渚の怪獣⑫
五月五日、子供の日。――から、四日が過ぎた。
歩けない子供を海辺に見捨てて、四日が過ぎた。
海岸線は嫌になるくらい長かった。
右を見れば、ずっと海だ。晴れた日は青くて、きらきらしていて、何も知らないみたいな顔で光っている。左には、打ち捨てられた家や、錆びた看板や、草に呑まれかけた道が延々と続く。世界の終わりが決まったあとでも、海だけは海のままだ。だから余計にたちが悪い。
歩きながら、私は何度も振り返った。
誰かが追いかけてくるはずがない。あの足で、あの状態で、そんなことができるわけもない。それでも首だけは勝手に後ろを向く。振り返るたび、ついてくるのは靴底にまとわりつく砂と、さざ波の音だけだった。
ノアさんは何も言わない。私も、あまり喋れなかった。
あの日からの四日間は、歩くか、休むか、食べられそうなものを探すか、そのどれかでほとんど埋まった。途中で見つけた標識と海岸線の形をつないでいくかぎり、分かっていた事だが本当に四国を横断していたらしい。なら、海を右手に見て歩けば、いずれ本州側へ戻れるはずだ。今のところ、頼れるのはその程度の見当しかない。
疲れは、ずっと身体の底に沈んでいる。
山を越えてきた脚は重いままだし、海辺の道は平らに見えて案外きつい。潮風で喉が渇く。汗が乾くと肌が塩でつっぱる。靴の中に入った砂が擦れて、足の裏に細かい痛みが溜まっていく。少し座ったくらいじゃ消えないし、立っていても楽にはならない。どこかしらが、ずっと不快だった。
途中、小さな町をいくつか通った。
人の気配はない。洗濯物のない物干し竿。割れた窓。玄関先に倒れたまま錆びた自転車。開きっぱなしのシャッター。世界が壊れた直後に、時間ごと放り出されたみたいな景色の中から、私たちは必要なものだけ拾って進んだ。
打ち捨てられたアパートの一室で、久しぶりにまともなベッドを見つけた。
少し湿気っていて、埃っぽくはあったけれど、横になれないほどじゃない。ノアさんがひと通り危険がないか見てから、「今日はここにしよう」と言った。私は頷くので精一杯だった。
砂浜でも、車の中でも、硬い床の上でもない。ちゃんと身体を預けられる場所だった。背中を受けるマットレスの沈み込みが、それだけで泣きたくなるくらいありがたかった。
でも、横になった瞬間、胸の奥だけが急に詰まった。
柔らかい場所に沈む感覚が、変なところから記憶を引っかいたのかもしれない。襟花ちゃんの軽さ。背負ったときの骨ばった身体。首元で弾んでいた声。海に向かっていく小さな背中。追い出したはずのものほど、どうでもいい感触をきっかけに戻ってくる。
「かひゅっ……っ、かっ、はっ……」
息が吸えなかった。吸おうとするたび喉が細くなって、胸の中で空気がつかえる。指先から熱が抜けていって、視界の端がじわじわ滲んだ。
「未來?」
名前を呼ばれても、返事が出ない。
泣いているのか、息が乱れているのか、自分でも区別がつかなかった。ベッドの端を握って、肩を丸めて、みっともなく空気を探すしかない。そのあいだも、頭の奥では襟花ちゃんの「お姉ちゃん」が何度も響いていた。
ノアさんは、最初は何も言わなかった。
すぐ横にしゃがんで、背中をさすって、私の呼吸が少しだけ整うまで待つ。それから、最後の飲み水の入った容器を差し出してきた。今すぐ飲める状態じゃなかったのに受け取ってしまったのは、手のひらに何か重みがないと、このまま壊れそうだったからかもしれない。
「……っ、ごめん、なさい」
しばらくして、ようやくそれだけ言った。
ノアさんは「謝らなくていいよ」とも「大丈夫だよ」とも言わなかった。ただ、ずっとそばにいた。
そういうところが、ずるい。
慰めるでもなく、責めるでもなく、どうしようもないことをどうしようもないまま置いて、それでも一人にはしない。ただ誰かがそばにいるだけで、勝手に少し救われてしまう時がある。
泣き止んだあとも、涙は忘れた頃にまた出た。喉の奥が熱くなって、鼻が詰まって、そのたびに息がしづらくなる。私は寝返りもろくに打てないまま、薄暗い天井を見ていた。眠るって、もっと自然にできることだった気がする。いつからこんなに難しくなったんだろう。
「…………」
別の日には、川の水を煮沸して、飲み水を溜めた。
海沿いでも、飲める水が勝手に手に入るわけじゃない。むしろ潮の匂いが近くにあるぶん、余計に喉が渇く。川を見つけるたび、少し上流まで様子を見にいって、濁りのましなところから汲み、鍋に移して火をかける。沸くまで待つ時間が長い。飲めるようになるまでは、もっと長い。
白い湯気を見ていると、どうしても最初の日の飯盒を思い出した。あのときは、生きるんだ、って思えたのに。今は、生きていることのほうが面倒で、苦くて、それでもやめられない作業みたいだった。
