拾われた覚悟と広がる焦燥
アルテナがサロンの前から走り去った、わずか数秒後のこと。
「……あ」
ディアドラがふと足元に視線を落とし、小さく声を漏らした。
サロンの重い木製扉の隙間、そのすぐ外の回廊に、ポツンと白い紙切れが落ちていたのだ。
「何か落ちていますわね……?」
「ん……?」
アゼルは完璧な笑みを崩さないまま、緩慢な動作で視線を向けた。
社交辞令の会話を早く終わらせたくて仕方がなかったアゼルにとって、それは取るに足らない雑音の一つに過ぎなかったからだ。
だが、ディアドラは違った。
彼女は優雅な仕草でサロンの扉を少し開け、床に落ちていたその白い封筒を拾い上げた。
(これは……男爵家の安っぽい便箋……? まさか……)
封筒の裏面には、儚げで几帳面な文字で『アゼル・フレスベルグ様へ』と書かれ、その上には『アルテナ・ヘヴリング』の署名があった。
ディアドラの胸の中で、黒々とした優越感と意地の悪い歓喜が湧き上がる。
(あのアホな男爵令嬢……! アゼル様とわたくしの仲睦まじいお姿を見て、ついに耐えきれなくなって落として逃げたのね!)
ディアドラはアゼルに背を向けたまま、手早く封筒の口を少しだけ開き、中の手紙に目を走らせた。
そこに躍っていたのは、切々とした謝罪と――『婚約解消』の4文字。
(フフ……傑作だわ。これでわざわざ手を汚さなくても、向こうから勝手に身を引いてくれるんじゃないかしら。……いいえ、この手紙は渡してあげない。アゼル様に惨めにおすがりする機会すら、あの女には与えない……!)
ディアドラはアゼルに気づかれないよう、素早くその手紙を自身のボリュームのあるドレスのポケットへと滑り込ませた。
そして、何事もなかったかのように可憐な笑みを浮かべて振り返る。
「ただのゴミのような紙切れでしたわ、アゼル様。さあ、先ほどのお話の続きを――」
「……いや、今日はここまでにしておこう」
アゼルはすっと目を細め、ディアドラの言葉を冷たく遮った。
(……おかしい。アルテナが来る時間だ)
アゼルは胸ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。
いつもなら、この時間になればアルテナが可憐な笑顔で「アゼル様」と訪ねてくるはずだった。遅れることなど、一度だってなかった。
(どうしたんだ……?)
胸の奥で、不穏な嫌な予感が芽生える。
「あ、アゼル様? まだお時間が――」
「悪いね、キルステン令嬢。急用を思い出した」
ディアドラの制止を完全に無視し、アゼルは洗練された動作で立ち上がると、コートを羽織ってサロンを後にした。
引き留めようと伸ばされたディアドラの手など、意に介さず。
廊下に出たアゼルは、無意識のうちに歩調を速めていた。
(どこにいるんだ、アルテナ……? 僕を待たせるなんて、君らしくないじゃないか……)
表向きは静かな表情を保ちつつも、アゼルの内心には底知れない焦燥が広がり始めていた。
彼がアルテナのために作ってあげた「安全な籠」。
そこにいるはずの愛しい小鳥が、自分の与えた温もりの外へ逃げ出そうとしているなど、この時のアゼルはまだ信じたくなかったのだ。
そして同じ頃――。
校舎の陰で、胸を押さえて荒い息を吐いていたアルテナの前に、静かに近づく一つの影があった。
「――可哀想に。そんなに震えて、どうしたんだい? アルテナ様」
甘く、どこまでも優しい声。
涙で滲むアルテナの視界に映ったのは、温和な微笑みを浮かべたアレク・グロスタールだった。
アルテナを絶望の淵から掬い上げる振りをしながら、彼女を逃げ場のない「別の檻」へと誘導する毒針が、静かに仕込まれようとしていた――。




