけじゃないのに、胃の奥からすうっと熱が引いていく。呼吸が浅くなる。肺がちゃんと膨らまない。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。頭の中でそれだけがぐるぐる回る。目隠しの下で勝手に涙が溜まって、布が湿る。鼻でしか息ができないせいで、自分の泣き方すらうまくできない。
車が揺れる。男たちの声がする。笑う。相談する。品定めするみたいに、私のことを話す。
ひどく現実感がなかった。さっきまで、たこ焼きがどうとか、服が欲しいとか、そういうどうでもいいことを考えていたのに。終末世界でも、お腹が空くとか、靴下が欲しいとか、ウェットティッシュがありがたいとか、そういう地味な現実で生きてきたのに。
急に、こういう種類の「死ぬかもしれない」が来るんだ、と思った。お父さんに殺されそうになった時とはまた違う。もっと汚くて、もっと知らない手触りの怖さだった。
「んーっ! んっ、んんっ!」
「暴れんなって」
靴の先で脚を小突かれた。悲鳴すらまともに出ない。
その時だった。
車が止まる。急ブレーキってほどじゃない。でも、それまで続いていた揺れが不自然に消えた。前の席の男が「は?」と低く言う。
次の瞬間。ガンっ、と。世界がひっくり返ったみたいな衝撃が来た。
車体が横からぶつけられたのか、ドアが乱暴に開け放たれたのか、何が起きたのかまるで分からない。ただ狭い車内で私は無様に転がって、肩と膝を何か固いところへ強くぶつけた。頭の奥がきんと鳴る。
「うぉっ!?」
「っ誰だテメ――」
怒鳴り声。
その直後に、鈍い音。
肉と肉がぶつかったような、変な音だった。
「がっ……!」
「っの、オッサン!!」
「オッサンで悪かったなぁ!」
知らない大声が響いた。さっきまでの男たちとは全然違う。太くて、よく通って、妙に元気のいい声だった。
また何かがぶつかる。車体が揺れる。男の呻き声。短い悲鳴。誰かが車の外へ引きずり出される音。靴がアスファルトを擦る音。拳か肘か膝か、とにかく何か固いものが身体へ入る嫌な音。
見えない。何も見えない。見えないまま、ただ音だけが近くで弾けていく。
「や、やめ……っ」
「テメ、何――」
「何じゃねぇよ。昼間っから寄ってたかって、いい歳して元気だなお前ら。オラっ、さっさと鍵、寄越せっ!」
どんっ、とまた大きい音がした。次いで、車の外で何か重いものが倒れる。呻き声が一つ、二つ。三つ目は途中で途切れた。
しばらくして、急に静かになる。荒い息だけが残った。
「……っと、こんなもんかな」
その声が、今度はさっきより少し近くで聞こえた。車内を覗き込むような気配がする。
「――……うわ」
間抜けな声だった。
「なんだよ、もう一人いたのか。しかも縛ってるじゃねぇか。おいおい、人さらいだったのかよ」
がさ、と誰かが身を乗り出してくる音がした。
「……チビちゃん。おーい。聞こえるか? 今ほどくからな」
返事なんてまともにできない。できるのは、喉の奥で潰れた音を鳴らすことだけだ。
「んーっ! ん、んんっ!」
「あー、悪い悪い、先に口だな。怖かったよな」
ぞっとした。助かった、より先に、また別の知らない男に触られる、と思ってしまう。身体が勝手に跳ねる。逃げられないのに、逃げようとしてしまう。
でもその手つきは、さっきの男たちの乱暴さとは違った。雑ではあるけど、急いで縄を切るというより、皮膚を擦らないよう位置を探っている感じだった。
まず口の布が外れる。空気が一気に喉へ流れ込んで、私は咳き込んだ。
「げほっ、げ、ほ……っ」
「おぉ、大丈夫か。次、目隠し取るぞ」
