冷徹な審判と掛け違えた鍵
サロンの扉が重い音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、夕闇を背負ったアゼル・フレスベルグだった。
黄金の髪を乱し、琥珀色の瞳には光のかけらもなく、ただ冷酷な暗黒だけが宿っている。
「まあ、アゼル様! 戻ってきてくださったのですね……!」
ソファから立ち上がったディアドラ・キルステンは、可憐な笑みを浮かべて駆け寄ろうとした。
自分がポケットの中に隠し持っている『婚約解消の手紙』の存在に勝利を確信し、甘い声で歩み寄る。
「わたくし、ずっと待っておりましたの。アゼル様とのお時間の続きを――」
だが、彼女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「……手紙を出せ」
「え……?」
氷点下よりも冷たい、アゼルの低音。
ディアドラが困惑して足を止めた瞬間、アゼルの手が目にも留まらぬ速さで伸びた。
ガシッ!!!
「きゃあッ!?」
容赦のない強い力で頭髪を掴み上げられ、ディアドラの頭部が強引に上へと引き上げられる。
磁器のように綺麗な顔が苦痛に歪み、悲鳴が上がる。
「な、何を……っ! 放してください、アゼル様……っ!痛いですわ……!」
「どこにある。アルテナが落とした……僕宛ての手紙だ」
アゼルの瞳には、女性に対する容赦や紳士的な配慮など欠片もなかった。
そこにあるのは、愛しいアルテナを傷つけ、自分から引き離そうとした害虫に対する、むき出しの殺意と蔑みだけだ。
「し、知りませんわ……! 何のことか――」
「吐け。お前がサロンの前で『ゴミのような紙切れ』だと言って拾ったもののことだ。お前のような侯爵家の令嬢が『ゴミ』を大事にポケットの中にしまうなどおかしいだろう?」
「そ、それは……」
反論できず口を噤んだディアドラに、アゼルは更に畳み掛けるように言い募った。
「お前の実家(キルステン侯爵家)が密輸で得ている裏金、不正の帳簿……すべて僕の手元にある。この手紙一枚のために、お前の家ごと破滅させてやろうか?」
「……っ!? ひ、ヒッ……!」
首筋に冷たい刃を突きつけられたかのような圧迫感。
アゼルが本気で自分と家族を潰そうとしていることを悟り、ディアドラの顔から完璧な美貌が削げ落ち、真っ青に怯えきった青ざめた顔に変わる。
「ぽ、ポケット……っ! ドレスの右のポケットに入っておりますわ……っ! 頼みますから、お父様たちには……っ!」
アゼルは舌打ちとともにディアドラの頭を突き放すと、彼女のポケットから強引に白い封筒を奪い取った。
床に崩れ落ち、涙と鼻水で顔を汚しながら震えるディアドラなど、アゼルの視界にはもう入っていない。
アゼルは震える手で封筒を開け、中の手紙を開いた。
そこにあったのは、愛しいアルテナの、繊細で儚い文字。
自分を責め、アゼルの幸せを願い、身を引こうとする――あまりにも切なく健気な『婚約解消』の言葉。
「……アルテナ……。君は……こんな思いで……」
手紙を抱き締めるアゼルの胸を、狂おしいほどの愛おしさと、激しい後悔が突き刺す。
自分が完璧であろうとしたばかりに。彼女を不安にさせ、逃げ出したいほど追い詰めてしまったのだと。
「……待っていてくれ、アルテナ。すぐに迎えに行く……。二度と、僕の手から離れられないように……!」
手紙を胸に強く握りしめ、アゼルは狂気じんだ執着を瞳に宿してサロンを飛び出していった。
――だが。
その悪夢のような悲劇が起きていたサロンの目と鼻の先。
暗い廊下の影から、その光景の「一部」だけを目撃していた者がいた。
アレクに誘われ、言われるがままサロンの近くまで連れてこられていたアルテナだった。
(あ……あぁ……)
アルテナの瞳から、ポロポロと絶望の涙が溢れ落ちる。
遠目から見えたのは――泣き崩れるディアドラ様に寄り添い(実際は頭を掴んで脅迫していた)、怒りに満ちた様子で何かを叫び、そのまま走り去っていくアゼルの姿。
「見ただろう、アルテナ様?」
背後から、アレクが甘く、毒を含んだ声で囁く。
「アゼルはディアドラ様との絆を選んだんだ。君が残した手紙を見て怒り、君を追い出す決意を固めたんだよ。……あんな冷酷な男の元へ戻っても、君には絶望しか残されていない」
「うぐ……っ、あぁ……アゼル様……っ」
アルテナの心は、完全に粉々に砕け散った。
アゼル様は、もう私のことなんて要らないんだ。
私が邪魔だったから、あんなに怖ろしいお顔をされていたんだ。
「さあ、行きましょう。僕の馬車が裏門で待っている。……僕が君を、永遠に守ってあげるからね」
「……はい……アレク様……」
アレクの手を握り返すアルテナ。
すれ違った二人の思い。
狂愛に突き動かされてアルテナを追うアゼルと、本性を隠したままアルテナを自らの「籠」へと連れ去ろうとするアレク。
運命のギアが、破滅に向けて一気に加速を始めていた――。




