暗夜を裂く疾走と遅すぎた悔恨
「ハァッ……ハァッ……ッ!」
夜の深い静寂を切り裂くのは、激しい馬蹄の音と、アゼルの途切れがちな荒い吐息だけだった。
漆黒の馬に鞭を当て、闇に包まれた街道を疾風のごとく駆け抜ける。冷たい夜風が乱れた黄金の髪を激しく煽り、頬を刺すが、アゼルは痛みすら感じていなかった。
胸の中で渦巻くのは、アルテナを失うことへの狂おしいほどの焦燥と、溢れ出す激しい後悔、そして――アレク・グロスタールに対する腹の底からの憎悪だった。
(僕のせいだ……僕の、愚かで浅はかな『配慮』のせいだ……ッ!)
アゼルの頭裏に、学園での過去の光景が走馬灯のように次々と駆け巡る。
身分社会の頂点に立つフレスベルグ侯爵家の令息である自分が、しがない男爵令嬢に過ぎないアルテナを「特別扱い」すれば、どうなるか。周囲の嫉嫉や悪意の刃が彼女に向かい、学園で立場をなくしてしまう。
――だからこそ、アゼルは徹底して「完璧な婚約者」を演じ続けた。
誰にでも平等に、冷徹なまでに公平に接し、彼女だけを露骨に贔屓することを固く禁じた。陰で彼女の環境を整え、害をなす者を密かに排除し、完璧な距離感で見守り続けることこそが、無力で可憐な彼女を守る「最善の愛」なのだと信じて疑わなかった。
(……馬鹿か、僕は。何が配慮だ……! 何が彼女のためだ……ッ!)
手綱を握りしめる手に爪が食い込み、痛烈な自責の念がアゼルの胸を激しく抉る。
(そんな回りくどい配慮なんて、最初からしなければ良かったんだ! どんな噂が立とうが、周りからどう思われようが、最初から彼女だけを露骨に愛し、僕の手で抱きしめて、僕の庇護下に囲い込んでおけば良かった……!)
「自分には不釣り合いだ」「アゼル様は義務感で一緒にいる」「ディアドラ様の方がお似合いだ」――そんな残酷な誤解をアルテナに抱かせ、追い詰めたのは、他ならぬアゼル自身の「賢しらな理性に満ちた配慮」だった。
彼女が欲しかったのは、陰からの冷たい庇護などではない。
「愛されている」という確固たる実感と、自分だけに向けられる無条件の情熱だったのだ。
(完璧な貴族の仮面なんて、何の意味もなかった……! 君を傷つけ、遠ざけ、害虫の籠に追いやる結果になるくらいなら……最初からなりふり構わず、僕の所有物として世界中から隠しておけば良かった……っ!)
そして、その自責の裏で燃え盛るのは、アレクに対する凄惨なまでの殺意だった。
(アレク……ッ! 昔から僕に劣等感を抱き、陰でコソコソとくだらない小細工ばかり弄していた無能が……!)
幼少期から、アレクが自分に対して向けていた嫉妬と歪んだ対抗意識を、アゼルはとっくに見抜いていた。だが今までは「取るに足らない格下の愚者」として一蹴し、相手にすらしていなかったのだ。
その甘さが、最大の裏目に出た。
(僕の『配慮』によって傷つき、隙ができてしまったアルテナの心に漬け込み、自分を『救世主』のように見せかけて奪い去るだと……!? 僕への不満を晴らすためだけに、あんな汚い手で僕の宝物に触れるなど……金細工の偽物めが……ッ!)
自分自身の不甲斐なさへの激怒と、アレクへのドス黒い憎悪が混ざり合い、アゼルの琥珀色の瞳は漆黒の闇よりも昏く濁っていく。
理性をかなぐり捨てた「完璧な王子」は、ただ一人の愛しい少女を取り戻すためだけに狂気へと落ちていく。
(待っていてくれ、アルテナ……! 頼むから、僕を捨てないでくれ……っ! 僕の愚かさを一生かけて謝らせてくれ……!)
(そしてアレク……お前には死以上の絶望を与えてやる。僕のものを奪おうとした報いを、その肉体に刻み込んでやるからな……っ!)
暗闇の先に、うっすらと見えてきた深緑の森。
その奥深くに潜むアレクの別邸へ向け、アゼルは狂乱の焦燥とともに、さらに馬を加速させた――。




