第五章 王都の魔法使い
約束の日、一台の馬車がブランデルの門をくぐった。
王都の紋章が入った黒塗りの馬車で、御者のほかに護衛の騎士が二名ついていた。辺境の小さな町に王都の馬車が来るのは珍しいことで、住人たちが物珍しそうに集まってきた。
馬車から降りたのは、柏木が予想していた人物とは少し違っていた。
二十代後半の女性。腰まで届く黒髪を一つに結び、深い藍色のローブを纏っている。切れ長の目に、知性的な光を湛えた瞳。左手には杖ではなく、分厚い革表紙の本を抱えていた。
「セリア・ヴァンデールと申します。王立魔法学院の研究員で、綻びの研究を専門としています」
流暢だが堅い口調で、セリアは名乗った。
「ギルドからの報告書を読みました。虚影の兵士と交戦し、さらにその瘴気を浄化して実体化させたと。にわかには信じがたい内容でしたので、直接確認に参りました」
エルザに案内されてギルドの会議室に入ると、セリアは柏木の前に座り、まっすぐに目を見た。
「柏木遼一さん。修繕師というクラスは、我が学院のクラスデータベースにも存在しません。あなたは一体何者ですか」
単刀直入な質問だった。この女性は回りくどいことが嫌いらしい。
柏木は少し迷ったが、正直に答えることにした。嘘をついてもどうせばれるだろう。
「俺は、この世界の人間じゃありません。別の世界から来ました」
セリアの目が一瞬だけ見開かれたが、すぐに冷静な表情に戻った。
「異界人。文献には記録がありますが、実例を見るのは初めてです。最後に異界人が確認されたのは、およそ二百年前。その人物は『創造師』というクラスを持っていたと記録されています」
「詳しいですね」
「研究者ですから。特に綻びに関連する文献は、ほぼ全て読んでいます。異界人と綻びの関連性については、いくつかの仮説が存在します」
セリアは本を開き、付箋の挟まれたページを示した。精密な図表と、柏木には読めない文字が並んでいる。
「綻びとは、次元の境界に生じた亀裂です。異界人がこの世界に来るのも、綻びの向こう側から存在が侵入するのも、原理としては同じ——次元の壁が薄くなり、穴が開くことで起きる現象です」
「つまり、俺がこの世界に来たのも、綻びの一種だと?」
「その可能性は高い。あなたが触れたという光球は、おそらく極小の綻びだったのでしょう。ただ、通常の綻びが瘴気を放出するのに対し、あなたを召喚した綻びは——」
セリアは言葉を切り、考え込んだ。
「もしかすると、世界が自ら修繕者を呼び寄せたのかもしれません」
「世界が?」
「仮説に過ぎませんが。綻びによって傷ついた世界が、自己修復のために、修繕の能力を持つ存在を異界から呼び寄せた——そう考えると、あなたのクラスが修繕師であることの説明がつきます」
柏木は黙って考えた。世界に呼ばれた。それが事実だとすれば、彼がこの世界にいる意味は明確だ。
「綻びの原因は何なんですか」
「それが最大の謎です。三十年前に突然発生し、以来拡大を続けている。自然現象なのか、何者かが意図的に引き起こしているのか——後者の可能性を示唆する研究者もいます。あなたの報告にあった虚影の兵士の存在は、後者の仮説を強く支持するものです」
セリアの目に、研究者特有の情熱が宿った。
「柏木さん。お願いがあります。あなたの修繕術を、学術的に調査させていただけませんか。綻びのメカニズムを解明する上で、修繕術の原理を理解することは極めて重要です」
「調査って、具体的に何をするんですか」
「まず、あなたの修繕術が発動する際の魔力パターンを計測します。次に、瘴気を浄化するメカニズムを分析します。最終的には、修繕術を応用した綻びの封印——あるいは修繕の方法を確立したい」
「俺の修繕術で、綻びを直せる可能性があると?」
「可能性はあります。少なくとも、現在の魔法体系では綻びに対処する手段がありません。しかし、あなたの修繕術は瘴気を浄化し、壊れた空間構造を修復できるかもしれない。これは、三十年間誰も成し得なかったことです」
柏木は窓の外に目をやった。町の北側に、あの紫色の綻びが見える。
「わかりました。協力します」
「ありがとうございます。では、早速——」
セリアが立ち上がろうとしたとき、会議室の扉が開いた。
「セリア先生! 大変です!」
馬車の護衛騎士の一人が、息を切らして駆け込んできた。
「町の北の綻びが——急速に拡大しています!」
外に出ると、状況は一目でわかった。
町の北側にあった紫色の亀裂が、明らかに大きくなっていた。昨日まで五メートルほどだったものが、今は七、八メートルに拡大している。瘴気の放出量も増え、黒い霧が目に見える勢いで周囲に広がっていた。
「まずい。このペースで拡大すれば、数時間以内に町の居住区に瘴気が到達する」
セリアが厳しい表情で分析した。
町の住人がざわめいている。トーマスが駆けつけ、住民を南側に避難させ始めた。
「セリアさん、魔法で止められないのか」
「封印の魔法はあります。しかし効果は一時的で、せいぜい数日しか持ちません。根本的な解決にはなりません」
「数日でいい。時間を稼いでくれ」
柏木の言葉に、セリアは目を見開いた。
「まさか、あなた——」
「直すのは俺の仕事だ」
柏木は綻びに向かって歩き出した。リーナが即座に後に続く。
「リョウイチさん、でもレベルが——」
