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誰にでも優しい貴方へ、私は恋を諦める  作者: 迦陵れん


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16/30

濡れた髪と甘美な同情

 湯上がりの甘い湯気が、贅沢に整えられた客室の中にほのかに漂っていた。

 用意されたシルクのナイトドレスに着替え、ドレッサーの前で濡れた髪にぬぐいをあてていた私のもとへ、静かなノックとともにアレク様が入ってきた。


「湯加減はどうだったかい、アルテナ様?」

「あ……アレク様。はい、とても温かくて……こんな素晴らしいお部屋まで用意していただいて、本当にありがとうございます」


 恐縮して小さくなる私に、アレク様は穏やかに微笑み、手にしていたブラシをそっと受け取った。


「僕に任せておくれ」


 手慣れた手つきで、私の髪を優しく梳かしていくアレク様。鏡越しに映る彼の表情はどこまでも柔らかく、その手つきの優しさに、学園での緊張や疲労がじんわりと解けていくのを感じていた。


(……こんなにも甘やかされて、いいのかしら。男爵家での慎ましい生活や、学園で受けてきた冷たい視線が、まるで遠い昔の出来事みたい……)


 しかし、ふとブラシを動かすアレク様の手が小さく止まった。

 鏡の中に映る彼の美しい瞳が、どこか遠くを見るように寂しげに細められる。


「……実はね、アルテナ様。僕は君といると、不思議と心が安らぐんだ。……僕の本当の姿を、君だけには分かってもらえるような気がして」

「アレク様の……本当の姿、ですか……?」


 振り返ろうとした私を、アレク様はそっと肩を押さえて引き留めた。そして、どこか悲しげな苦笑いを浮かべながら、ぽつりと語り始めた。


「僕はね、ずっと……アゼル・フレスベルグの陰を生きてきたんだ」

「え……?」


 思いがけない名前に、私は息を呑む。


「家柄も、学業も、剣術も……何をしても、あの男が一番だ。周囲の大人は皆、僕とアゼルを比べ、『フレスベルグ侯爵家の令息に比べれば見劣りする』と笑った。……どれほど努力しても、僕という人間そのものを見てくれる者なんて、誰一人いなかったんだ」


 アレク様の声が、わずかに震えていた。

 いつも完璧で優雅で、心に余裕があるように見えていた彼が、今にも壊れそうなほど切ない陰りを帯びている。


「伯爵家という重圧の中で、僕は誰の『一番』にもなれず、ただアゼルの引き立て役として生きてきた。……本当に、息が詰まるほど苦しかったよ」


(そんな……アレク様が、そんな辛い思いをされてきたなんて……)


 彼の告白は、私の胸を激しく締め付けた。

 身分が低く、何をやっても『アゼル様にふさわしくない』と陰口を叩かれ続けてきた私。完璧なアゼル様の隣で、常に自分の無力さと存在価値のなさに苛まれ、誰にも届かない孤独に怯えていたあの感覚。


(私と同じだ……。アレク様も、私と同じ暗闇の中で、誰にも言えない痛みを抱えて一人で耐えていらっしゃったんだ……)


 共通の深い傷を見つけたような気がして、胸の奥から激しい愛おしさと親近感、そして抑えきれない同情が溢れ出してきた。

 私を救ってくれた高貴で完璧な貴族様ではなく、自分と同じように傷つき、苦しんできた一人の人間として、彼がいとおしく思えてしまう。


 私はたまらず立ち上がり、アレク様の手を強く握り返した。


「アレク様……! 私は……私はアレク様を誰かと比べたりなんていたしません! 私にとってのアレク様は、私を暗闇から救い出してくださった、世界で一番お優しくて素敵なお方です……!」


 感情のままに叫んだ私の言葉に、アレク様は一瞬目を見開いた。

 そして、感極まったように私をそっと引き寄せ、強く、強く抱きしめてくれた。


「……ありがとう、アルテナ様。君にそう言ってもらえるだけで、僕は救われるよ。……君だけは、僕のことだけを見ていておくれ」

「はい……! はい、アレク様……」


(私を必要としてくれる……。アゼル様には届けられなかった私の想いを、アレク様はこんなにも求めてくださるんだ……)


 アレク様の腕の中で、私はすっかり彼の言葉を信じ切っていた。

 自分と同じ痛みを抱える『唯一の理解者』を見つけたと思い込み、彼の温もりに身を委ねることで、自分自身が彼の仕掛けた美しい蜘蛛の巣の奥深くへと絡め取られていることにも気づかずに。


 ――アルテナの背中に回したアレクの手が、密やかに力を込める。

 髪に顔をうずめたアレクの口元に、冷たく歪んだ嘲笑が浮かんでいた。


(くく……可哀想に。ほんの少し『被害者』のフリをして悲劇のヒーローを演じて見せただけで、こんなにも容易く僕に心を許し、同情の涙を流してくれる……)


 アゼルに対する嫉妬と劣等感は紛れもない本物だ。だが、それを今こうしてアルテナの情と母性本能を揺さぶるための「最高に効く毒薬」として利用することに、アレクは猛烈な快感を覚えていた。


(アゼルの陰で惨めに屈辱を味わってきた僕が、今やあいつの最も愛する女の『救世主』となり、その心を完全に手中に収めている。……いいぞアルテナ、そのまま僕を哀れみ、僕を愛してくれ。お前の無垢な同情で、アゼルへの未練なんて跡形もなく塗りつぶされてしまえ――)


 外は深い夜の闇。

 逃げ場のない豪奢な部屋で、偽りの同情によって固く結ばれたくさりが、静かに少女の心を縛り上げていくのだった。 










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