空のペットボトルに水を移して、少しずつ運ぶ。
たったそれだけで腕はだるいし、肩も痛い。途中で何度も休みたくなる。蛇口をひねれば水が出る世界は、もう遠い。そんなふうに気持ちが沈むと、追い払ったはずの思考が、時間をかけてまた追いついてくる。
あの子は、あの渚の果てで何を見て、何を思って、どこへ行ったんだろう。
笑っていたかもしれない。泣いていたかもしれない。呼んでいたかもしれない。あるいは、もう何も思わなかったのかもしれない。
でも、それはもう私たちには分からない。
分からないまま、それでも私たちは海岸線を歩いている。
光は少し傾きはじめていて、海の色が朝より濃い昼だった。風はあるのに、生ぬるい。道の脇の草がざわざわ鳴って、遠くで鳥が一度だけ啼いた。
ノアさんの歩幅は相変わらず大きい。でも、この四日で少しだけ、私に合わせるのがうまくなった気がする。気のせいかもしれない。疲れてくると、人はちょっとした親切を大げさに受け取る。
「ノアさん」
呼ぶと、隣の人は前を向いたまま「ん?」と返した。
その声音があまりにもいつも通りで、少しだけ腹が立つ。たぶん腹が立つというより、羨ましい。私はまだ、ぜんぜんいつも通りじゃない。
「他には何があるんですか」
「他?」
「前、言ってたじゃないですか。私と一緒に旅をしてる理由、いくつかあるって」
あの日の終わりに、ノアさんはたしかにそう言った。あのときはぐちゃぐちゃで、それを受け取るだけで精一杯だったけれど、今になって引っかかる。この人は時々、肝心なことを半分だけ言って、残りを懐にしまい込む。
問い詰めたいわけじゃない。でも、それも知らないまま並んで歩くには、私たちはもうずいぶん遠くまで来てしまった気がした。
ノアさんはしばらく黙って、それから珍しく少しだけ言い淀んだ。
「あー……好きな……」
「……好きな?」
思わず聞き返す。
好きな、の先に何が来るんだ。食べ物。景色。連れ。泣き顔。もっとろくでもない何か。早く続きを、と身構えたのが伝わったのか、ノアさんはちらっとだけ私を見た。
その口元が、ほんの少し意地悪そうに上がる。
「シークレット。北海道着くまでには教えてあげるよ」
「またですか」
呆れて息が抜けた。流暢な英単語を聞くと、この人が日本人じゃないことを思い出す。
前もそうだった。国籍を訊いたときも、北海道に着くまで秘密だと言って、するっと逃げた。そのくせ、思わせぶりな言い方をする。好きな、って何だ。
私はわざと大げさにため息をついてみせる。
「ホント、こんど道間違えたらノアさんの分のご飯、食べちゃいますからね」
「私のお肉は美味しくないよ」
足を止めずに返ってきたその言葉に、胸の奥がひやりとした。
冗談だと分かる。分かるけど、今の私たちには、その手の冗談は全然安全じゃない。海風に混じって、襟花ちゃんの声がまた一瞬だけ耳の奥をかすめた気がした。
「それ、笑えないですから」
自分でも驚くくらい、真面目な声が出た。
ノアさんは、今度はすぐには返さなかった。
数歩ぶんの沈黙のあと、困ったように笑って、
「ごめん」
と言う。
私は「はい」とだけ返した。
それで会話は終わったはずなのに、その短いやり取りのあと、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。笑えないことを、笑えないままにしておけたからだと思う。笑えないと言ったら、ちゃんと引いてくれる相手だと、まだ信じられたからかもしれない。
海の匂いがする。
潮の匂いは嫌いじゃなかったはずなのに、この四日で意味が変わった。綺麗なものの匂いじゃない。私たちが置いてきたものを、何度でも思い出させる匂いだ。
それでも歩くしかない。歩かなければ、食べ物も水も寝床も見つからない。立ち止まった場所が、そのまま死ぬ場所になるだけだ。
世界が終わるその日まで、残りはとうとう半年と五ヶ月を切った。
その数字に、どれだけ本当の実感があるのかは分からない。長いのか短いのかも、もうよく分からない。ただ、前より確実に少なくなっている。それだけは、こうして歩いている足の痛みみたいに、嫌でも分かった。
だからせめて人間らしく、私たちは一歩踏み出す。
水を煮沸して、ベッドを見つければ眠って、泣くときは泣いて、笑えない冗談には笑えないと言って、それでも腹が減れば何かを食べる。
綺麗でも立派でもない。でも、そういうみっともない繰り返しの中にしか、今の私たちの人間らしさは残っていない気がした。
渚の調べと、潮の香りを振り切って、ひたすら前に、前に、前に。
いつか星降るその日まで、私たちの旅は続く。




