潜む刃と昏き保護欲
翌日の昼下がり。日差しが眩しい学園の回廊を、私は一人、下を向きながら歩いていた。
胸のポケットには、相変わらずあの「婚約解消の書状」が入っている。
昨日アゼル様に渡そうと決意したはずなのに、彼のあの優しく温かい笑顔を前にすると、どうしても手が震えて差し出せなくなってしまうのだ。
(私は……なんて意気地なしなんだろう……)
自分が情けなくて、溜息が零れる。
アゼル様の未来を想うなら、一刻も早くこの不釣り合いな関係を終わらせなければならないのに。心のどこかで、彼から与えられる甘い優しさに依存し、手放すのを恐れている自分がいる。
そんな自分に対する嫌悪感で胸がいっぱいになっていた、その時だった。
「あら、そこにいらっしゃるのはヘヴリング男爵令嬢ではありませんこと?」
粘りつくような、嘲笑を含んだ声が回廊に響いた。
ハッとして顔を上げると、豪華なドレスを纏ったマヌエラ・リーガン伯爵令嬢と、その取り巻きたちが私の行き手を塞ぐように立っていた。
「マ、マヌエラ様……」
「フフ、相変わらず冴えないお顔ですこと。アゼル様のお隣に立つ者として、少しは恥ずかしいという自覚をお持ちになってはいかがかしら?」
マヌエラ様は扇子で口元を隠し、私を頭から足の先まで品踏みするように見下ろす。その瞳には、明確な蔑みと強い嫉妬が宿っていた。
「男爵家という低い身分でありながら、アゼル様の婚約者の座に居座り続けるなんて……本当に図々しいのにも程がありますわ。アゼル様がどれほど社交界で陰口を叩かれ、肩身の狭い思いをされているか、考えたこともありませんの?」
「っ……! それは……」
胸を刺すような言葉に、言葉が詰まる。
痛いところを突かれたからだ。私が日頃から一番恐れ、気に病んでいた事実を、彼女は容赦なく言葉のナイフにして突き立ててくる。
「アゼル様はお優しい方ですもの。幼い頃の約束に縛られて、自分から『婚約を破棄したい』なんて言えるはずがありませんわ。あのお方は、あなたという重荷を背負わされて、ただ耐えていらっしゃるだけなのよ」
(……やっぱり。やっぱり、そうなのね……)
マヌエラ様の言葉が、私の心の一番柔らかい部分を無残にえぐっていく。
知っていたはずだった。アゼル様の優しさは、ただの「義務」と「哀れみ」なのだと。
けれど、こうして他人の口から明確に突きつけられると、呼吸が苦しくなるほど胸が締め付けられた。
ポロポロと涙がこぼれそうになるのを、私は必死で奥歯を噛み締めて耐える。
「可哀想なアゼル様。……もしあなたが本当にあのお方を想うのなら、ご自身から身を引くのが筋というものではないかしら?」
そう言ってマヌエラ様たちは、クスクスと嫌らしい嘲笑を残して立ち去っていった。
一人残された廊下で、私は壁に背を預け、ずるずるとその場に膝をつく。
(マヌエラ様の言う通りだわ……。私がアゼル様の隣にいるだけで、彼に恥をかかせている。彼の優しさに甘えてちゃダメ……絶対に、今日こそ手紙を渡さなきゃ……)
涙で滲む視界の中で、私はポケットの封筒をギュッと強く握りしめた。
――だが、私は知らなかった。
この時、遠く離れた校舎の3階の窓から、この光景を冷ややかに見下ろしていた人物がいたことを。
「……ハ、ハハ……」
影の中から漏れ出たのは、氷点下まで冷え切った、掠れた笑い声。
窓辺に立っていたのは――アゼル・フレスベルグだった。
穏やかな王子様の微笑みは影を潜め、その琥珀色の瞳は光を完全に失い、黒々とした不穏な暗黒に染まっている。
(リーガン伯爵家の女か……。僕のアルテナに、よくもあんな口を利いてくれたね)
アゼルは窓枠を指が白くなるほど強く握りしめていた。爪が木枠に食い込み、不気味な軋み音を立てる。
アルテナが悔しそうに唇を噛み締め、一人で泣き出しそうになっている姿を見て、アゼルの胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻いたのは、狂おしいほどの破壊衝動だった。
(僕の可愛い小鳥を傷つける奴は、誰であれ許さない。……本当なら今すぐにでもあの女の首を跳ね飛ばして、僕のアルテナを誰も来られない深い地下室に閉じ込めてしまいたい……!)
しかし、アゼルは必死でその狂気を抑え込んだ。
ここで暴走しては、アルテナに恐怖されてしまう。自分は彼女にとって「優しくて頼れる完璧な婚約者」でい続けなければならないのだから。
(待っていてね、アルテナ。君を苛む害虫は、僕が裏ですべて綺麗に掃除してあげるから。……君はただ、僕の腕の中で可愛らしく微笑んでいればいいんだ)
アゼルの口元に、狂愛に満ちた歪んだ笑みが浮かぶ。
アルテナの哀しい「誤解」と「決意」。
そして、それを影から見つめるアゼルの「過激な庇護欲」。
二人のすれ違いは、静かに、けれど確実に破滅へのカウントダウンを刻み始めていた――。




