破滅の抱擁と枷となった夜
「……ハッ、見るに耐えないな」
静まり返ったホールに、冷ややかな失笑が響いた。
アゼル様の血を吐くような告白と涙の叫びを、アレク様は心底呆れたように吐き捨て、私の肩を抱く手にぐっと力を込めた。
「耳を傾ける価値もない愚かな言いわけだ。アルテナ様、行こう。こんな狂人の戯言をこれ以上聞く必要はない」
「あっ……アレク様……っ!」
強引に身を翻され、私は階段の上へと引きずられるように足を進めさせられた。
「待て……っ! 待ってくれ、アルテナ……ッ!!」
階段の下から、アゼル様の焦絶した声が追いかけてくる。
振り返ろうとした私の顔を、アレク様は強情に自分の胸元へと押し当て、視線すら遮ってしまう。
(あんなアゼル様……見たことがない……っ。私を怖がっていた? 私を失うのが怖くて壁を作っていた……? そんなの……そんなの、ずるいわ……っ!)
胸の奥で、激しい葛藤が荒れ狂う。
ずっと「不釣り合いな私への義務感」だと自分に言い聞かせ、傷つかないように固く閉ざしてきた心の扉。そこにアゼル様の叫びが激しい旋風となって吹き荒れ、扉を根底から打ち砕いていく。
(私……本当は、ずっとあの人に抱きしめられたかった。配慮なんて要らなかったのに……!)
「僕から逃げられると思っているのかい、アゼル? 君がどれほど見苦しく愛を乞おうと、彼女はもう僕の屋敷にいて、僕のベッドで夜を明かしたんだ。……勝負は最初からついているんだよ」
アレク様の冷酷な勝利宣言が頭上から降ってくる。
「違う……ッ! アルテナ、行くな……! 僕を……僕を置いて行かないでくれ……ッ!!」
アゼル様が手すりを掴み、無理やり立ち上がろうとした気配がした――けれど。
「ぐっ……ぁっ……!?」
痛々しい崩落音。
限界を超えていたアゼル様の足が激しく痙攣し、血に染まった大理石の階段に強く膝をついた。そのまま前のめりに倒れ伏し、手から落ちた剣がカランと乾いた音を立てて転がっていく。
血に塗れ、荒い息を吐きながら、それでも私の方へ向かって泥臭く手を伸ばすアゼル様。
あの完璧だった人が、私のためにそこまで身を削り、惨めに地を這っている。
(私……何をしてるの……!? 傷ついているあの人から逃げていたのは、私の方じゃない……っ!)
激しい後悔と愛おしさが胸から溢れ出し、私はアレク様の腕を振り払い、アゼル様の方へ駆け寄ろうと一歩を踏み出した。
だが――。
「動くなッ!!!!」
激しい怒声とともに、腕を強く掴んで引き戻された。
振り向いた先にいたのは、これまでの哀しげな仮面を完全に脱ぎ捨て、嫉妬と執着で顔を凄惨に歪めたアレク様だった。掴まれた手首に、骨が軋むほどの激痛が走る。
「どこへ行こうというんだい、アルテナ様……!?」
アレク様は私の両肩を激しく掴むと、恐ろしいほどの力で私を壁へと押しつけ、逃げ場を奪うように至近距離まで顔を近づけてきた。
「忘れたのかい!? 君はもう、僕と身体を重ねたんだぞ!! 僕のベッドで肌を合わせ、僕のものになったのを忘れたのか!?」
「っ……ぁ……」
冷たいナイフで胸を突かれたような衝撃に、息が止まった。
(私……アレク様と……)
頭の中に、さっきまでの甘く重苦しい夜の記憶が奔流となって押し寄せる。
アレク様の熱い唇、身体に残る温もり、おでこと唇に刻まれた深い痕跡。アゼル様への絶望から逃げるように、私はアレク様に身を委ね、その肌を受け入れてしまったのだ。
「君はもう純白の令息の元へ戻れる身体じゃないんだよ!」
アレク様の残酷な言葉が、絶望の呪いとなって全身を駆け巡る。
(そうよ……私は……アレク様と関係を持ってしまった……。アゼル様を裏切り、別の男性に身を委ねてしまった女なのよ……っ)
自分自身の愚かしさと軽率さに、血の気が引いていく。
目の前で血を流し、私を求めて手を伸ばしてくれるアゼル様。
あんなにも美しく、清らかで、私を真っ直ぐに愛してくれていたアゼル様の元へ――こんな、他の男性の体温を染み込ませた惨めな身体で、どうして駆け寄ることができるだろう。
(触れられない……。そんな汚れきった身体で、アゼル様に触れるなんて……できない……っ!)
「嫌……っ、いやあぁっ……!」
アゼル様への愛おしさと、自分に対する激しい嫌悪感、そしてアレク様への恐怖。
複雑すぎる罪悪感の泥沼に呑み込まれ、私はアゼル様へと伸ばしかけた自分の手を、激しい拒絶とともに強く胸元へ引き抱えて縮こまってしまった。
「……そうだ、アルテナ様。君が行く場所なんて、どこにもないんだ」
私の絶望を察したアレク様が、狂気的な優しさを取り戻し、震える私を逃がさぬよう固く抱きしめる。
階段の下で、膝をついたまま立ち上がれないアゼル様が、私の異変を感じ取ったように悲痛な叫びを上げた。
「アルテナ……っ! 頼む……僕を見てくれ……っ! アルテナぁッ!!!!」
愛する人の血を吐くような呼ぶ声と、自分を縛りつける汚れた身体の記憶。
私は泣きながら、壁とアレク様の腕の間で、動くことすらできなくなっていた――。




