走破する焦燥と仕組まれた噂
「ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
夕闇に包まれた校舎の回廊。かつて一度たりとも乱れたことのなかったアゼルの優雅な足取りは失われ、静寂を切り裂くのは自身の荒い息遣いだけだった。
手の中には、サロンでディアドラから強引に取り戻した、あの小さく震える文字で書かれた『婚約解消の手紙』が握りしめられている。
(僕のせいだ……僕が『完璧な婚約者』であろうとするあまり、君にどれほどの孤独と不安を強いていたのか……っ!)
胸の奥を激しい後悔の刃が抉る。
アルテナを守るため、自分を誇らしく思ってもらうために積み上げてきた優等生の仮面。それが裏目に出て、彼女に「義務感で一緒にいる」「ディアドラの方がふさわしい」とまで思い詰めさせてしまった。
不器用で、身勝手で、けれど誰よりも愛おしい彼女を追い詰めたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
(どこにいるんだ、アルテナ……頼むから、僕に謝らせてくれ……君がいない世界なんて、僕には何の意味もないんだ……!)
血眼になって裏門へと続く回廊を疾走していた――その時だった。
「……あ、あら? アゼル様……?」
物陰から現れたのは、扇子を手に持ったマヌエラ・リーガン伯爵令嬢だった。
アゼルは足を止め、獲物を射抜くような鋭く暗い眼差しでマヌエラを捉えた。
「リーガン伯爵令嬢……。アルテナを見かけなかったか」
掠れた、けれど恐ろしいほど冷たい低音。
だが、アゼルのただならぬ様子に一瞬気圧されつつも、マヌエラは待ってましたとばかりに勝ち誇ったような嫌な笑みを浮かべた。
「ふふ、あのアホな男爵令嬢のことですの? ええ、見かけましたわ。……先ほど、グロスタール様――アレク様の馬車に乗って、お帰りになりましたわよ」
「……何?」
アゼルの琥珀色の瞳から、一瞬にして光が消え去った。
「サロンでアゼル様とディアドラ様の仲睦まじいお姿をご覧になって、ご自身には勝ち目がないとお悟りになったのでしょうね。あんな身程知らずな女、アレク様におすがりして逃げ出すのが関の山ですわ」
マヌエラは煽るように扇子をパタパタと動かし、アゼルに歩み寄る。
「あのような浅ましい女のことなど、もうお忘れになりなさいませ。アゼル様もようやく、あの足枷から解放されたのですわ! これからはわたくしやディアドラ様のように、お立場にふさわしいご令嬢と――」
「黙れ」
「……え?」
短く切り裂くような一言に、マヌエラの手が止まる。
アゼルはゆっくりと歩み寄ると、マヌエラを見下ろした。
そこにいたのは、社交界で誰もが憧れる完璧な王子様ではない。愛しい宝物を汚され、むき出しの殺意と絶望を滾らせた本物の怪物だった。
「ひ……っ!?」
「僕のアルテナを……浅ましいと言ったのか?」
「あ……あのアゼル様……わ、わたくしはただ、アゼル様のために……っ」
あまりの威圧感に、マヌエラの顔から余裕が消え去り、喉がヒッと鳴る。
アゼルは冷酷な瞳で彼女を射殺すように見つめたまま、低く恐ろしい声で囁いた。
「お前たちが裏で彼女にどんな口をきいていたか、知らないと思うか? リーガン伯爵家の不正の証拠、いつでも国王陛下にお見せできる状態にある。……僕のアルテナにこれ以上不快な思いをさせたら、お前の家ごと社交界から消す」
「ヒッ……! ご、ごめんなさい……っ! ごめんなさいアゼル様……っ!」
マヌエラは恐怖のあまりガタガタと膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。
だが、アゼルは泣きじゃくるマヌエラなど視界にも入れず、狂おしい激怒と後悔に胸を焼かれていた。
(アレク……っ! 傷ついた彼女の心に毒を吹き込み、僕から引き離したのか……!)
自分の不器用さへの激しい後悔が、一瞬にしてアレクへの凄惨な殺意へと塗り替わる。
(絶対に許さない……。アルテナに触れたその手を、言葉を、僕から奪おうとした愚かさを、骨の髄まで後悔させてやる……!)
腰を抜かして震えるマヌエラを冷たく踏み越え、アゼルは夜の暗闇が広がる街道へ向け、疾風のごとく駆け出していった――。




