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新世界より  作者: 福田雛子
3話 親愛忌譚
23/34

親愛忌譚②


 六月十日。広島を出てから、もう二か月が経っていた。


 現在地、大阪。


 こうやって文字にすると、なんだかちゃんと旅をしている感じがする。広島を出て、淡路島を抜けて、大阪へ。地図の上なら一本の線だ。でも実際はそんな綺麗なものじゃなかった。途中で拾った車を乗り継いで、壊れたら捨てて、歩いて、また別の車を探して、だけど道が通れなくてまた歩いて、橋の手前で立ち往生したり、雨で動けなくなったり。そういう面倒くさい現実をひとつひとつ越えた結果、ようやく辿り着いたのが大阪だった。


 別に観光しに来たわけじゃない。いや、していいならしたいけど。めちゃくちゃしたいけど。


 たこ焼きも串カツも食べたいし、できれば焼きそばもお好み焼きも食べたい。でも現実の優先順位は、食欲より先に生活だった。


 常に人目や市街地を避けてたノアさんがどうして大阪を目指していたのか、最初はあまり理解できなかったけど、二か月も旅をしていたらよく分かる。


 毎日使う道具が、いよいよ限界だったのだ。


 靴底は減って、濡れた地面を歩くたびに妙な感触が伝わる。レインウェアはどこかで裂けて、強い雨になると普通に染みる。バックパックも縫い目がへたってきていて、重さがかかるたびに嫌な音がした。ライトに電池、包帯、消毒、胃腸薬、生理用品。そういう細かい消耗品は使えば減るし、減れば困る。飯盒、ボトル、替刃、燃料携行缶。旅が長くなればなるほど、便利な物じゃなく、ないと地味に死ぬ物が増えていく。


 終末世界ってもっとこう、愛とか希望とか覚悟とか、そういう大きなものが試されるのかと思っていた。


 現実は違う。人間の尊厳を支えているのは、わりと替えの靴下とかウェットティッシュとかだった。


 たった一枚でも身体を拭ければ、その日の不快感が少し減る。少しでも乾いた靴下に履き替えられれば、歩きやすさが全然違う。世界が終わる前より、ずっと露骨に生活の質がそのまま生存率に繋がっていた。


 そういう物を探すだけなら、田舎でもゼロではない。だけど経験上まず食べ物と水が根こそぎ抜かれていることが多かったし、医薬品や日用品の在庫もそもそも少ない。ホームセンターの規模だって知れている。たまたま見つかれば助かるけど、“必要な物を複数まとめて揃える”には向いていなかった。靴はあってもサイズがない。薬はあっても種類が足りない。必要なモノほどもう先に持ち去られた後。そういう半端が多い。


 その点、大阪みたいな都市部にはまだ可能性があった。


 郊外の大型ホームセンター。ロードサイドの量販店。物流倉庫の跡。旧避難所の周辺。河川敷や高架下に自然発生した交換市。そういう場所には、人が捨てた物、人が持ち込んだ物、人から奪われた物が、変なかたちで集まる。欲しい物が綺麗に陳列されているわけじゃない。でも田舎をしらみ潰しに回るより、ずっと効率がよかった。



 旅を続けるなら、そろそろ田舎の拾い物だけでは限界だった。


 この先も車を使って北を目指すなら、燃料と部品のあてがいる。道が残っているか知る必要がある。どこに近づくと危ないかも知っておきたい。生き残るためには、食べ物だけじゃなく、地図の代わりになる噂が必要だった。


 そうして辿り着いた大阪で、最初に驚いたのは、夜になっても街の一部にまだ明かりが見えたことだった。


 電気が生きている。


 その事実だけで、胸の奥が少し熱くなった。


 ちゃんと営業している店の光じゃない。ビルの上の方にぽつぽつ残った灯りだったり、どこかの交差点でまだ死にきれていない街灯だったり、信号の名残みたいなぼんやりした光だったり。そんな半端な明かりなのに、広島を出てからずっと濃い闇ばかり見てきた私には、それだけで十分すぎるくらい文明だった。


