偽りの画と落ちた封筒
マヌエラ様たちに心ない言葉を浴びせられた翌日。
私の心は、冷たい底なしの沼に沈んでいくかのような静かな絶望で埋め尽くされていた。
昨夜は一晩中、枕に顔を押し付けて涙を殺した。目を閉じれば「アゼル様の重荷」「身の程知らずの男爵令嬢」という言葉が何度も頭の中で響き渡り、ナイフのように胸を抉った。
(今日こそ……今日こそ、本当の終わりを告げなきゃ。これ以上、私がアゼル様の足を引っ張るわけにはいかない……)
私は震える指先でドレスのポケットを探り、あの「婚約解消の書状」が確かにあることを確かめた。紙の硬い感触が、私の弱気になりそうな心を引き締める。
アゼル様の未来を守るため。彼を「優しい義務感」という呪縛から解き放つため。私にできる最後の誠意が、この手紙だった。
重い足取りで向かったのは、放課後のサロン。
アゼル様はいつも、この時間になると私を待っていてくれる。あの温かい眼差し、甘やかなお声……その優しさに甘えられるのは、今日で最後だ。
静まり返った回廊を進み、サロンの重厚な扉の前に立つ。
息を整え、引き返したくなる足を必死に踏みとどまらせて、扉に手をかけようとした――その時だった。
「……ふふ、アゼル様。先ほどのお話、真に感服いたしましたわ」
隙間から漏れ聞こえてきたのは、鈴を転がすような、あまりにも美しく可憐な声。
(え……?)
動きが止まる。呼吸を殺し、そっと隙間から覗き込んだ室内にいたのは、学園の誰もが認める最高峰の華――ディアドラ・キルステン侯爵令嬢だった。
艶やかな金髪を揺らし、磁器のように白い頬をほんのり赤らめた彼女は、アゼル様のすぐ隣に寄り添うように立っている。
「君の視点はいつも鋭くて感心するよ、ディアドラ」
そう答えるアゼル様の顔が見えた。
――その瞬間、私の全身からスーッと血の気が引いていった。
そこにあったのは、夕日を浴びて黄金色に輝くアゼル様の、洗練された完璧な微笑み。
ディアドラ様が嬉しそうに身を寄せると、アゼル様は穏やかな瞳で彼女を見下ろし、その言葉に優しく耳を傾けている。
同じ侯爵家同士。文武両道で息をのむほど美しいお二人。
夕暮れのサロンで寄り添う二人の姿は、まるで神様があらかじめ約束していたかのように完成された一枚の絵画だった。そして……私にとっては、呼吸すらできなくなるほど残酷な現実だった。
(あ……ああ……)
胸の奥で、何かが大きな音を立ててパリンと砕け散る。
マヌエラ様たちの言葉が、鋭い刃となって脳裏を埋め尽くした。
『アゼル様がどれほど肩身の狭い思いをされているか』
『あのお方にふさわしいお方が誰か、お分かりになりませんの?』
全部……全部、本当だったんだ。
アゼル様が私に見せてくれていたのは、幼馴染としての「哀れみ」と「責任感」でしかなかったのだ。
彼が本当に心を通わせ、誇らしく対等に笑い合える相手は……私のような弱小男爵家の娘ではなく、あんなにも誇り高く美しいディアドラ様だったのだ。
私がいなければ、アゼル様は最初からこんなにも晴れやかに、誰にも後ろ指を指されずに幸せになれていたはずなのに。自分の存在そのものが、彼の輝かしい人生についた大きな傷のように思えて、たまらなかった。
(ごめんなさい……ごめんなさい、アゼル様……! ずっと、私なんかが貴方の邪魔をしていて……っ!)
惨めさと申し訳なさで、視界が溢れ出る涙でぐにゃりと歪んでいく。
これ以上、あの幸せそうな光景を見ていたら、自分という存在が惨めで完全に壊れてしまいそうだった。
私は逃げるように、弾かれたように後ずさった。
――だが、私の瞳が涙で曇り、現実から逃げ出したその時。
サロンの中で笑いかけていたアゼル様の内心を、私は知る由もなかった。
(……鬱陶しいな。なぜ僕がこんな女の相手をしなければいけないんだ)
アゼルは表面上、社交界で培った完璧な優等生の笑みを貼り付けながら、胸中では氷のように冷めた冷徹な感情を抱いていた。
アルテナに陰で嫌がらせする害虫ども(キルステン侯爵家やリーガン伯爵家)の動きを監視し、一網打尽にするための証拠集め――ただそれだけのために、アゼルは嫌々ディアドラの相手をしていたに過ぎない。
彼にとって、アルテナ以外の人間は道端の石コロと同じだった。どれほど美しく飾られようと、ディアドラの存在など彼の心に1ミリも響いてはいなかった。
(早くアルテナに会いたい……。今日もあの可憐で可愛い顔を僕に見せてほしい。僕の腕の中で、あの子を存分に可愛がってあげたい……)
頭の中を占めるのは、愛しい婚約者のことだけ。アゼルは表面的な対話の裏で、今すぐにでもこの場を切り上げてアルテナの元へ駆けつけたいという狂おしいほどの焦燥と執着を殺していたのだ。
そんなアゼルの冷徹な裏の顔も知らず、ドアの外でアルテナはただ一人、絶望に打ちひしがれていた。
(早く……誰も私を知らないところへ隠れなきゃ……!)
逃げ出す拍子に、アルテナのドレスのポケットから何かが滑り落ちた。
ポトリ。
床に落ちた小さな封筒の音すら、涙とパニックで満たされた彼女の耳には届かない。
アルテナはただ一心不乱に、溢れる涙を濡れた袖で拭いながら、その場から走り去っていった。
自分が落としたのが、アゼル宛ての「婚約解消の書状」であることにも気づかないまま――。




