交差する決意と静かな迎撃
重厚なカーテンの隙間から差し込む月光が、静まり返った館の書斎を青白く照らしていた。
一人、革張りのソファに腰掛け、グラスの中の琥珀色の液体を揺らすアレク。その顔には、アルテナに見せていた甘く切ない表情など微塵も残っていなかった。
(……そろそろか。アゼル・フレスベルグのことだ、学園や男爵家を調べ上げ、遠からずこの別邸を突き止めるだろう)
アゼルの頭脳と執着心を、アレクは誰よりも高く評価していた。だからこそ、ここへ辿り着くまでの時間はそう長くかからないと踏んでいたのだ。
だが、アレクの唇には冷ややかな余裕の笑みが浮かぶ。
(来ればいいさ、アゼル。だが……お前がここへ辿り着いた時には、もうすべてが手遅れだ。アルテナの心も、身体も、お前への未練すらも……僕の手で完全に書き換えてやったのだから)
長年、影のように踏みにじられ続けてきた屈辱。その怒りと劣等感が、アルテナを完全に自分のものとしたという歪んだ達成感によって、極上の快感へと変わっていく。
(お前が『完璧な婚約者』として気取っている間に、傷ついた彼女の心に入り込み、僕なしでは生きていけない体に仕立て上げてやった。……自分を救い出してくれた『悲劇のヒーロー』である僕を、あの子は今頃、健気に愛そうと決意しているはずだ)
アルテナが見せた涙、自分に寄せた同情の温もり、握り返してくれた細い手の感触。
それら全てが、アゼルへの完璧な復讐を完成させるためのピースだった。
(お前が絶望に顔を歪め、怒りに狂って僕を殺そうとする顔を見るのが、今から楽しみでならないよ。……さあ、早く奪い返しに来るといい、アゼル)
グラスに残った酒を一気に飲み干し、アレクは昏い毒のような愉悦に浸りながら、静かにその時を待っていた。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
一方、館の二階に用意された豪奢な寝室で、アルテナは一人、窓の外に広がる深い森の闇をじっと見つめていた。
レースのカーテンに手をかけ、胸の前で両手を固く握りしめる。
頭の中に浮かぶのは、アゼル様のことではなかった。自分をこの暗闇から救い出し、傷ついた心に寄り添い、涙ながらに『本当の自分』の孤独を明かしてくれたアレク様の姿だった。
(アレク様は……あんなにも私を必要としてくださっている。私と同じ痛みを抱え、私だけに心を開いてくださった……)
胸の奥で、重く冷たい鍵がカチリと音を立てて噛み合うような感覚があった。
学園でアゼル様の隣にいた頃、常に胸を刺していた息苦しさと圧倒的な罪悪感。どれほど彼を慕い、努力しても、「私のような男爵令嬢は不釣り合いだ」という容赦ない現実が心を削り続けていた。
そしてサロンで見せつけられた、アゼル様とディアドラ様のあまりにも美しく仲睦まじい姿。
(……アゼル様。私はもう、貴方のお邪魔にはなりません。貴方には……ディアドラ様のような、あんなにも誇らしく美しいお方がふさわしいわ)
頬を伝って、一筋の温かな涙が零れ落ちる。
けれど、その涙はもう以前のような自暴自棄の絶望によるものではなかった。
アゼル様への甘く切ない初恋を完全に手放し、過去として心の奥底に置き去るための、最後の落とし子。
(私……もう迷わない。アレク様の元で生きていくわ。アレク様がこれまで受けてきた傷を私が癒やし、アレク様だけを愛して、支えていく……。それが、私という存在を丸ごと必要としてくださったあの方への、私の誓い……)
「必要とされたい」というアルテナの純粋で深い飢え。
自分を救ってくれた『救世主』に応えようとするその一途な決意が、実は自分を二度と出られない鳥籠へと永遠に閉じ込める毒の鎖だとも知らず――。
アルテナは小さく深く息を吐き出すと、過去の未練を完全に断ち切るように、ゆっくりと両瞳を閉じたのだった。




