螺旋階段の上の真実
「ア……アゼル様……!?」
静まり返ったホールに、私の震える声が白く響いた。
手すりを握りしめる指先が、氷のように冷たくなっていく。
階下で血を流し、大理石の床に倒れ伏しているのは、間違いなくアゼル様だった。乱れた黄金の髪、破れた上着、そして……今まで見たこともないほど傷つき、焦絶した琥珀色の瞳。
そして、そのすぐ傍らに立っているのは――短剣を手に持ち、狂気と愉悦を孕んだ微笑みを浮かべるアレク様だった。
「アルテナ様……部屋にいるようにと言ったのに、出てきてしまったのかい?」
アレク様が優しく、けれどどこか冷ややかな声で私を見上げる。
「あ……アレク様……どうして……? アゼル様が……どうしてお二人が……っ」
頭の中が真っ白になり、言葉がうまく出てこない。
治安の悪い暴漢が襲ってきたと思っていたのに、そこにいたのは私の元婚約者と、私を救ってくれたはずの救世主だった。
その時、倒れていたアゼル様が、苦しげに息を吐きながら必死に顔を上げた。
「アル……テナ……っ」
私と視線が交わった瞬間、アゼル様の瞳からポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。あの完璧で、誰の前でも冷静だったアゼル様が、子供のように泣きじゃくりながら私に手を伸ばす。
「逃げろ……っ! アルテナ、そいつから離れるんだ……! 騙されるな……っ!」
「アゼル様……?」
「すまなかった……! 僕が馬鹿だったんだ……っ! 君を守るためだなんて賢しらな『配慮』で……君を一人にして、傷つけて……! ずっと寂しい思いをさせて、本当にすまなかった……っ!!」
アゼル様は血の滲む唇を噛み締めながら、胸を押し潰すような声で叫んだ。
「君が欲しかったのは……陰からの庇護なんかじゃないのに……っ! 僕の温もりだったのに……っ! 僕が愚かだった……僕が君を追い詰めたんだ……っ! でも……頼むから、アルテナ……僕を捨てないでくれ……ッ!! 僕は君を……ずっと愛していたんだ!!」
「アゼル様が……私を……?」
差し出されたアゼル様の手を前に、私は胸を激しく打たれながらも、激しい混乱に陥っていた。
(嘘……嘘よ。そんなの、信じられるわけがないわ……)
脳裏を渦巻くのは、血を流しながら涙を流すアゼル様の姿と、これまで私に向けられてきた冷たい態度の記憶。
だって、あのアゼル様だ。学園の誰もが羨む完璧な侯爵令息で、いつだって冷徹なまでに公平だった。私に対して一度だって感情を剥き出しにしたことなんてなかった。
『不釣り合いな私への義務感で一緒にいる』
『私なんて、彼の完璧な人生の汚点でしかない』
そう自分に言い聞かせて、傷つかないように必死で心を殺してきたのだ。今さら「守るための配慮だった」「ずっと愛していた」なんて言われても、どう受け止めればいいのか分からない。
(私を惑わすための言葉よ。私を捨てようとしたアゼル様が……今さら私を愛しているなんて、そんな都合の良い話があるはずない……ッ!)
信じたいという愚かな希望を打ち消すように、私は必死で頭を振り、目の前のアレク様へと視線を逃がした。
「さあ、来なさいアルテナ様。あんな男の惨めな戯言に耳を傾ける必要はない。僕の部屋へ戻ろう……僕が一生、君を愛してあげるから」
アレク様がゆっくりと螺旋階段を上り始め、私に向かって優しく手を差し伸べた。その微笑みは変わらず甘かったけれど――。
(なにかが……おかしい……)
伸ばされた手を見つめた瞬間、背筋に冷や汗が伝った。
アレク様の瞳の奥――暗く濁った底に映っているのは、私への愛おしさなどではなかった。階下で打ちのめされているアゼル様を見下ろす、ぞっとするほどの優越感と、冷酷な嘲笑。
(どうして……? アレク様は、私を助けてくださったんじゃないの……? 私を愛してくださっているから、ここに置いてくれたんじゃないの……?)
ざわりと、胸の奥で恐ろしい疑念が渦を巻く。
「……ううん、違うわ。何を考えているの、私……っ!」
私は自分の浅はかな疑いをかき消すように、強く目を閉じた。
(アレク様は私を助けてくださったのよ! 冷たいアゼル様に捨てられ、行き場を失った私を抱きしめて……『世界で一番大切だ』と言ってくださったんじゃない……!)
アレク様にまで疑いを向けたら、私には本当に何もなくなってしまう。この優しさが偽りだなんて認めたら、私は孤独の暗闇に完全に呑み込まれてしまう。
アゼル様への不信感と、アレク様への恐怖。
二つの感情の挟み撃ちに遭い、私は混乱のあまり狂いそうだった。
「アルテナ様? どうしたんだい、顔色が悪いよ」
アレク様の手がそっと伸び、私の頬に触れようとする。
「っ……!」
その温もりが、今の私にはあまりにも冷たく、そして恐ろしく感じられて――私は無意識のうちに、その手を拒むように小さく身を引いてしまった。
「……アルテナ様?」
アレク様の微笑みが、ピクリと凍りつく。
どちらが正しくて、どちらが偽りなのか。
嵐のような葛藤の渦中で、私の心は激しく揺れ動いていた――。




