第四章 綻びの森
綻びの調査依頼は、町から北東に半日ほどの距離にある「ヴァルデの森」が目的地だった。
一年ほど前にこの森の中に綻びが発生し、以来、森は瘴気に侵されて危険地帯となっている。冒険者ギルドは定期的に綻びの状態を調査し、拡大の有無を確認する必要があった。
「過去の調査報告では、この綻びは緩やかに拡大しています。現在の大きさはおよそ三メートル。半年前は二メートルでした。このペースで拡大が続けば、数年以内にブランデルの町に影響が及ぶ可能性があります」
出発前にエルザが説明してくれた調査資料には、そう記されていた。
「最新の状態を確認し、周辺の魔物の分布と瘴気の範囲を記録してきてください。くれぐれも、綻びに直接触れないように」
「わかりました」
柏木とリーナは、早朝にブランデルを出発した。
ヴァルデの森は、近づくにつれて様相が変わっていった。
森の外縁部は普通の森と変わらない。緑の木々が茂り、鳥の声が聞こえる。しかし奥に進むにつれて、異変が目立ち始めた。
木の葉が紫がかった色に変色している。地面に生える草が枯れ、灰色になっている場所がある。空気にかすかな異臭がある。甘いような、腐ったような、形容しがたい匂いだ。
「瘴気の影響ですね」
リーナが表情を引き締めて言った。
「父が生きていた頃は、この森にはよく薬草を採りに来ていました。綺麗な森だったのに……」
柏木は【鑑定眼】で周囲を観察した。瘴気の濃度を視覚的に捉えることができる。森の外縁部では薄い紫色のもやが地面を這う程度だが、奥に進むほど濃度が上がっていく。
「瘴気の濃度が上がっている。ここから先は気をつけよう」
二人は慎重に森の奥を目指した。
途中、瘴気に汚染された魔物と二度遭遇した。一度目は瘴気鼠の群れ——通常の鼠の三倍ほどの大きさで、紫色の目をした不気味な獣だ。数は多いが一匹一匹は弱く、リーナが難なく掃討した。
二度目は瘴気熊だった。体長二メートルを超える巨体に、紫色の模様が全身に浮かんでいる。
「デカい……」
柏木が思わず呟いた。
「リョウイチさん、下がっていてください」
リーナが「暁光」を構えた。しかし瘴気熊は鈍重に見えて意外に素早く、リーナが距離を詰める前に巨大な前脚を振り回してきた。
リーナは横に跳んで回避したが、爪が木の幹を削り取った。とんでもない威力だ。
「リーナ、右前脚に古傷がある。そこが弱点だ」
柏木の【鑑定眼】が弱点を捉えていた。右前脚の付け根に、過去の怪我が完治していない箇所がある。
「わかりました!」
リーナは瘴気熊の右側に回り込み、右前脚が振り下ろされた瞬間にその付け根を突いた。「暁光」の刃が深く食い込み、瘴気熊は苦痛の咆哮を上げた。
もう一撃。リーナが素早く剣を引き、今度は首筋に斬りつけた。瘴気熊はゆっくりと倒れ、そのまま動かなくなった。
「ふぅ……。大きいのは怖いですね」
リーナが額の汗を拭った。
「よくやった。一人であの大きさの相手は大変だろう」
「リョウイチさんの鑑定があるから、効率よく戦えるんです。弱点がわかるのと知らないのとでは大違いです」
二人は休憩を挟みながらさらに奥へ進んだ。
やがて、森の中に不自然な空間が現れた。
木々が円形に枯れ果て、直径二十メートルほどの荒れ地になっている。地面は灰色に変色し、草一本生えていない。そして、その中心に——綻びがあった。
空中に浮かぶ、紫色の亀裂。ブランデルの町で見たものより一回り大きい。長さは三メートル半ほどか。亀裂の端からは黒い霧が絶えず漏れ出し、周囲の空気を汚染している。
柏木は安全な距離を保ちながら、【鑑定眼】を発動した。
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対象:空間の綻び(中規模)
損傷度:85%
状態:拡大中(月あたり約8cm)
瘴気放出量:中程度
修繕難易度:修繕術 Lv.7以上
備考:内部に異常なエネルギー反応あり
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修繕術レベル七。現在の柏木はレベル四だ。まだ届かない。しかし、前回の町の綻びを鑑定したときに表示されたレベル八よりは低い。綻びにも個体差があるのだろう。
「リョウイチさん、どうですか?」
「今のレベルでは直せない。でも、あと少しだ。レベルが七になれば、この綻びは修繕できる可能性がある」
柏木は調査記録を取りながら、綻びの構造を観察した。
空間の裂け目——その言葉通り、まるで布が裂けたかのように空間が割れている。裂け目の向こう側には暗い空間が広がっており、そこから瘴気が溢れてきている。
柏木は設備保全員の目で、この「故障」を分析した。
空間を一つの「構造物」として見る。綻びは「亀裂」だ。亀裂が入る原因は、構造物に過度な応力がかかったか、材料の劣化が進んだか、あるいは外的な衝撃があったか。
