甘やかな籠と小さな亀裂
学園の放課後。夕暮れの光が差し込む生徒会室の静寂の中で、私はただひたすらに、己の内に渦巻く惨めさと戦っていた。
「アルテナ、顔色が悪いよ。……少し休んだ方がいいんじゃないかい?」
目の前に差し出された、透き通った紅茶のカップ。
湯気の向こうから私を見つめるのは、フレスベルグ侯爵家の令息であり、学園中の誰もが憧れる私の婚約者――アゼル・フレスベルグ様だった。
太陽を溶かし込んだかのような美しい黄金の髪、深く静かな琥珀色の瞳。
完璧な所作で私の隣に座り、心配そうに眉をひそめるその姿は、まるで物語に出てくる高貴な王子様そのものだ。
「い、いえ……大丈夫です、アゼル様。少し、考え事をしていただけで……」
私は慌てて笑みを貼り付け、小さく首を振った。
けれど、触れ合いそうなほど近くにある彼の体温を感じるたび、胸の奥がキュッと絞めつけられるように痛む。
(……どうして、そんなに優しくなさるのですか……?)
アゼル様の瞳に映る自分の姿を見るたび、劣等感が波のように押し寄せてくる。
私はただの弱小男爵家の娘だ。家格も、財力も、容姿も……何一つとして、フレスベルグ侯爵家の未来の当主であるアゼル様に釣り合う要素など持っていない。
幼少期に親同士が決めた約束。ただそれだけの理由で、アゼル様は私を婚約者として扱い続けてくれている。
彼は誰に対しても親切で、高潔で、優しいお方だ。だからこそ……「男爵家の娘だから」と私を無下に切り捨てることもできず、ずっと私という重荷を背負い続けてくれているのだ。
(アゼル様は……ただ『義務』を果たしていらっしゃるだけ。幼馴染としての情で、私を哀れんでくださっているだけなのに……)
私がそんな誤解と自責の念に苛まれていることなど、アゼル様は露ほども知らず、そっと私の頬に温かい指先を滑らせてきた。
「無理をしちゃダメだ。君が傷つくことや辛い思いをすることは、僕が絶対に許さない。……僕の隣にいる時は、何も考えなくていいんだよ」
愛おしそうに私を撫でる手つき。
その言葉はどこまでも甘く、温かい。
――だが、私の頬を触れるアゼルの内心で渦巻いていたのは、決して「哀れみ」などという綺麗な感情ではなかった。
(……可愛い、僕のアルテナ。今日も僕の前で怯えたように、愛らしく縮こまっている……)
アゼルは穏やかな笑顔の仮面の下で、ドス黒いまでの愛執と狂気を秘かに燃やしていた。
彼女は自分の価値を何も分かっていない。
彼女が僕を見るたびに浮かべる、今にも壊れそうな儚い表情。僕の言葉一つに一喜一憂し、身を縮める可憐な姿。それがどれほど僕の理性を削り、狂わせているか。
(僕がどれだけ我慢しているか、君は永遠に知らなくていい……。君を狙う不快な虫どもを排除し、弱小男爵家だと見下す社交界の口を塞ぐために、僕がどれほど『完璧な優等生』を演じ続けているかもね)
アゼルにとって、アルテナは生涯をかけて守り、手元に置き続けなければならない唯一無二の存在だった。
彼女を誰の目にも触れない場所に閉じ込め、自分だけのものにしたいという過激な欲望。それを必死に抑え込み、彼女を怖がらせないために「優しい婚約者」を演じることこそが、アゼルにとっての日常であり、唯一の忍耐だったのだ。
「……アゼル様?」
彼の視線がふっと暗く落とされた気がして、私は恐る恐るその顔を見上げた。
「なんでもないよ、アルテナ」
一瞬でいつもの柔らかな微笑みに戻ったアゼル様は、私の手を優しく包み込んだ。
「さあ、サロンでお茶の続きをしよう。君の好きなクッキーを用意させてあるんだ」
「あ……はい、ありがとうございます……」
引きずられるように歩き出しながら、私はそっと胸元に手を当てた。
ドレスのポケットの中には、私が数日前から夜も眠れずに書き上げた一通の書状が入っている。
『アゼル様、私との婚約を解消してください』
(これ以上……アゼル様の完璧な人生を、私なんかが邪魔するわけにはいかない。あのお方にふさわしい、本当のパートナーを見つけていただくために……私から身を引かなきゃ)
アゼル様の背中を見つめながら、私は悲壮な決意を固めていた。
自分が差し出そうとしているその「手紙」が、アゼル様の張り詰めた理性を完膚なきまでに叩き割り、逃げ場のない狂気へと変貌させてしまうことなど、この時の私は知る由もなかった――。




