月下に揺れる罠と月光の檻
静まり返った夜の館。豪奢な廊下に、私のかすかな衣擦れの音が虚しく響いていた。
薄桃色のシルクのナイトドレスに身を包み、私は冷たい大理石の廊下で一人、迷子のように佇んでいた。
(……眠れないわ……)
ふかふかの贅沢なベッドに入っても、瞳を閉じるとアゼル様の悲しげな顔と、私を優しく抱きしめてくださったアレク様の温もりが交差して胸が激しく騒ぎ、どうしても眠りに落ちることができなかったのだ。
アゼル様への未練を断ち切ると決めたはずなのに、暗闇の中に一人でいると、ふいに『本当にもう後戻りはできないのだ』という圧倒的な孤独感と恐怖が襲いかかってくる。
不安と寂しさに押し潰されそうになり、居ても立ってもいられなくなった私は、救いを求めるように部屋を抜け出してしまっていた。
(アレク様のお部屋は……どちらなのかしら。ご迷惑かもしれないけれど……もう少しだけ、あの方のお声が聞きたい……)
自分の浅ましい依存心に罪悪感を覚えつつも、不安そうに廊下の角を曲がった、その時――。
「アルテナ様……? こんな夜更けに、どうしたんだい?」
静かな声とともに、暗がりから人影が現れた。
絹のガウンを羽織り、ランタンの灯りを手に下げたアレク様だった。
「あっ……アレク様……っ!」
暗闇の中で見知った姿を見つけ、私の胸は破裂しそうなほどの安堵に包まれた。吸い寄せられるように、私はアレク様のもとへと駆け寄ってしまう。
「ごめんなさい……お部屋を抜け出してしまって。どうしても……一人だと胸が苦しくて、眠れなくて……。アレク様のお顔を見たら、少し落ち着くかもしれないと思って……」
申し訳なさから身を小さくし、縋るような思いでアレク様を見上げる私。
(情けないわ、私……。こんなにも夜遅くにアレク様を困らせてしまうなんて。でも、今の私には……あの方の温もりしか頼れるものがないの……)
そんな私の心を見透かすように、アレク様はいつものどこまでも優しい微笑みを浮かべると、持っていたランタンを近くの台座に置き、私の肩をそっと抱き寄せてくださった。
「可哀想に……一人にしてごめんね。僕も君に会いたくて、部屋を出てきたところだったんだよ」
「アレク様……っ」
甘い言葉とともに、優しく頭を撫で下ろされる。
私は何の疑いも抱かず、その温もりに心底救われたような思いで、アレク様の胸へと自ら体を預けた。
私を包み込むアレク様の腕に、かすかに力がこもるのを感じる。
けれど、その時の私は知る由もなかった。
私を抱きしめながら、アレク様がどれほど昏く濁った瞳で廊下の闇を見つめているのかを。
(……くく、なんて都合の良い小鳥だろう。僕を必要とし、自ら罠の真ん中へ飛び込んできてくれた……)
アレク様の胸中で、黒々とした愉悦が激しく跳ね上がっていた。
アゼルが激怒と焦燥に狂いながら、この別邸の扉を破壊して踏み込んでくる刻限は、もう目前。
そんな絶好のタイミングで、自分を求めて縋りついてきたアルテナの存在は、アゼルの心を根底から叩き潰すための「完璧な舞台装置」だった。
(来い、アゼル。お前が命がけで駆けつけた先に待っているのは、お前が愛した女が僕の腕の中で甘く微笑み、僕に心を差し出している姿だ……! お前が築き上げてきた自尊心も、愛も、すべて僕が踏みにじってやる……!)
私を閉じ込める腕の中で、アレク様は私への愛おしさではなく、アゼル様への激しい歪んだ優越感に歓喜していたのだ。
そんな恐怖の画策に気づくはずもない私は、耳元で囁かれる言葉にただうっとりと頷くだけだった。
「さあ、部屋へ戻ろう。僕が君が眠れるまで、ずっと側にいて抱きしめてあげるからね」
「はい……ありがとうございます、アレク様……」
(私には、この手がある。この温もりがあるんだわ……)
私を大切に引き寄せ、部屋へと歩き出すアレク様。
あたたかな毒の麻薬に侵された私は、彼の胸に顔をうずめながら、すぐそこまで迫っているアゼル様の執念と悲劇の足音に、まだ何も気づいていなかった――。