次の瞬間、光が差し込んできた。眩しくて、涙が滲む。視界が明るさに慣れるまで、全部が白く見えた。
「やぁっ! やだ、触らないで! 離して!!」
見えた瞬間、余計に怖くなって叫んでいた。知らない男が目の前にいる。大きい。でかい。顔も腕も肩も、全部が分厚い。五十代くらいだろうか。汚れた服の上からでも身体の大きさが分かる。こんな状況じゃなければ、よくいる声の大きいおじさんにも見えそうなのに、今は何もかも怖かった。
「おっとっと、暴れんな暴れんな! 襲わねぇし殺しもしねぇ! 助けたの、助かったの! 分かる!?」
声が大きい。頭に響く。でも、その言葉だけは、ぐちゃぐちゃになった頭の中へ妙にまっすぐ刺さった。
助かった。
たすかった。
「た……す、かっ……」
言葉にならないまま、視線が揺れる。
ようやく見えた周囲は、細い路地裏だった。半分死んだみたいな場所。コンクリートの壁は黒ずみ、雨上がりの湿気が残っている。ワンボックスの横には、さっきまで笑っていた男たちが何人か転がっていた。鼻血を出しているやつ。腹を押さえて蹲っているやつ。白目を剥いて動かないやつ。
少なくとも、目の前に居る人の仲間じゃない。それだけは分かった。分かった途端、今度は張り詰めていたものが切れた。
「ぅ、う……っ」
肩が震える。息が乱れる。怖さが遅れて全身へ戻ってくる。大丈夫かもしれないと思った瞬間に、逆に、どれだけ怖かったかを身体が思い出してしまう。
「あー……そりゃ泣くわな。うん。そりゃそうだ」
大きな男は、今度は少しだけ声を落とした。近づきすぎない。手も無理に伸ばしてこない。ただその場にしゃがんで、逃げ道を塞がない位置でこっちを見ている。距離の取り方だけで、ほんの少しだけ息ができた。
「う、ぅぅ……っ」
泣く気なんてなかったのに、涙がぼろぼろ出る。
手首には縄の跡が赤く残っていて、ひりひり痛む。太ももを掴まれた感触がまだ皮膚に残っている気がして、気持ち悪かった。自分の身体なのに、自分のものじゃなくなったみたいで、吐きそうになる。
「制服って事は中学……高校生?嬢ちゃん、親は?」
問いかけは妙に現実的だった。正確には中学生でも高校生でもないし、親もいないのだが、冷静にその事実を告げられるほど上手く口が回らない。
「う、ぅ……ひぐっ」
「いや、責めてねぇ責めてねぇ。落ち着いてからでいい。名前は? 名前だけ言えるか?」
「……み、未來」
「未來、ね」
男は一度うなずく。それから、ぱっと空気を変えるみたいに口元をゆるめた。
「っし、未來ちゃん。ちょうどイイ車も手に入れたし、好きな所まで送ってやるよ」
イイ車。人攫いの使っていた車をそう呼ぶ感性はどうなんだと思ったけど、ツッコむ余裕はまだなかった。ただ、その軽さのおかげで少しだけ救われたのも事実だった。さっきまで世界が終わるみたいな気分だったのに、この人はその空気を腕力でひっくり返して、無理やり日常のほうへ寄せようとしてくる。
変な人だ。
「泣くなって、ほら。自己紹介といこうや」
男はその場で、やけにしゃんと背筋を伸ばした。
それから片手を額の横へ持っていき、ふざけたみたいな敬礼をする。
「オジサンは鬼灯誠であります! よろしく!」
一瞬だけ、呆気に取られた。こんな路地裏で。足元に気絶した男が何人も転がっていて。私は泣いていて、拘束の跡もまだ痛くて、それなのにこの人は、初対面の挨拶みたいな顔をする。
あまりにも場違いで、頭がおかしいんじゃないかと思う。
でも、だからこそ。だからこそ少しだけ、助かったのかもしれないとも思った。
私はまだ息をしゃくり上げながら、ぐしゃぐしゃの顔のまま、その敬礼を見返した。




