歪む足跡と偽りの報せ
夜の静寂を破り、激しい馬蹄の音が男爵家の屋敷へと走り抜ける。
馬から飛び降りたアゼルの表情には、かつて社交界で「完璧な貴族」と讃えられた面影など欠片もなかった。乱れた黄金の髪、青ざめた肌、そして琥珀色の瞳に宿る暗く昏い執着と焦燥。
(アルテナ……! 頼む、家にいてくれ……っ! 僕の誤解を解かせてくれ……!)
アゼルは門を押し開けると、迷うことなく男爵家の玄関へと詰め寄り、重厚な扉を激しく叩いた。
「アルテナ! アルテナ、そこにいるんだろう!?」
夜遅くの突然の訪問と、フレスベルグ侯爵家の令息であるアゼルの尋常ではない様子に、応対に出たアルテナの父親――男爵は顔を蒼白にして震え上がった。
「あ、アゼル様……!? 一体このような夜更けにどうされたのですか……?」
アゼルは男爵の肩を強く掴み込み、射殺さんばかりの眼差しで問い詰める。
「アルテナだ! アルテナは戻っているか!? 頼む、会わせてくれ……!」
「え……? い、いえ……アルテナはまだ戻っておりませんが……」
「戻っていない……!?」
アゼルは息を呑み、血の気が引いていくのを感じた。
手の中にある『婚約解消の手紙』が重く湿り気を帯びていく。彼女が家にも戻っていないということは、あのままアレクの馬車で連れ去られたということだ。
(僕のせいだ……。僕が『完璧な婚約者』として立ち振る舞うことばかりに囚われ、彼女の傷つきやすさに気づいてあげられな
かったから……! 彼女の居場所を、僕自身の手で奪ってしまった……!)
胸を刺し穿つような自責の念。
だが、男爵が首をかしげながら口にした次の言葉が、アゼルの胸中で絶望を灼熱の怒りへと変えた。
「ど、どうされたのですかアゼル様? 実は先ほど、アレク・グロスタール様から使いの者が参りまして……」
「……なに?」
アゼルの声が、一瞬で氷点下へと凍りついた。
「『アルテナ様は学園での過密な日々に少しお疲れの様子でしたので、我がグロスタール家の別邸にて数日お休みいただくことになりました。心配なさらずお任せください』と……。アレク様が親切に庇護してくださっていると伺い、妻ともども胸を撫でおろしていたところなのですが……」
「……ッ!!!」
その言葉を聞いた瞬間、アゼルの脳内で何かがぶちりと音を立てて弾け飛んだ。
(お疲れ……? 疲労だと……!? 違う……! 傷つき、逃げ場を失った彼女の隙に付け込んで、僕から引き離すために閉じ込めたんだ……!)
アレクの浅薄で陰湿な企みが、はっきりと見えた。
両親にすら「親切な庇護」と偽って安心させ、アルテナを完全に外の世界から孤立させようとしている。
アルテナが今、どれほど心細い思いをしているか。身を引こうとする健気な彼女の心に毒を吹き込み、自分の籠に閉じ込めようとするアレクへの激怒が、アゼルの全身を駆け巡る。
(許さない……。僕の不器用さで彼女を泣かせたことも、アレクが僕の宝物にその汚い手で触れようとしていることも……絶対に許さない……!)
だが、直後に冷たい事実がアゼルの思考を殴りつけた。
(……待て。グロスタール家の別邸がどこにあるのか、僕は正確な場所を知らない……!)
アレクが隠れ家として使っている別邸。公にはされていないその場所を、今から探し出すには時間がかかりすぎる。その間にも、アルテナはアレクの甘い毒に侵され、自分の元から離れていってしまうかもしれない――。
強烈な焦燥感がアゼルの視界を赤く染めかける。
……しかし、アゼルは狂気じみた冷徹さで己の思考を研ぎ澄ませた。
(落ち着け……考えろ。アレクの行動パターン、グロスタール家の領地と密友関係、裏で繋がっている貴族のネットワーク……。僕の情報を総動員すれば、隠れ家などすぐに炙り出せる)
社交界の頂点に立ち、あらゆる情報を握ってきた「フレスベルグ侯爵家」の権力と、アゼル自身の並外れた頭脳。
それを今、たった一人の少女を取り戻すためだけに、全開で解き放つ。
「あ、アゼル様……? お顔色が……」
困惑する男爵の手を振り払い、アゼルは静かに背を向けた。
「……男爵。アルテナは僕が連れ戻す。……二度と、誰の手にも渡さない」
「えっ……? アゼル様、一体何を――」
男爵の呼びかけも耳に入らず、アゼルは再び漆黒の馬へと飛び乗った。
手綱を握りしめる手に、爪が食い込んで血が滲む。
(どれほど隠そうと無駄だ、アレク。地の果てまで追い詰め、その隠れ家ごと踏み潰してやる……)
(待っていてくれ、アルテナ。今すぐ迎えに行く……。君を閉じ込める籠も、君を惑わす男も、すべて僕が粉々に壊してあげるからね……)
夜の闇の中、アゼルはまず「情報」を吐かせるための協力者(あるいは脅迫対象)の元へ向け、疾風のごとく馬を走らせた――。