 街が、まだ完全には死んでいない。そう思った瞬間だけは、ちょっと安心した。


 でも大阪は、その安心をすぐ引っ込めさせる街でもあった。人が多いのだ。明らかに。


 今まで避けてきた田舎道や小さな町では、数日に一度人影を見れば多い方だったのに、大阪では違った。駅前だった場所。高架下。シャッター街。河川敷。駐車場。そういう、人が集まりやすかった場所の残骸に、今も人がいる。


 薄汚れた服の人。複数で固まって歩く人。荷車を引く人。座り込んでいる人。じっとこっちを見る人。誰かと交渉している人。見た目はみんな疲れていて、痩せていて、ちゃんと寝ていない顔をしているのに、余所者を見る時だけ妙にはっきり目が生きる。


 終末の大阪は、たぶん、人を飲み込む街になっていた。


 元々住んでいた人の全部が死んだわけじゃないはずだ。むしろ、最初の混乱を生き延びた人たちはかなりの数がどこかに残っていると思う。ただ、もう“元の暮らし”のかたちでは存在していない。


 家に居続けられる人は、そう多くない。水が止まる。電気が不安定になる。食べ物が尽きる。集合住宅は人の出入りが増えれば危ないし、一戸建ては一戸建てで目立つ。家に籠もっていても、いずれ物資を探しに出なきゃいけない。だったら最初から、物が集まる場所の近くへ寄っていく人が出る。


 元から路上で生きていた人たちも、事情はむしろ逆転したんだと思う。


 隕石が降る前の街なら、軒下や高架下や公園でも、最低限“街が動いていること”が前提だった。人通りがあって、ゴミが出て、店があって、警察もいて、追い払われはしても社会そのものは回っていた。でも今は、道路の真ん中で寝ていたら本当に死ぬ。雨風をしのぐだけじゃなく、人攫いや追い剥ぎや、もっと酷いものから身を隠さなきゃいけない。だからみんな、入れる建物を探す。廃ビル、ホテル、空きテナント、倉庫、立体駐車場。そういう場所に潜る。


 屋内に逃げ込めるのは、街に建物が無数にあるからだ。


 しかも都市部の建物は、案外簡単には全部埋まらない。広い。多い。出入り口も多い。壊れたガラスや非常階段や搬入口から入れる場所もある。もちろん安全じゃない。安全どころか、誰がいるか分からないから余計に怖い。でも少なくとも、雨は避けられるし、夜に寝転べる床もある。そうして建物の中に人が巣みたいに潜り込み、ビルごとに空気が変わる。どこが空いていて、どこが誰かの縄張りなのか、外からは分からない。


 街が機能しているように見えたのは、たぶん、そういう人間のしぶとさがまだ残っていたからだ。


 死にきれない人たちが、残骸の中に居座って、なんとか回している。


 でもそれは、治安がいいって意味じゃない。


 むしろ逆だ。


 人が多いってことは、奪う相手も多いってことだし、奪われる理由も増えるってことだ。


 女ひとりと、金髪碧眼の外国人ひとり。しかも旅の装備持ち。


 そりゃ目立つ。


 ノアさんは平気そうな顔をして歩いていたけど、私は大阪に入った時点でだいぶ帰りたかった。視線が刺さる。あの目は、珍しいから見てるだけの目じゃない。持ち物、体格、隙、そういうものを測る目だ。


 それでも来る価値はあった。


 必要だったからだ。


 ……あと、ちょっとだけ食い倒れの夢もあった。いや、ちょっとじゃない。かなりあった。


「たこ焼き! 串カツ! 焼きそばにお好み焼き!」


 希望だけは大きめに口へ出す。


 前を歩いていたノアさんが、肩越しに少しだけ振り返った。


「順番に言ってもらっていい? 欲望がうるさい」


「だって大阪ですよ! 食い倒れの街ですよ!」


「その認識はまだ有効なのかなあ」


「有効であってほしいです」


 切実だった。


 せっかく大阪まで来たんだから、どうせなら一回くらい、ちゃんとした粉ものを食べたい。微妙に味の変わった乾パンとか蛙、ザリガニ、野草や木の実みたいな生活ばっかり続くと、文明然とした炭水化物の夢を見るのだ、人は。


