親愛忌譚①
雨が降っていた。
二十三区の外れ。人の気配が薄い住宅地の一角で、その家だけがまだ死にきっていないみたいに立っていた。窓は割れていない。雨戸も閉まる。井戸もある。食べるものも、水も、今のところ困っていない。
それは全部この家の主、鬼灯誠のおかげだった。
終末宣言が出てから三か月。二十三区に残っていたらどうなっていたかは、想像するまでもない。都市は徐々に死に、治安は崩れ、夜になるたび銃声だか悲鳴だか分からない音がどこかで鳴る。東京都心から離れてしばらく経つ。生き延びるだけなら、間違いなく正しい選択だった。
なのに、助かった、とはどうしても思えなかった。
深夜。リビングには電気がない。代わりに、蝋燭を仕込んだ灯籠みたいな照明が卓上をぼんやり照らしていた。火は小さく、部屋は暗い。壁も床も、古い家特有の湿気を吸って鈍く沈んでいる。
向かいに座る誠は、さっきから顔を伏せたままだった。
呼び出しておいて、ろくに目も合わせない。重たい沈黙だけが、雨音と一緒に部屋へ溜まっていく。
月子はその沈黙が嫌いだった。何か言いたいくせに言わない人間の間。言葉になる前の気配だけで、相手の欲望がこちらへ這ってくるみたいで、ひどく不快だった。
それでも今までは、見ないふりをしていられた。
ああ、そういうことか、と気づいたのは、たぶんついさっきだ。
自分に向けられていた目線の意味も。優しさに混ざる粘ついた違和感も。ここに来てから何度か感じて、そのたびに深く考えないようにしてきたものの正体も。
分かった瞬間、吐き気がした。奥歯を噛み締める。そうしないと、顔に出そうだった。
誠がようやく口を開いた。震えた声だった。覚悟を決めた人間の声というより、壊れそうな願望を両手で持ち上げて、相手に差し出す時の声に近かった。
だから月子は、その願望ごと踏み抜くみたいに言った。
「いいよ。夫婦になっても」
「……は?」
間の抜けた声だった。誠の表情は驚きが先で、喜びに追いついていない。思わず月子は視線を逸らした。見たくなかった。
「は、って何。言い出したのそっちじゃない。夫婦になろう、結婚しようって」
「言った……けど。ほ、本気で?」
戸惑いと期待が、誠の声の中で見苦しく混ざっていた。
月子は答える前に、火の揺れる灯籠を見た。暗い部屋の真ん中で、それだけが妙に丁寧に整えられているのも気持ち悪い。こういう時だけ、暮らしをちゃんと守っている顔をするのが、なおさら。
「正直、ありえないと思った。気持ち悪いって」
誠の肩が、びくりと揺れた。知るか、と思う。
「……けど、そうね。別にいいかなって思っただけ」
言いながら、自分でも不思議なくらい声は平坦だった。
諦める時の人間は、案外こんな声を出すのかもしれない。
「どうせあと一年ちょっとで死ぬんだし。誰かが傍に居てくれるなら、こんな最期でも、別にいいかなって」
隕石が来る。世界は終わる。みんな知っている。
先のない人生に、まともな選択肢なんて残っていない。夢も、常識も、羞恥も、未来があるからどうにか保っていられたものだ。終わりが決まってしまったあとでは、何もかも少しずつ輪郭を失っていく。だから、こういう最低の選択にも、現実味が出る。
誠は泣きそうな顔をしていた。
「……なに?」
月子は眉をひそめる。
「キモ」
「あ、あはは……すまん。いや、ホントに……あー、夢みたいで」
夢みたいなのはこっちだよ、と月子は思った。なのに、ここで席を立てるほど、もう何かを大事にする気力も残っていなかった。
外ではずっと雨が降っている。月は見えない。世界の終わりにふさわしい夜だな、とどうでもいいことを思う。
「なぁ、月子」
「なに」
「名前で呼んでくれよ、夫婦になるんだから」
一瞬、黙る。呼びたくない。呼ぶだけで、何か決定的な線を越える気がした。それでも、それでも、
「……誠」
自分でも分かるくらい、嫌そうな声だった。なのに誠はそれだけで救われたみたいな顔をした。
「結婚してくれ、月子。世界が滅ぶまで、絶対お前を幸せに――」
そう言って伸びてきた手を、月子は最後まで見なかった。見たら反射で払いのけてしまいそうだったからだ。
「条件」
だから、食い気味に遮る。
「条件がある」
部屋が静まる。雨音だけが大きくなった。
月子はそこで初めて、誠の顔を見た。期待と不安が剥き出しになっている。今ならまだ引き返せると思っている顔だ。引き返せるわけがないのに。
「……東京から出たい。行きたいところがあるの」
「……月子、それは」
誠の目つきが少しだけ変わった。戸惑いの裏に、計算と警戒が差す。この家を離れること。今ある生活を捨てること。その重さを測っている顔だった。
月子はその変化を見逃さない。ああ、やっぱり、と思う。
結局この人は、何でも差し出す顔をしながら、肝心なところでは手放したくないのだ。自分の居場所も、立場も、人生も、たぶん全部。
だから月子は、笑いもしないまま言った。
「だから私のことが好きなら、愛してるなら、この家も、人生も全部捨ててよ、誠」
誠が息を呑む。月子はその顔を見ながら、ようやく少しだけ気分がましになった。
自分だけが不快でいるのは癪だった。せめて少しくらい、お前も困れと思った。
「……駆け落ちしましょう? 私と」
言葉は甘いのに、声はひどく冷たかった。
雨はまだやまない。見えない夜の向こうで、世界はたしかに終わりへ向かっている。
だったらその前に、せめて一つくらい、自分で選んだ地獄に行ってやってもいい。




