囚われの館と囁く蜘蛛糸
夜の静寂を切り裂き、激しく揺れながら走り続ける馬車。
流れる車窓の風景は次第に街の明かりを失い、深い森の黒々とした闇へと呑み込まれていく。
(……どこへ向かっているのかしら……?)
座席に深く身を沈めたまま、私は小さく息を潜めて車窓の外を伺った。
学園の寮や実家である男爵家の屋敷へ向かう道とは、明らかに方角が違う。
アゼル様に捨てられたという途途方もないショックと失意で麻痺していた頭が、冷気によって冷やされ、少しずつ現実の感覚を取り戻していく。それに伴い、胸の奥で不気味な違和感と嫌な予感が芽生え始めていた。
「アレク様……あの、私はどこへ向かっているのですか……?」
「ああ、心配しないで、アルテナ様」
向かいに座るアレク様は、変わらぬ温和で甘やかな微笑みを浮かべ、包み込むように私の手を握り直した。
けれど、その手はとても温かいはずなのに、なぜか私の指先は氷のように冷たくなっていく。
(どうして……こんなにも温かい手なのに、胸のざわつきが収まらないんだろう。アレク様は私を助けてくださったのに……)
「君を傷つける者たちの手が届かない場所さ。僕の伯爵家が管理している森の別邸だよ。……あそこなら誰も君を脅かさない。君はただ、僕の庇護の下で静かに休んでいればいいんだ」
「別邸……? ですが、急にお邪魔するわけには……それに、父や母も心配しますし……」
「大丈夫、男爵家には僕から連絡を入れておくからね。君が心身ともに回復するまで、僕が責任を持って守るよ」
「ですが……あのように大勢の前で連れ出されては、アレク様のご体面や、グロスタール伯爵家にもご迷惑が……っ」
申し訳なさと焦りで声を震わせる私。
(もし私のせいでアレク様まで社交界で陰口を叩かれることになったら……そんなの、アゼル様の時と同じじゃない。私はまた、誰かの足枷になってしまうの……?)
自分という存在が誰かを傷つけ、迷惑をかけているという万能の罪悪感が、絶え間なく心を削っていく。
私を見つめるアレク様は、困ったような、けれどどこまでも愛おしそうな苦笑いを浮かべた。
「君は本当に健気で優しいね、アルテナ様。こんな状況になっても、僕の立場を気にしてくれるなんて。……でもね、僕の心配なんていらないんだよ。君を守るためなら、僕の名声なんてどうなったって構わない」
そう言ってアレク様は、座席を移動して私のすぐ隣に腰を下ろした。
すっと身体が近づき、彼の纏う甘い香水の香りに包まれる。
「あ……アレク様……?」
「君は今まで、ずっと一人で耐えてきたんだろう? あの高貴で完璧な男の隣で、自分の身分を責め、影で蔑まれながら……本当は壊れてしまいそうだったはずだ」
アレク様の長い指先が、私の頬に触れ、零れた涙の跡をそっと撫で上げた。
その手つきは壊れ物を扱うかのように優しく、かけられる言葉は私の痛む心を正確に射抜いてくる。
「私……私は、ただ……アゼル様のお邪魔に……重荷になりたくなくて……」
(アゼル様の完璧な未来の中に、私という不純物を混ぜたくなかった。だから……身を引こうとしたのに。あんな風に冷たく切り捨てられる姿を目の当たりにして、私は……どうすればよかったの……?)
「分かっているよ。君がどれほどアゼルを想い、どれほど傷ついたか。……でもね、アルテナ様。自分を害する者にまで優しくする必要はないんだ。君のその無垢で美しい心は、もっと君を大切にしてくれる人間のために使うべきなんだよ」
「私を……大切に……?」
「そうだよ。……僕なら君を一人で泣かせたりしない。身分の差なんて気にせず、僕の腕の中で、世界で一番大切に愛してあげる。君はもう、誰も恐れなくていい。僕だけに縋って、僕だけを頼りにしてくれればいいんだ」
耳元で低く囁かれる甘い言葉。
それは傷ついた私の心にじんわりと染み渡る毒薬のようだった。
(私は……アゼル様に要らないと言われた。でも、アレク様は私を必要としてくれている……?)
断らなければいけない。実家に帰らなければいけない。頭ではそう分かっているはずなのに、絶望の淵で差し出された『必要とされる喜び』に縋りつきたくなる。
自分を二度と出られない檻へ閉じ込めるための甘い罠だと気づけないまま、私はその温もりに縋りたい誘惑と、心の底から湧き上がる正体不明の恐怖の間で、息も絶え絶えに激しく胸を波打たせていた。
――だが、怯えて身をすくませるアルテナの肩を優しく抱き寄せながら、アレクの胸中で狂い咲いていたのは、恐ろしいほどの優越感と加虐的な欲望だった。
(……ああ、素晴らしい。なんて愛らしく、可憐に揺れているんだろう。僕の言葉一つで顔色を変え、僕の温もりに縋ろうとしている……)
アレクは完璧な紳士の仮面の下で、冷徹な勝利の味を深く噛み締めていた。
常に自分の先を行き、学園中で称賛されていたアゼル・フレスベルグ。あの鼻持ちならない男が命より大切に囲い込もうとしていた宝物が、今こうして僕の腕の中で恐怖と絶望に震えながら、僕の顔色を伺っている。
(アゼルのあの歪んだ愛情に押し潰されそうになっていた小鳥が、今は僕の毒に染まりかけている。最高じゃないか。そのまま僕なしでは生きていけない体に仕立て上げてやる)
アゼルに対する長年の劣等感が、アルテナを「自分の所有物」とすることで、昏い万能感へと昇華されていく。
(アゼルに傷つけられ、僕に庇護されることでしか息ができない鳥籠。この別邸に着けば、もう君に外の世界も、アゼルの名前すら必要なくなるんだからね……)
「大丈夫……僕がずっと、君の側にいてあげるからね」
アレクは密かに黒く歪んだ笑みを浮かべ、逃げ場のない馬車の中で、じわじわとアルテナの心から逃げ場を奪っていくのだった――。