 それなのに空は、私のささやかな夢を容赦なく踏み潰してきた。


 最初はただの曇りだった。湿気の多い、嫌な感じの曇り。空気が重くて、肌にまとわりついて、遠くの建物まで薄く霞んで見えるような、いかにも何か来そうな空。


 嫌だなぁ、とは思っていた。思っていたけど。


 次の瞬間には、もう笑うしかないくらいの大雨だった。


「たこ焼き! 串カツ! 焼きそばに……お好み焼き……」


 段々しぼんでいく私のテンションをよそに、雨は道路を叩き潰すみたいな勢いで降った。音がうるさい。風も混ざる。傘があっても無理なやつだ、と一目で分かる。道路の端はあっという間に濁った川みたいになって、看板が揺れて、飛ばされたビニール袋が空を舞う。


 慌てて近くの廃ビルに駆け込んだものの、雨音はコンクリート越しでもやかましかった。


 天井のどこかから水が垂れている。壁は湿って黒ずみ、床には誰かが置いていったままの段ボールがふやけて崩れていた。吹き込んだ風で紙くずが滑る。薄暗いフロアの奥はよく見えない。何が転がっているのか、誰が潜んでいるのかも分からなくて、できれば近づきたくない感じの暗さだった。


「止みませんねぇ、雨」


「なにー!? 聞こえないんだけどー!」


「……っなにもー!!」


 大声を出したら余計に虚しくなって、私は壁にもたれたまま息を吐いた。


 六月十一日。天気は見ての通り、雨、雨、雨。


 ノアさんは窓の外を見ながら、珍しく眉を寄せていた。背負っていた荷物を下ろして中身をひとつずつ確認する手つきは落ち着いているのに、動きの端々だけ少し速い。気持ちが前へ急いでいる時の人の動きだった。


 補充は一応済んでいた。靴は前よりずっとましなものに替えられたし、レインウェアバックパックも新調できた。電池、包帯、消毒、胃腸薬、生理用品、ウェットティッシュ、飯盒、ボトル、替刃、燃料携行缶。欲しかったもの全部ではない、今日はやっと服を新調しようと思っていたけど、急な天気によってその予定は崩れ、結局私はまだセーラー服から卒業できていない。それでも、旅の装備はかなり揃った。


 これで少しは楽になる、と思った矢先の足止めだった。現実はやたら意地が悪い。


「六月って日本は雨季なんでしょ? こんなもんじゃないの?」


 ノアさんが濡れた窓の外を見たまま言う。


「多分台風ですよぉ、これ。それに六月イコール梅雨ってわけじゃ……」


「わけじゃ?」


「ほら、知りません? ジューンブライドとか」


「あー」


 ノアさんは少し考えてから、小さく笑った。


「確かに、六月は愛に因んだ日が多いね。ほら知ってる? 明日は」


 曰く、明日六月十二日は恋人の日らしい。


 そんなものを今の世界で言われても。恋人どころか、私は家族ですらまともに維持できなかった人間だ。恋人の日なんて、妙に平和で、妙に遠い。世界が終わる一年前の日本にも、まだそういう名前のついた日が残っているんだと思うと、変におかしかった。


「ふぅん……」


「なにその、あんまり興味なさそうな返事」


「だって私、そういうキラキラしたイベントと無縁で生きてきたので……」


「かわいそ」


「サイテー!」


 雨音に負けないように言い返したけど、なんだかそのやりとり自体は少し楽しかった。


 結局、雨はその日ほとんど止まなかった。


 夜になっても、翌朝になっても、音だけで世界を埋め尽くすみたいに降り続いた。ビルの中は湿気でじっとりして、服は乾ききらない。髪はべたつく。肌はずっと何かに触られているみたいで気持ち悪い。こういう時、ウェットティッシュ一枚が金塊に見える。


 ノアさんは濡れた荷物を少しでも乾かそうと置き場所を工夫したり、食べられそうなものを分けたり、床の上で比較的ましな寝床を作ったりしていた。


 そういうのを見ると、この人はやっぱり生きるのが上手いんだと思う。


 でも同時に、この人は一人で全部抱え込もうとする。


 荷物の数を見て小さくため息をついて、それでも口では軽口を叩いて、危なそうな場所は先に歩く。ありがたいけど、少しずるい。私だって荷物くらい持てるし、危ないなら一緒に怖がりたいのに、ノアさんはそういうのをさりげなく先回りしてしまう。


