蜜の枷と断罪の真実
「離して……お願いだから、離して……ッ!」
アレク様の腕の中で、私はすがりつくように叫んだ。
けれど、アレク様は私の震える身体を力で押さえつけるのではなく、まるで壊れ物を包み込むかのように、どこまでも優しく抱きすくめてきた。
「離すわけがないだろう……? こんなにも傷つき、震えている君を……僕が置いていくはずがない」
その声は恐ろしいほどあたたかく、耳元で甘く囁かれる言葉の一つ一つが、絶望に沈む私の心へすっと染み込んでいく。
「可哀想に、アルテナ様。君は何も悪くないんだよ……。冷たいアゼルに傷つけられ、孤独に耐えかねて僕の温もりを求めた……ただそれだけなんだ。自分を責める必要なんて、どこにもない」
「あっ……アレク様……っ」
「アゼルを見てごらん。君が僕と肌を重ねたと知れば、彼は表向きは許すフリをしても、その心の奥底では死ぬまで君の『過ち』を責め続けるだろう。純潔を重んじるあの男に、本当の意味で君を包み込めるわけがないんだ」
アレク様の手が、私の背中を優しく撫で下ろす。
その手つきは私を慈しむ慈愛に満ちていて、だからこそ、私を底なしの泥沼へと引きずり込んでいく。
「でも……僕は違うよ」
アレク様は私のおでこに、そっと愛おしそうに 口づけを落とした。
「君がどんな過ちを犯そうと、誰の影を纏っていようと……僕は君の全てを受け入れる。君を傷つける外面だけの身分も、貴族社会の冷たい視線も……僕の別邸にいれば、何一つ君に届きはしない。ここで二人、永遠に幸せに暮らそう……ねぇ、アルテナ様?」
「あ……ぁ……っ」
冷たい毒のような優しさが、私を甘く痺れさせていく。
(そうよ……私はもう、アゼル様の元へは戻れない……。こんなにも優しく私を受け入れてくださるアレク様を拒んで、どこへ行けというの……?)
私の思考が冷たく麻痺していく中、階下から鋭い音が響いた。
ガチャン……ッ!!
「っ……あ……!」
目を開けると、アゼル様が転がっていた自らの剣の鞘を捨て、刃だけを直接握りしめながら立ち上がろうとしていた。
刃を固く握りしめたアゼル様の手から、赤ぐろい血が滴り落ち、大理石の階段を鮮やかに染めていく。痛みに顔を歪めながらも、その琥珀色の瞳はブレることなく、まっすぐに私だけを射抜いていた。
「アルテナ……ッ! 僕を見るんだ……ッ!」
喉を焼き切らんばかりの、血を吐くような叫び。
「君が……君が自分の身体を汚したと……自分を責めているなら……! 僕のこの血で、君の罪も傷も全て洗い流してやる……ッ! 僕が君を穢した元凶なんだ……ッ!!」
「アゼル……様……ッ! 手から……血が……ッ!」
「知るか……そんなもの……ッ! 君を失う痛みに比べたら、こんな傷……痛くも痒くもない……ッ!!」
アゼル様は一歩、また一歩と、血の足痕を残しながら階段を上ってくる。
完璧だった男が、なりふり構わず、己の体を傷つけてまで私への愛を証明しようとしている。
『君がどんな過ちを犯そうと、僕は君という存在そのものを愛している』
その凄絶な姿が、言葉以上の真実となって私の胸に突き刺さった。
(違う……。アレク様が言っているのは、私を救うための言葉じゃない……。私をアゼル様から遮断して、閉じ込めるための甘い鎖だ……!)
私の脳裏に、すっと冷ややかな覚悟が宿る。
アレク様が与えてくれるのは、私の弱さに付け込んだ「逃避の蜜」。
アゼル様が差し出しているのは、傷だらけになっても私と向き合おうとする「痛みを伴う真実」。
私が本当に欲しかったのは、自分を甘やかしてくれる鳥籠などではなかった。
「……アレク様」
「なんだい、アルテナ様? さあ、部屋へ向かおう――」
「離してください」
私は静かに、けれどはっきりと告げた。
アレク様の身体がピクリと強張る。
「……なんだって?」
「離してくださいと言ったのです。……私は、あなたに甘えて逃げていただけでした。アゼル様と向き合うのが怖くて、あなたの温もりに逃げ込んでいただけだった……!」
「何を言い出すんだい、アルテナ様!? 君はアゼルに捨てられたんだぞ! 僕と身体を重ねて――」
「ええ、重々承知しています! 私は愚かで、弱くて、取り返しのつかない過ちを犯しました!」
私はアレク様の胸を、残された全身の力で強く押し返した。
「ですが……! 自分の犯した過ちの深さを知ったからこそ、私はあの人の手を離したくない! たとえアゼル様に一生嫌われようと、軽蔑されようと……私は自分の足で、あの人の元へ戻ります!!」
「アルテナ様……ッ!?」
仮面の下の狂気を剥き出しにしたアレク様が、激昂して私へ手を伸ばす。
しかし、その指先が私に触れるより早く、階段の途中でアゼル様の叫びがホール全体に轟いた――。




