渚の怪獣⑪
走っていた。
どこへ向かっているのかも分からないまま、とにかく海岸線に沿って、足がもつれるぎりぎりの速さで走っていた。砂の柔らかいところに踏み込めば靴が沈み、乾いたところへ逃げれば今度は小石が裏に食い込む。息が焼ける。喉の奥が塩でひりつく。肺が痛い。なのに止まれなかった。
潮の匂いが肺の奥まで入り込んでくる。
さっきまで綺麗だと思えたはずの海が、もう駄目だった。波の音が近づいては引いていくたび、襟花ちゃんの声がその奥から追いかけてくる気がした。
耳のすぐそばで笑っていた声とか。
ざぱーん、ってはしゃいでいた声とか。
お姉ちゃん、って呼ぶあの声とか。
それから。
――食べちゃった。
喉がひきつる。
胃の奥がぎゅうっと縮んで、今さら何も入っていないはずなのに吐きそうだった。
足はもうとっくに限界だった。山を越えてきた疲れが消えているわけじゃない。空腹だってそのままだ。それでも走ってしまう。立ち止まったら、その場で崩れそうだったからだ。
「未來!」
後ろからノアさんの声が飛ぶ。
聞こえないふりをした。したかった。
でも足音は容赦なく近づいてくる。砂を踏む音。息を切らした荒い呼吸。いつもよりずっと真剣な、追いつくためだけの足音。
「未來っ! 待って! 待ってってば!」
肩を掴まれた瞬間、身体が大きくぶれた。
「……っ」
振り払おうとしても、力が入らない。息が上がりすぎて、うまく呼吸もできない。肺が焼けるみたいに痛い。足は笑っていて、その場でへたり込みそうになるのを、かろうじて堪える。
「……もう、追いつけないよ」
ノアさんも息を乱していた。低く押さえた声が、余計に現実味を帯びる。
追いつけない。
その一言が、私の背骨を冷たく撫でた。
私は肩を掴まれたまま振り返った。 たぶん、ひどい顔をしていたと思う。涙で、汗で、鼻水で、ぐちゃぐちゃの顔。そんなの分かっているのに、取り繕う余裕なんてどこにもなかった。
「ノアさん……」
ひゅう、と喉が鳴る。
「わかってたんですか? ……ねぇ! 気付いてたんですか!?」
叫ぶつもりだったのに、最後はひっくり返った。責めたいのに、責め切れない。だって本当は、その答えをもう半分知っていたからだ。
ノアさんはすぐには返さなかった。
潮風に前髪を揺らされながら、私の顔を見て、それから短く息を吐く。
「……一度だって言わなかったよ、あの子」
「え……」
「お腹すいたって」
その一言で、頭のどこかが冷たくなった。
そういえば。
そういえば襟花ちゃんは、一度も言わなかった。疲れたとは言った。痛いとも言った。重たくないかと遠慮もした。海に行きたいとも、花澄ちゃんの話もした。でも、空腹は口にしなかった。
焼け焦げた集落からは襟花ちゃんが倒れてた場所までは車で1時間ぐらいの距離があった。その間飲まず食わずだったのなら、必ず出るはずの言葉。現に私達は何度も言った。お腹空いた、お腹が空いたって。
「それに、服についてたあの血は……多すぎる」
「……ぁ」
言われてみればそうだった。
最初に見つけた時から、襟花ちゃんの服は血まみれだった。怪我で出た量にしては多いんじゃないかって、ちらっと思ったことがなかったわけじゃない。でも、泥と擦り傷にまみれた小さな身体。私はあの時、怪我の血だと思い込んだ。そう思いたかった。子供が血だらけなのに、別の可能性を最初から考えられるほど、私はこの世界に染まりきれていなかったし、染まりたくもなかった。
「なんで……! なんで!? 気付いてたならもっと早くっ……!」
「私は言った!!」
鋭く返されて、身体がびくりと跳ねた。
ノアさんが声を荒げたのは初めてで、だから余計に一言が刺さる。
「……君が選んだんだ」
