甘い毒と忍び寄る蜘蛛糸
校舎の陰の静かな中庭。
私は冷たい壁に背をあずけ、激しい動悸と溢れ出す涙を抑えきれずにしゃがみ込んでいた。
脳裏に焼き付いて離れない、サロンでの光景。
夕日の中で美しく寄り添うアゼル様とディアドラ様。
(痛い……胸が痛い……っ。私……私、本当に一人になっちゃったんだ……)
アゼル様への未練と、己の身程知らずさへの強い自己嫌悪。
暗闇の底に引きずり込まれるような感覚に襲われ、私は小さく丸まって膝に顔を埋めた。
その時だった。
「――可哀想に。そんなに震えて、どうしたんだい? アルテナ様」
頭上から降ってきたのは、柔らかく温かな声。
驚いて濡れた瞳を上げると、そこに立っていたのはアレク・グロスタール伯爵令息だった。
学園でも温厚で人当たりが良いと評判の彼は、痛ましそうに眉をひそめると、高価なスラックスが汚れるのも気にせず、私と同じ目線までゆっくりと腰を落とした。
「アレク……様……?」
「泣かないで、可憐な小鳥さん。そんなに泣いていたら、君の綺麗な瞳が腫れてしまうよ」
アレク様はポケットから真っ白なシルクのハンカチを取り出すと、私の頬を伝う涙をそっと優しく拭ってくれた。
その手つきは壊れものを扱うかのようにどこまでも丁寧で、冷え切っていた私の心にじんわりと温もりが広がっていく。
「私……私……」
「言わなくていい。……見かけたんだ、君がサロンの前から走っていくのをね」
アレク様は深く溜息をつくと、心底同情しているといった様子で私を優しく見つめた。
「アゼルとディアドラのことだろう? ……辛かったね。君という素晴らしい婚約者がいながら、彼はもっと家格のいい女に心を乗り換えてしまったんだ」
「違っ……違います……っ! アゼル様は悪くありません! 私が……私が男爵家の分際で、アゼル様の足を引っ張っていたのがいけないのです……!」
泣きじゃくりながら自分を責める私。
その健気で痛々しい姿を見つめながら――アレクの胸中では、暗く歪んだ歓喜が黒々と渦巻いていた。
(……ああ、素晴らしい。なんて愛らしく、なんて御しやすいんだろう)
アレクは心の内で、冷徹な計算を巡らせていた。
アゼル・フレスベルグという「完璧な男」に対する嫉妬と対抗心。
彼が喉から手が出るほど欲しがっているこの純粋な少女を、奪い去って絶望させてやりたいという強い欲望。
アルテナがアゼルの優しさを「ただの義務感」だと誤解し、自ら身を引こうとしているこの状況は、アレクにとって仕組まれたかのような絶好のチャンスだった。
(アゼルめ、完璧な優等生を気取って本性を隠しているから、肝心の小鳥に逃げられるんだ。……そのまま勘違いしていればいい。僕が彼女の『唯一の救世主』になってあげるよ)
アレクは完璧な慈愛の微笑みを浮かべたままで、甘く静かに毒を吹き込んでいく。
「自分を責めてはダメだ、アルテナ様。君は何も悪くない。……悪いのは、君の健気な愛に付け込んで、陰で別の女と親しくし、君を傷つけたアゼルなんだよ」
「アレク様……」
「君は優しすぎるんだ。あんな冷酷な男のために、君が涙を流す必要なんてどこにもない」
アレク様はそっと私の手を取り、包み込むように握りしめた。
その温もりに、傷ついた私の心は酷く揺さぶられる。
「アゼルのことなんて、もう忘れなさい。……僕なら、君を絶対に泣かせたりしない。君のすべてを受け止めて、大切に守ってあげる」
(アゼル様ではなく……アレク様が、私を……?)
絶望の暗闇の中で差し出された、優しい救いの手。
それが自分を二度と抜け出せない牢獄へと引きずり込む「毒針」だとは気づかず、私はただ必死に、アレク様の手を握り返しそうになっていた――。




