ガブリと噛みつく人間
人間自分が生きることにおいてどうでもいいことが多々ある。
面白いことに一部の人間はどうでもいいことにやたらと噛みつき自分も相手も徳のない状態へと持っていこうとする。
いや、噛みつきに行った人は無抵抗な人を嬲りに行っているのだから、嬲って気持ちがいいのだろう。
例えばライバルが強いときに苦肉の策でいちゃもんを付けたり、噛みついていってあわよくば勝負外で勝利したいと思う人がいるかもしれない。
まあそれを言われてしまったら元も子もないのだが、そこまでなりふり構わず勝ちたいのであれば情状酌量の余地はあるだろう。
でも今世間にやたらといる他人に噛みつくことが生きがいのような奴らにとってはただ嬲るのに都合がいい目標がいたから嬲っただけだろう。
奴らの狡猾なところは一部の悪い例と可能性のみで会話をすることだ。
周りの人が嬲られている人を助けようとしても一部の例と可能性で話されてしまうと嬲られている人が悪いような気がしてきてしまう。
詐欺師というものは真実と嘘をいい塩梅で混ぜ合わせることによって人を騙すが、実はこれはそれとほぼ同じことだということに気が付くだろうか?
一部の悪い例は事実だ。
可能性は可能性だ。
でも事実があってそれがまた起きる可能性がある。そう言われてしまうと我々臆病な人間は本当に悪いことが起きるかも入れないと思ってしまう。
それが起きる具体的な確率は示さず、ただ嬲ることだけを考えて相手を捻り潰そうとする。
嬲られる側は自分がやっていないことについて必死の弁解をしなければならず、しかも事実については否定することが出来ない。
周りの人はより良い社会を作るために両方の意見を平等に聞かなければならないため、一見綺麗ごとな嬲る側の意見に傾いてしまう。
嬲られる側は、出来ないことを証明する、事故が起きないことを証明する、そんな悪魔の証明をしなければならないのだ。
嬲る側は楽だ、ありもしない可能性を並び立てればいいし、相手の都合が悪そうならなぜ都合が悪そうかも気にせずそこをついてやればいい。
可能性はあくまでも可能性であり、なにも事故は起こらないことはないし、もし言い過ぎたとしても「あくまでも可能性の話ですよ。」とでもいえば話はなかったことになってしまう。
攻めるは易く守るは難しということだ。
この話の肝は最初にある。
別にわざわざ自分から関わらなければいいものにわざわざ噛みついて、世間を無駄に騒がせている輩がいるのだ。
ただ自分がほんのちょっぴり気に食わないと思っただけで、ただ丁度良い嬲る相手がいただけで、お前以外の人間はこの世界にはいないのかよ!と問い詰めたくなるような人がすべての原因だ。
嗚呼、人間なんてくだらない。
早く猫にでもなりたいニャー。
著:吾輩は未だに人間である。