この世界の「空間」に亀裂が入っている。三十年前から各地で発生している。つまり、三十年前に何かが起きて、世界の構造が弱くなった——あるいは、何かの力が世界に「応力」を加え続けている。
「この綻びは、ただの亀裂じゃない」
柏木は呟いた。
「え?」
「俺は元々、工場の設備を直す仕事をしていた。機械に亀裂が入るのは、必ず原因がある。この綻びにも、原因があるはずだ。原因を突き止めなければ、たとえ直しても、また別の場所に綻びが現れる」
リーナは柏木の横顔を見つめた。この人は本気だ。ただ綻びを直すだけでなく、根本的な原因を解明しようとしている。
「リョウイチさん、父が——最後に出かけたとき、こう言っていました。『綻びの向こうに何かがいる。何かが、世界を引き裂こうとしている』って」
柏木は振り返った。
「向こうに、何かがいる……」
綻びの裂け目を見つめた。暗い空間の奥で、何かが蠢いているような気がした。目の錯覚かもしれない。しかし——。
そのとき、綻びが脈動した。
紫色の亀裂が、心臓のようにドクンと震えた。瘴気の放出量が一瞬だけ増大し、黒い霧が渦を巻いた。
「下がれ!」
柏木はリーナの腕を掴み、後方に引っ張った。
綻びから、何かが這い出してきた。
黒い霧が凝縮するように集まり、人型をとった。二メートルほどの、影のような存在。顔はなく、全身が揺らめく黒い霧で構成されている。
これまで見てきた瘴気の魔物とは、明らかに次元が違った。
【鑑定眼】が反応する。
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対象:虚影の兵士
種別:綻びの向こう側の存在
危険度:Cランク相当
弱点:光属性攻撃、修繕術による瘴気浄化
備考:実体を持たない。物理攻撃は効果が限定的。
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Cランク相当。Dランクに上がったばかりの柏木たちにとって、格上の敵だ。
「リーナ、あれは物理攻撃が効きにくい。でも、『暁光』なら——」
「瘴気耐性がありますものね」
リーナは剣を構えた。しかし、その手が微かに震えていた。無理もない。父を失ったかもしれない綻びから現れた存在だ。
虚影の兵士が動いた。影の腕が伸び、鞭のようにしなって柏木とリーナに襲いかかった。
二人は左右に分かれて回避した。影の腕が地面を打ち、灰色の土が抉れた。
リーナが斬りかかった。「暁光」の刃が虚影の兵士の胴を薙ぐ。瘴気耐性を持つミスリルの刃は影の身体に食い込み、虚影の兵士が苦悶の声を上げた——声というより、空気が軋むような不快な音だ。
しかし、斬った箇所はすぐに霧が集まって修復された。
「斬っても戻る……!」
「弱点は瘴気の浄化だ。俺が浄化して実体化させる。そのタイミングで斬れ」
柏木は虚影の兵士に向かって走った。戦闘は素人だ。しかし、やるしかない。
虚影の兵士の影の腕が柏木に向かって振り下ろされた。柏木は身を屈めてかわし——かわしきれなかった。腕の先端が肩を掠め、焼けるような痛みが走った。
しかし、その一瞬で柏木は虚影の兵士の「身体」に触れた。
左手を影の胴に押し当て、【修繕術】を発動する——ただし、対象は虚影の兵士ではない。虚影の兵士が纏っている「瘴気」を修繕の対象とした。
瘴気は、空間の歪みから生まれた異常なエネルギーだ。それを「正常な状態」に戻す——つまり、浄化する。
金色の光が柏木の手から溢れ、虚影の兵士の身体に広がった。
影を構成していた黒い霧が薄れ、その下から——固い殻のような灰色の実体が現れた。
「今だ、リーナ!」
「はい!」
リーナが全力で踏み込み、「暁光」を振り抜いた。
瘴気を失い実体化した虚影の兵士を、ミスリルの刃が一刀両断した。
兵士は二つに裂け、黒い粒子となって霧散した。後には、小さな紫色の結晶が一つだけ残された。
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アイテム獲得:瘴気の結晶(小)
効果:瘴気エネルギーの凝縮体。
魔法触媒として使用可能。
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柏木は膝をついた。魔力を大量に消費し、肩にはまだ焼けるような痛みがある。
「リョウイチさん! 大丈夫ですか!」
リーナが駆け寄ってきた。
「大丈夫。ちょっと魔力を使いすぎただけだ」
「肩、怪我してます……!」
リーナは携帯していた包帯で柏木の肩を手当てした。瘴気の影響を受けた傷だが、浅い。
「綻びの向こうに何かがいるというのは、本当だったな」
柏木は紫色の結晶を掌の上で転がしながら言った。