 六月十二日。


 台風は、何事もなかったみたいな顔で去っていった。


 ビルの外へ出ると、空は馬鹿みたいによく晴れていた。昨日までの灰色が嘘みたいに青い。空気はまだ湿っているのに、光だけが無駄にまぶしい。道路には水たまりが残り、飛ばされた看板や枝やゴミが散らばっていて、台風の爪痕だけが雑に取り残されていた。


「んー! 晴れたー! いい天気だぁー!」


 思わず両手を伸ばす。湿ったビルの中に丸一日いた後の晴れ空は、それだけでちょっと泣きそうなくらい気持ちよかった。


 私は先に階段を下りて、道路際まで出た。水たまりを避けながら振り返る。


「ノアさーん! 早く降りてきてくださーい! ノーアさーん!」


 上の方から、少し呆れた声が返ってくる。


「聞こえてるよぉ。荷物多いんだから、ちょっと待ってってば……!」


 たしかに荷物は多い。補充したぶん、前よりむしろ増えている。なのに私は久しぶりの晴れに浮かれていて、そんな当たり前のことすら頭から抜けていた。


「早く行きましょうよぉー! たこ焼きと串カツが待って――」


 その時だった。


 背後から、急に何かが覆いかぶさってきた。


 口だ、と気づいたのは、塞がれてからだった。


 生ぬるい手のひらが、私の口と鼻をまとめて潰す。息が詰まる。叫ぼうとした声が喉の奥で潰れ、変な音だけが漏れた。


「……んぅ!?」


 反射で肘を振ろうとしたけど、もう遅い。後ろから腕を引かれ、身体がぐらりと傾いた。視界の端に、汚れた指先と、知らない男の腕と、路肩に停まった車の白いボディが見える。


「っやぁ!」


 叫んだつもりだった。でも口を押さえられて、まともに音にならない。


 その瞬間、世界が急に近くなった。


 汗の臭い。湿った服の臭い。皮膚のぬるさ。耳元で重なる荒い息。ひとりじゃない。複数いる。そう分かった瞬間、怖いより先に身体が固まった。


 やだ。やだ。やだ。


 思うのに、手足がうまく動かない。


「いや、そうは言うけどね、こんな状態でまともに営業……あれ?」


 上から、ノアさんの声がした。


 遠い。すぐそこにいるはずなのに、遠い。


「……未來?」


 その呼び声で、ようやく頭の中の何かが弾けた。


「んーっ! ぅ、うぅー!!」


 必死に喉を震わせる。


 男たちは笑っていた。低い声。興奮した声。全部は聞き取れないのに、意味だけは分かる声。女だ、とか。張ってた甲斐があった、とか。さっさと、とか。頭が理解するより先に、身体の方がそれを恐怖として飲み込んで、胃の奥がきゅっと縮んだ。


 太ももに触られる。腰を掴まれる。


 気持ち悪い。


 吐きそうなのに、息ができない。


「未來! 未來ー!?」


 ノアさんの声が、今度ははっきりした。


 でも男たちは、もう私を車の中へ押し込もうとしていた。腕をねじられ、足がもつれ、濡れた地面に靴底が滑る。膝がどこかにぶつかって痛い。視界が布みたいなもので塞がれて、急に暗くなる。手首に食い込むひもの感触。早すぎて、何がどこまで起きたのか、自分でも分からない。


 ただ一つだけ分かったのは、これが冗談じゃないということだった。


 六月十二日。恋人の日。大阪。台風が去った昼下がり。背後から複数の男に襲われた。口を覆われ、視界を塞がれ、手足を縛られて、まともに身動きもできないまま、車へ詰め込まれる。


 なんで。どうして。そんなの、何の意味もないのに思ってしまうくらい、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「助けっ……ノアさっ……や、っ――!」


 自分でも何を言っているのか分からない声が漏れる。


 返事みたいに、遠くでまた私の名前が呼ばれた。


 離れ離れになった私たちは、お互いの名前を叫ぶ。


 だけど、その声はどこにも届かなかった。


 そして――


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