「町の綻びの修繕には、レベル八が必要だった。正直、今のレベル五じゃ足りない。でも、やれるところまでやる。完全に直せなくても、拡大を食い止められるかもしれない」
柏木は綻びの前に立った。
紫色の亀裂が、眼前に迫る。瘴気の圧力が肌を刺すようだ。目の前で空間が軋み、亀裂の端から黒い霧が噴き出している。
セリアが後方で杖を構えた——いや、本を開いた。本のページから青い光が立ち上り、魔法陣が展開される。
「封印の魔法を展開します。三十分は持つはずです。その間に」
「ああ。ありがたい」
セリアの封印魔法が綻びを包み込んだ。青い光の膜が亀裂の周囲を覆い、瘴気の放出が抑えられる。拡大もひとまず止まった。
今だ。
柏木は両手を綻びの端に当てた。
瘴気の圧力が手のひらを打つ。全身が総毛立つような不快感。しかし、柏木は手を離さなかった。
【鑑定眼】を全力で発動し、綻びの構造を読み取る。
空間の断裂面。その「切り口」の形状、深さ、範囲。通常の物体の修繕と同じだ。まず損傷の全容を把握し、修繕の手順を組み立てる。
柏木の頭の中に、綻びの「構造」が浮かび上がった。
空間が布だとすれば、綻びは布が裂けた箇所だ。裂け目の両端は、ほつれて広がっている。このほつれを止めなければ、裂けはさらに広がる。
——まず、ほつれを止める。裂け目の拡大を食い止める。
【修繕術】を発動。
レベル五の修繕術では、この綻びを完全に塞ぐことはできない。しかし、裂け目の端のほつれた部分——拡大の進行する端部を修繕することならできるかもしれない。
金色の光が柏木の手から溢れ、綻びの端に広がった。
空間の断裂面が、わずかに縮む。ほつれが修復され、裂け目の端が安定する。
激しい魔力消費。額から汗が滝のように流れる。視界が明滅する。しかし、手を離してはいけない。
「リョウイチさん! 無理しないで!」
リーナの声が聞こえる。
「あの人の魔力パターン——信じられない。空間構造に直接干渉している……!」
セリアの驚愕の声も。
柏木は歯を食いしばり、修繕を続けた。
綻びの全体を直すことはできない。しかし、端部のほつれを修繕し、拡大を止めることは——。
十五分後、柏木は膝から崩れ落ちた。
魔力が完全に尽きた。全身が鉛のように重い。
しかし——。
綻びは、まだそこにあった。しかし、先ほどまでの七、八メートルから、五メートルほどに縮小していた。拡大も止まっている。
「綻びが……小さくなってる」
リーナが信じられないという表情で呟いた。
セリアが柏木に駆け寄った。その顔は、冷静な研究者のものではなく、驚きと興奮に満ちていた。
「あなた、本当に綻びを修繕した——! 完全ではないけれど、確実に縮小させた。こんなこと——三十年間、世界中の魔法使いが挑んで、誰一人成し得なかったことを——」
「完全には……直せなかった」
「当然です。あのレベルの修繕を行えたこと自体が奇跡です。レベルが上がれば、完全な修繕も可能になるかもしれない」
セリアは柏木の手を握った。研究者の興奮で、自分が何をしているか気づいていないようだった。
「柏木さん。王都に来てください」
「王都?」
「王立魔法学院には、綻びの研究施設があります。そこであなたの能力を本格的に調査し、修繕術のレベルを効率的に上げる方法を研究したい。各地の綻びの情報もあります。ここにいるよりも、はるかに早く——」
「待ってくれ。まだ町の綻びは直しきれていない。ここを離れるわけには——」
「今の修繕で拡大は止まりました。しばらくは安定するはずです。その間に王都で準備を整え、レベルを上げて戻ってくれば、完全に修繕できるかもしれない」
セリアの言葉には説得力があった。実際、今のレベルでは不完全な修繕しかできない。効率的にレベルを上げ、各地の綻びの情報を集めるなら、王都に行くのが最善だ。
柏木はリーナを見た。
リーナは一瞬躊躇したが、すぐに力強く頷いた。
「行きましょう、リョウイチさん。私も一緒に」
「リーナも?」
「もちろんです。パーティメンバーでしょう? それに——父のことも、もっと調べたいんです。綻びの研究施設なら、何かわかるかもしれない」
柏木はトーマスにも相談した。
「行ってこい」
トーマスは即答した。
「お前がここでできることは、今の時点ではやり尽くした。もっと強くなって戻ってこい。綻びを完全に直してくれるのを、待っている」
ガルドも、ぶっきらぼうに送り出してくれた。
「鍛冶場の二階は空けておいてやる。いつでも帰ってこい」
こうして、柏木遼一はリーナとセリアとともに、王都への旅路につくことになった。
出発の前夜、柏木は鍛冶場の二階で荷物をまとめていた。荷物といっても、たいしたものはない。この世界に来たとき着ていたスーツは、もうずいぶん傷んでいて——いや、修繕術で直せばいつでも新品同様になるのだが、あえてそのままにしていた。この世界の服に着替えてからは、スーツは棚の奥にしまっている。
窓から夜空を見上げた。青い月と琥珀の月。初めて見たときは動揺したが、今はもう慣れた。二つの月が照らすこの町が、柏木にとって最初の「居場所」になった。
——帰ってこよう。必ず。
元の世界では、そう思える場所がなかった。アパートに帰っても、待っている人はいなかった。しかし今、この鍛冶場の二階には、ガルドの金槌の音がかすかに伝わってくる。階下で遅くまで仕事をしている、あの無愛想なドワーフ。その音が、不思議と心を落ち着かせた。