そのあとに続いた声は、さっきより低く、ずっと重かった。
「…………」
選んだ。
助けるって言ったのは私だ。
置いていかないって約束したのも私だ。
襟花ちゃんを海まで連れていったのも私だ。
その一つひとつが、今になって全部刃物みたいに戻ってくる。
私は口を開いた。開いたけれど、すぐには次の言葉が出てこなかった。息が乱れて、喉が痛くて、頭の中では襟花ちゃんの顔が何枚も何枚もめくれていく。笑った顔。汗を舐めてしょっぱいって言った顔。お姉ちゃん、と呼んだ顔。村の外は優しい人がたくさん居るって、信じた顔。
その全部を押しのけるみたいに、私は震える声で訊いた。
「襟花ちゃん……あの足で、歩けると思いますか」
「無理だよ」
「生きていけますか!?」
「無理だよ!」
声がぶつかる。間髪入れず返されたその言葉はあまりにも早くて、あまりにも迷いがなくて、あまりにもに残酷で、
「……わかってるだろ」
分かっていた。
そんなの、最初から。
襟花ちゃんの脚は添え木で固定しないと海まで来るだけでぎりぎりだった。食べ物もない。水もない。傷ついた子供が、あの海辺に一人で取り残されて、生きていけるわけがない。
分かっていた。
分かっていたのに、海の前で、あんな話を聞いた瞬間、私は逃げた。あの子の手を放した。手のひらを返して、置いていった。
「じゃあ、私……あの子のこと、こ、ころし……」
最後まで言えなかった。
砂浜に膝をつく。濡れた砂が制服の膝にじわっと染みる。どうでもよかった。どうでもいいはずなのに、その冷たさだけが妙に細かく分かって、余計に惨めだった。
私がやった。
私が。
子供を助けるって言って、連れてきて、置いていって、殺した。
頭の中に、襟花ちゃんの声が次々浮かんでは消える。
お姉ちゃん。
海に行きたい。
ありがと。
生きてて良かったぁ。
「未来。最初からこうするしかなかったんだ。……三人で旅は無理だよ」
「っ嘘! ホントのこと言ってよっ!!」
涙で視界が滲んで、ノアさんの輪郭まで少し揺れる。口を衝いたのはもう反論じゃなかった。懇願に近かった。
無理だった、仕方なかった、そういう綺麗に聞こえる言い方じゃない。もっと嫌な、本当の部分。私が今、自分の中で直視できずにいる一番汚いところを、代わりに言葉にしてほしかった。
潮風が吹いて、どこか遠くで鳥が鳴く。明るい海辺の音だった。世界はこんなに明るいのに、私の中だけがずっとどす黒く沈んでいる。
「違うんだよ。あの子と君は」
ノアさんが言った。
「……生きる為に人を殺すのと、食べる為に人を殺すのは、全然違うんだ」
その線引きが、正しいのか、どこまで正しいのか、私はすぐには分からなかった。
でも、分からないままでも刺さる言葉というのはある。
「わかるだろ……人喰いと一緒には居れない」
居れない。
その一言で、胸の奥にずっと押し込めようとしていたものが、無理やり引きずり出された。
私は両手で顔を覆った。覆っても意味なんてない。そこにいるのは結局自分自身で、答えなんて分かりきっていたから。
分かってしまったから、逃げたのだ。
「……っ」
唇が震える。
情けなくて、最低で、でも嘘がつけなかった。
「っ……私、ノアさんと会った時、お腹空いて死にそうでした」
「うん」
「すぐ傍にお母さんとお父さんの死体ありました」
ノアさんは黙っている。でも、その沈黙は逃げ道をくれなかった。
「それでも……食べようだなんて思わなかった!」
叫んだ瞬間、喉が裂けそうに痛んだ。
「人を食べてまで生きたいなんて、ちっとも思わなかったよぉ!!」
吐き出した言葉は、ほとんど泣き声だった。