「虚影の兵士——綻びの向こう側の存在。あれが一体だけとは限らない。綻びが拡大すれば、もっと強い存在が出てくる可能性がある」
リーナの顔が青ざめた。
「父は……あれと戦ったのでしょうか」
「わからない。だが、お前の父さんが言っていたことは正しかった。綻びは自然にできる亀裂じゃない。何かが、意図的に世界を裂こうとしている」
柏木は立ち上がり、綻びを見つめた。
今はまだ、直す力がない。しかし、いつか必ず——。
「帰ろう。調査の報告をしなきゃならない。それと、この結晶のことも」
二人は森を後にした。
帰り道、柏木は紫色の結晶を手のひらで転がしながら歩いた。
結晶は冷たく、かすかに脈動しているように感じた。瘴気のエネルギーが凝縮されたもの。この小さな結晶の中に、異世界からの力が封じ込められている。
リーナは道すがら、かつてこの森に家族で来たことを話してくれた。
「春になると、森の入口に白い花が咲くんです。母が生きていた頃は、三人でよく花を摘みに来ました。母が亡くなってからは、父と二人で。父は花のことはよくわからない人でしたけど、私のために付き合ってくれて」
「いい思い出だな」
「はい。この森が瘴気に侵されて、もう花は咲かなくなりました。でも——いつか綻びが直ったら、また白い花が咲くかもしれません」
「咲くよ。必ず」
リーナは嬉しそうに笑った。
柏木はその笑顔を見て、静かに決意を固めた。この少女が笑える世界を守る。そのために、できることをする。
帰路、柏木は考え続けていた。綻びの向こう側に「何か」がいる。それが世界を引き裂こうとしている。この情報は、町のレベルで収まる話ではない。もっと上——この国の中枢に届ける必要がある。
しかし、辺境のDランク冒険者の報告が、果たして国に届くのだろうか。
ブランデルに戻り、ギルドに報告書を提出した。虚影の兵士との遭遇と瘴気の結晶の存在は、エルザを驚かせた。
「虚影の兵士……文献でしか見たことがありません。綻びの向こう側の存在が、こちらに出てきたということですか」
「ああ。この綻びは、ただ拡大しているだけじゃない。向こう側から、何かが来ようとしている」
エルザは報告書を大切にまとめ、封蝋を施した。
「この報告は、ギルド本部に速達で送ります。王都の綻び研究機関にも伝わるはずです」
「頼みます」
報酬の銀貨を手にしながら、柏木はこの世界の経済について考えた。
銀貨一枚が、だいたい元の世界の千円くらいの価値があるらしい。つまり銀貨五枚で五千円。二人で分けて二千五百円ずつ。一日がかりの仕事としては安いが、この世界では「銀貨二枚半あれば三日は食える」とのことなので、まずまずだろう。
物価は安い。宿代が銀貨一枚、赤猪亭のシチューが銅貨五枚(銀貨一枚は銅貨十枚に相当する)。柏木の場合は住居がガルドの鍛冶場の二階なので家賃はかからない。鍛冶場での修繕の報酬は別途ガルドから支払われるので、冒険者の依頼報酬はそのまま貯蓄に回せる。
前の世界では、毎月の家賃と生活費に追われ、貯金もほとんどできなかった。こちらの方がよほど余裕のある暮らしだ。
——世界を移動しただけで生活水準が上がるとは。リストラされた甲斐があった。
自虐的な考えだったが、柏木の口元には笑みが浮かんでいた。
帰り際、エルザが柏木を呼び止めた。
「柏木さん。来週、ある方がこの町を訪れる予定です」
「ある方?」
「王都から。綻びの研究をしている魔法使いです。柏木さんのことを、ぜひ紹介したいと思っています」
柏木は頷いた。王都の研究者。綻びについてもっと知ることができるかもしれない。
その夜、柏木は鍛冶場の二階でベッドに横になりながら、ここ数週間のことを振り返った。
異世界に来てから、二ヶ月が経っていた。
最初は右も左もわからず、ただ流されるように日々を過ごしていた。しかし今は違う。この町に居場所があり、仕事があり、仲間がいる。
ガルドの苦い茶で目を覚まし、朝から壊れた品物を修繕する。リーナと依頼を受けて町の外に出かけ、魔物と遭遇すれば彼女が戦い、柏木は鑑定眼で支援する。夕方には赤猪亭でシチューを食べ、トーマスやガルドと話をする。夜はこの部屋で、二つの月を見ながら眠りにつく。
前の世界とは何もかもが違うのに、不思議と馴染んでいた。
いや——前の世界よりも、馴染んでいるかもしれない。
東京のワンルームアパートで、コンビニ弁当を一人で食べていた日々。休日に何をするでもなく、テレビをつけっぱなしにして寝転がっていた日々。あの生活には、「生きている」という実感がなかった。
ここでは、毎日が実感の連続だ。
壊れたものを直す。直したものが誰かの役に立つ。感謝される。次の壊れたものを直す。その循環が、柏木に生きている実感を与えていた。
——悪くない。
柏木は目を閉じた。明日もまた、壊れたものを直す一日が始まる。
ブランデルでの生活は、静かに、しかし確実に動き始めていた。




