悲劇の仮面と歪んだすり替え
「私から……手を引くというのかい? アルテナ様」
凍りついた静寂の中、アレク様の低く儚げな声が響いた。
私の拒絶を前に、伸ばされた手が力なく空を切る。その瞬間、アレク様は怒り狂うでも、恐ろしい素顔を覗かせるでもなく――ただ傷ついたように瞳を揺らし、深く傷ついた悲劇のヒロインのような表情を浮かべた。
「そうか……。どんなに僕が君を愛しても、傷ついた君の心に寄り添っても……土壇場で、やっぱり君はアゼルを選ぶんだね」
「あ……アレク様……?」
あまりにも哀しげな声に、私は息を飲んだ。
アレク様はギュッと胸元を掴み、苦しそうに瞳を伏せると、ハラハラと頬に一筋の美しい涙をこぼした。
「悲しいよ、アルテナ様……。あんなにも酷い仕打ちを受け、『アゼルの陰でずっと辛かった』と泣いていた君を、僕はただ救いたかった。僕のこの手で温もりを与え、君に笑ってほしかっただけなのに……」
「っ……」
「『私にとってのアレク様は、世界で一番素敵なお方です』……そう言ってくれたのは、僕だけを愛してくれると言ってくれたのは……全部、僕を喜ばせるための嘘だったのかい?」
言葉の一つ一つに滲むのは、捨てられた者の孤独と、裏切られた者の悲痛な叫びだった。
(違う……私、そんなつもりじゃ……っ!)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
アゼル様に冷たく放置され、孤独の暗闇にいた私を救い出し、温もりを与えてくれたのは、間違いなくアレク様だった。おでこや唇に落とされた甘いキスや、部屋で与えられた優しい言葉……それらはすべて、私を想ってのことではなかったのだろうか?
(アレク様は……ただ、私を愛してくれているだけ……? なのに私は、傷ついたこの方を裏切ろうとしているの……?)
「すまない、アルテナ様。君を責めるつもりはないんだ」
アレク様は目元を拭い、儚げで消え入りそうな笑みを私に向けた。その手は、今にも崩れ去りそうなほど震えている。
「ただ……僕には君しかいなかったんだ。アゼルに全てを奪われ、日陰を生きてきた僕の人生で、君だけが唯一の光だった。……でも、君が僕を捨ててアゼルの元へ戻りたいというなら、僕はもう何も言わないよ。……ただ、胸が引き裂かれそうだ」
痛々しいほどに可哀想な姿。
私を乞う、縋るような眼差し。
アゼル様への不信感と罪悪感に加え、アレク様に対する激しい同情と罪の意識が、私の心を激しく揺さぶる。
(私……また、人を傷つけているわ。アゼル様だけじゃなく、私を命がけで愛してくれたアレク様まで……っ)
アレク様の差し出す手が、再びゆっくりと伸びてくる。
それは愛ゆえの救いの手に見え、私は自分の同情を「愛情」だと勘違いしたまま、フラリと吸い寄せられるようにその手を取りそうになってしまった。
その時――。
「アルテナに……触るなあああッ!!!!」
階下から、地獄の底から響くような咆哮が上がる。
見下ろすと、全身血まみれのアゼル様が、床に転がっていた自身の剣を杖代わりにし、今にも倒れそうな体を無理やり起こしていた。
琥珀色の瞳には、自分の命などどうでもいいと言わんばかりの、凄絶な執念が燃え盛っている。
「アゼル……様……っ!」
「騙されるな……ッ! そいつの悲しそうな顔に……騙されるんじゃない、アルテナ……ッ! そいつが君に向けているのは……愛なんかじゃない……ッ!!」
アゼル様は血を吐きながら、一段、また一段と、私とアレク様がいる螺旋階段を上り始めた。
悲劇のヒーローを演じながら哀惜の視線を送るアレク様と、血を流しながら狂おしいまでの真実を叫ぶアゼル様。
二人の男性の狭間で、私の心は混迷の極みへと突き落とされていた――。