あの時のことを思い出す。五日間。空腹で、喉が渇いて、死ぬのが少しずつ当たり前になっていった時間。目の前にはもう動かない両親の身体があった。それでも、食べるなんて発想は浮かばなかった。嫌悪とか倫理とか、そんな綺麗な言葉にする前に、もっと本能的なところで無理だった。
違う。
違う。
私はあの子と違う。
そう叫んで、その言葉はそのまま別の痛みにも繋がってしまう。
だって、違うと分かった瞬間に、私は怖がったからだ。
ほんの一瞬で。ついさっきまで背負っていた子を。
妹がほしかったなんて笑っていた相手を。
「あんな一瞬で……わ、わた……怖くなった。あの子のこと、気持ち悪いって思ったぁ!!」
言ってしまった。
自分で、自分のいちばん嫌なところを。
「助けたの、私なのに!!」
ぼたぼたと涙が落ちる。砂に吸われて、跡だけが濃くなる。
「お姉ちゃんって呼んでくれたのに!! このまま三人で、とか……思ったのに……」
嬉しかったんだ。襟花ちゃんの手を取って、ほんの少しだけ、本当に。世界の終わりに、誰かと家族ごっこみたいな未来を想像して、嬉しくなっていた自分は、ついさっきまでホントに居たんだ。そんなものが許されるはずもないのに。
「私のわがままで助けて、私のわがままで……こ、まだ子供なのに……私っ、あの子を!!」
そこでとうとう声が崩れた。
嗚咽が喉を引っ掻いて、呼吸がうまくできない。胸が苦しい。苦しいのに、苦しいくらいで済んでいる自分がまた嫌だった。私が苦しいからって、襟花ちゃんが助かるわけじゃない。そんなの分かっているのに、身体は勝手に泣いてしまう。
ノアさんの声が、頭の上から落ちてくる。
「私達だ……助けた責任も取らずに殺したのは、私達だよ」
私達。
その二文字に救われたい気持ちと、救われたくない気持ちが同時に湧いた。私だけじゃないと言われて楽になりたくない。でも、一人で抱えきれるほど軽いことでもない。
結局、私はそのどちらにもなれず、ただその場にうずくまって泣いた。
「う、うぅう……っ、うぅううう!!」
もう言葉にならない。
砂に落ちた涙がすぐ染みて消える。こんなものまで、波打ち際じゃなくても簡単に消えるのかと、どうでもいいことを考えてしまって、余計に泣けた。
「私、約束したのに……」
やっと絞り出した声は、自分のものと思えないくらい弱かった。
「一緒にいるって! 置いていかないって言ったのにぃ!……私、あの子のこと見捨てた……」
あの時、襟花ちゃんはどんな顔をしただろう。
後ろを振り向かなかったから、私は知らない。知らないままなのが、何より卑怯だった。
頭の中で置いていかれたと気づいたあとの襟花ちゃんの顔が、いくらでも想像できてしまう。不思議そうな顔。私達を探す顔。笑ったまま、まだ遊びだと思って私達を呼ぶ顔。だんだん不安になって、声が震えていく顔。
見ていないのに、見える。
見ていないからこそ、消えない。
「もう、いやだぁ……」
その言葉は、襟花ちゃんのことだけじゃなかった。
全部が嫌だった。お腹が空くことも、死ぬことも、食べることも、見捨てることも、正しいかどうか考えなきゃいけないことも、全部嫌だった。
少し前まで、海まで来られたことが嬉しかったはずなのに。
なのに今は、海の匂いすら苦しかった。
「うぅ……ぅうぅ!!」
どれくらいそうしていたのか分からない。
息が少しだけ落ち着いて、泣き声がしゃくりあげに変わったころ、ノアさんがぽつりと口を開いた。
「君と旅をしてるのは」
「……え?」
いきなり話が飛んで、私は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、間抜けに聞き返す。
ノアさんは海じゃなく、私のほうを見ていた。
「私が君と旅をしてるのは……それなり、いくつか、まぁ理由はあるんだけど」
「なんですか」
自分でも驚くくらい、刺々しい声だった。
