毒を含んだ甘味と偽りの温もり
月光が窓から差し込む豪奢なダイニングルーム。
長く伸びた磨き上げられたテーブルには、男爵家では年に一度のお祭りでもお目にかかれないような、色鮮やかで絢爛豪華な料理の数々が並べられていた。
銀の食器が燭台の灯りを反射してキラキラと輝いている。
「あの……アレク様。これほどの御馳走、私一人ではとてもいただききれませんわ……。このような高級な食材ばかり、本当に私なんかが口にしてよろしいのでしょうか……?」
フォークを手にしたまま、私は落ち着かない心地で小さく身体を縮めた。
目の前の御馳走はどれも美味しそうで、甘い香りが鼻腔をくすぐる。けれど、自分の身分と置かれた立場を考えると、一口運ぶのすら恐れ多かった。
向かいの席に座るアレク様は、ワイングラスを傾けながら、どこまでも愛おしそうな眼差しで微笑む。
「何を言っているんだい、アルテナ様。君のために用意させたんだから、遠慮なんていらないよ。君が美味しそうに食べてくれる姿を見ることが、僕にとって一番の馳走なんだから」
「アレク様……」
その優しさに胸を熱くしながら、私は出されたカモミールのスープをそっと一口口に含んだ。温かな甘みが広がり、こわばっていた心が少しずつ解けていく。
心が温まると、ふと頭の裏側に、寂しさと切なさが混ざり合った「あの方」の面影が浮かび上がってきた。
「……アゼル様も、いつも私の食べるものや体調を気遣ってくださっていました」
ポツリと漏らしてしまった自分の言葉に、ハッと息を呑む。
(あ……私ったら、助けてくださったアレク様の前で、アゼル様のお話なんて……!)
慌てて取り繕おうとしたけれど、アゼル様との記憶が溢れ出してしまうのを止められなかった。
「アゼル様は……とてもお忙しいお方でしたのに、私が『このお菓子が好き』と一言呟いただけで、翌日にはそのお店のシェフを屋敷に招いてくださったりして……。冷たいお方のように見えて、本当はとても不器用で、お優しいお方だったのです……」
遠い目をして、愛おしそうに過去を振り返る私。
アゼル様に捨てられたはずなのに、思い出の中の彼はいつだって眩しく、私を優しく包み込んでくれていた。
「私……本当にアゼル様のお役に立ちたかった。でも、私では力不足で……」
ぎゅっと膝の上のナプキンを握りしめ、伏せ目になる私。
そんな私を、アレク様は静かに見つめていた。
その穏やかな表情の裏で、アレクの胸中には激しい不快感と、苛立ちが黒く渦巻いていた。
(……ふん。こんな状況になっても、まだあの男の影を追いかけているのか。アゼル、アゼル、アゼル……どこまでも鼻につく男だ)
自分を選ばせたはずなのに、彼女の心の一番深い場所には、今も変わらずアゼル・フレスベルグが居座っている。
その事実が、アレクの長年の劣等感を激しく刺激した。
(……だが、いいさ。傷ついた女の心を奪うのは、僕の得意分野だ。アゼルへの想いごと、僕の毒で塗り替えてあげる……)
アレク様はすっと立ち上がると、私の隣へと歩み寄り、椅子の横に優しく屈み込んだ。
「アレク様……?」
驚く私を見上げるアレク様の瞳には、切なげな、けれどどこか熱を帯びた光が宿っていた。
彼は私の細い指先をそっとすくい上げ、自分の頬へと寄せる。
「……嫉妬してしまうな」
「え……?」
耳を疑うような言葉に、私の息が止まる。
アレク様は困ったように眉を下げ、甘く、胸を締め付けるような声で囁いた。
「僕の前で、そんなに愛おしそうに他の男の話をされたら……僕の心がどれだけ痛むか、君は分かっていないんだろう? アルテナ様」
「あ……あの、アレク様、私はただ……っ」
「分かっているよ。君がまだアゼルを忘れられないことも、深く傷ついていることも。……でもね、僕だって男なんだ。大好きな女性が目の前で元婚約者を想って涙ぐむのを見るのは、すごく切ないんだよ」
頬に触れるアレク様の手の温もり。
耳元で囁かれる、「大好きな女性」というストレートで甘やかな告白。
(私……私なんかが……アレク様のような素晴らしいお方に、そんな風に思っていただけているの……?)
今まで一度も「言葉」で愛を囁いてくれたことのないアゼル様。
それに対して、アレク様は惜しみなく甘い言葉を与え、私という存在を丸ごと肯定してくれる。
「アゼルに貰えなかった温もりも、言葉も、全部僕が与えてあげる。だから……少しずつでいい。僕のことだけを見てくれないかい……?」
熱っぽい眼差しで見つめられ、私は顔が熱くなるのを抑えられなかった。
アゼル様への未練と罪悪感。そして、目の前で自分を愛おしそうに乞うアレク様への甘美な依存心。
2つの感情の狭間で、私の心はガラガラと音を立てて揺らぎ始めていた。
(……アゼル様は、もう私を必要としてくださらない。でも……アレク様は……)
私を閉じ込める鳥籠の扉が、また一つ、甘い毒によって静かに施錠されたことに、私はまだ気づいていなかった――。