今そんな話するのか、と言いたかった。言いたいのに、どこかで、この人が唐突にこういう話を始める時は、たいてい何かをずらそうとしている時だとも知っていた。
ノアさんは少しだけ肩を竦める。
「泣きながらご飯を食べる君をみて思ったんだよ」
その言葉に、頭の中で一瞬だけ景色が入れ替わる。
川辺。飯盒の白い湯気。まだ世界の終わりを、自分の身体でうまく実感できていなかった頃。お腹が空いていて、でも食べたら食べたで涙が止まらなくて、ぐしゃぐしゃになりながら口へ運んだ、あのご飯。
「……この子とならって。そう思ったんだ」
その先を、ノアさんは多くは言わなかった。
何を、この子となら、なのか。
生き延びられる、なのか。
まだ人間のままでいられる、なのか。
それとも、もっと別の、ノアさんにしか分からない何かか。
分からない。分からないけれど、今ここで長々説明されるよりは、その曖昧さのほうがまだましだった。
「……なに言ってんの」
泣きすぎて枯れた声で、私はようやくそれだけ返した。
ノアさんは少しだけ笑った。いつもの飄々とした笑いに見せかけて、その実、かなり無理をしている顔だった。
「けど君が嫌だって言うなら、海岸線沿いに歩けば多分町に着くだろうから、嫌ならそこで別れよう」
別れよう。
さらっと言うくせに、ずるい。
こんな時にまで選択肢を差し出す。しかも、それが自由に見えて、全然自由じゃない形で。
「でもその代わり……いくらと海鮮は私の独り占めだ」
言って、手を差し出してくる。
私はその手を見た。
長い指。砂が少しついている。さっき私の肩を掴んだ手。襟花ちゃんを抱えて海へ下ろした手。助けた手で、置いてきた手だ。
私の手だって同じだと思った。
助けるって言って、背負って、約束して、最後には見捨てた手。
それでも、差し出された手はそこにあった。
「っ……」
胸の奥がまた熱くなる。
でも、さっきまでみたいな嗚咽じゃなかった。もっと別の、行き場のない苛立ちみたいな、悔しさみたいなものが喉の奥で暴れる。
「あ~~っ! もう……!!」
叫ぶみたいに息を吐いた。
「……っ馬鹿じゃないですか!? それより先に……」
私は乱暴にその手を掴む。
「串カツとたこ焼きだから」
大阪に着いたら、って意味だった。
たぶん。きっと。
食べ物の名前を口にした瞬間、胃の奥がきゅっと痛んだ。空腹はずっと消えていない。さっきまで忘れていたくせに、こういう時だけきっちり戻ってくる。生きてる身体、ほんとに空気読まない。
ノアさんは一瞬だけ目を丸くして、それから、ふっと息を漏らした。
「……行こう」
真顔だった。
軽口の続きを言う顔じゃない。誤魔化しじゃなく、前に進む時の顔だと分かった。
私は立ち上がる。膝が笑った。泣きすぎた頭はまだ痛い。喉も痛い。顔もひどい。心臓のあたりには、さっきからずっと重い石みたいなものが沈んだままだ。
何も終わっていない。
何ひとつ片付いていない。
襟花ちゃんを置いてきた事実は、この先も消えないし、たぶん私は何度も思い出す。あの子の声も、顔も、海の色も、全部まとめて、忘れたいのに忘れられない傷になる。
それでも。
「っ……うん」
その返事だけは、どうにか出た、立ち上がる。
足はまだ震えていた。膝も痛いし、胸の奥もぐちゃぐちゃのままだ。振り返れば、たぶんまだ海のどこかに襟花ちゃんがいる。今からでも戻れるんじゃないかって考えが、一瞬も消えたわけじゃない。
でも、その一歩を踏み出したら、もう本当に戻れなくなる気がした。
だから私は、振り返れなかった。潮の匂いを背中に押しやるみたいにして、二人並んで歩き出す。
波の音はいつまでも追いかけてきた。
まるで、置いてきた約束そのものみたいに。




