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綻びを繕う者 ~三十五歳の設備保全員、異世界で唯一の修繕師になる~  作者: のむ


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第十九章 綻びのない空

目を覚ましたとき、柏木は知らない天井を見ていた。

 白い石の天井。柔らかいベッドの感触。窓から差し込む暖かな日差し。

 「……ここは」

 「王都の王立病院です。三日間、眠っていました」

 声の主はセリアだった。ベッドの横の椅子に座り、例の分厚い本を膝に載せている。

 「三日……」

 「魔力の完全枯渇と、肉体的な極度の消耗でした。正直、目を覚ますかどうかも確信が持てなかった」

 セリアの声は平静を装っていたが、目が赤かった。泣いていたのだろう。

 「心配かけたな」

 「当然です。あなたは無茶をしすぎます」

 「リーナは? マルクスは?」

 「二人とも無事です。マルクスは左腕を骨折しましたが、治療魔法で治りました。リーナは打撲と擦り傷だけ。今は——」

 ドアが勢いよく開いた。

 「リョウイチさーん!」

 リーナが病室に飛び込んできた。その後ろから、左腕を三角巾で吊ったマルクスが悠然と歩いてくる。

 「起きたか。丈夫なおっさんだ」

 「お前の左腕は」

 「もう治ってる。三角巾は看護師に外すなと言われてるだけだ」

 リーナはベッドの横に座り、柏木の手を握った。

 「良かった……本当に良かった。目を覚まさなかったらどうしようって……」

 「大げさだな。ちょっと寝すぎただけだ」

 「ちょっとじゃないです! 三日ですよ三日!」

 リーナに叱られながら、柏木はゆっくりと身体を起こした。

 全身が痛い。筋肉痛のような、しかしもっと深い場所——魂が疲れているような感覚だ。

 「封印は——どうなった?」

 セリアが答えた。

 「完全に修復されました。学院の観測機器が、世界全域の瘴気濃度の急激な低下を記録しています。そして——」

 セリアの顔に、研究者としての興奮と、人としての喜びが混じった笑みが浮かんだ。

 「綻びが、閉じ始めています。世界中の綻びが」

 「閉じ始めている?」

 「はい。封印が修復されたことで、世界の糸の張力が正常に戻り始めました。その結果、ほつれていた糸が自然に元の位置に戻り、綻びが閉じていく。小規模なものはすでに消滅しています。大規模なものも、数週間から数ヶ月で閉じると予測されます」

 柏木は窓の外を見た。

 王都の空が見える。青く澄んだ空。以前は遠くにいくつか見えた紫色の光点が——一つもなかった。

 綻びのない空。

 三十年ぶりの、綻びのない空だ。

 「やったんだな」

 「やったんです、リョウイチさん」

 リーナの目に涙が光った。しかし、今度は悲しみの涙ではない。

 「世界を——直したんです」


 柏木が回復するまでに一週間がかかった。

 その間に、世界は急速に変わっていた。

 各地の綻びが次々と閉じ、瘴気に覆われていた土地が浄化されていった。三十年間瘴気に閉ざされていた地域に、人々が戻り始めた。枯れていた農地が蘇り、放棄されていた鉱山が再開され、分断されていた街道が繋がった。

 アリシア王女は、柏木の功績を正式に国に認めさせた。

 「綻び対策特別遠征隊の活動により、世界規模の脅威が解消されたことを宣言します。柏木遼一殿の功績は計り知れず、王国は永久にその恩に報いるものとする」

 フリードリヒ王子は渋々ながらこれを承認し、ヴィクトル侯爵は柏木の拉致未遂の責任を追及され、爵位剥奪の処分を受けた。


 目覚めてからの数日間、柏木は自分の身体の変化に気づいた。

 魔力が、以前よりも格段に増えていた。世界の結び目を修繕した際に、世界そのものから魔力が流入したようだ。ステータスを確認すると、レベルは十八に跳ね上がっていた。

 しかし、それ以上に大きかったのは、感覚の変化だった。

 柏木は今、世界の「糸」を感じることができた。

 空間を構成する目に見えない糸——世界の基盤を成す構造を、常に薄く感知している。壊れたものに触れなくても、近くにあるだけでその状態がわかる。病室の壁の小さなひび、窓ガラスの微細な歪み、ベッドフレームの金属疲労。

 世界が透けて見えるような感覚。それは圧倒的だったが、同時に——なんだか疲れた。

 「四六時中、壊れたものが見えるのは落ち着かないな……」

 柏木はベッドの上で呟いた。

 しかし、数日経つと、その感覚を制御できるようになった。意識的にオン・オフを切り替え、必要な時だけ「世界の糸」を感知する。設備保全員時代に、機械の異音を聞き分ける耳を鍛えたのと同じ要領だった。


 回復した柏木を、多くの人が見舞いに訪れた。

 ブランデルのトーマスが、赤猪亭特製のシチューの素を持ってきた。

 「約束通り、直したな」

 「ああ。直した」

 「偉い男だよ、お前は」

 トーマスの目にも、光るものがあった。

 ケルン村の村長が、自家製のパンとチーズを山のように持ってきた。ラインフェルト伯爵が、上等なワインを何本も送ってきた。各地の住民から、感謝の手紙が山のように届いた。

 「柏木さんのおかげで、畑が蘇りました」

 「綻びが消えて、やっと安心して眠れます」

 「子供たちが、初めて青い空を見て喜んでいます」

 柏木はその手紙を一つずつ読んだ。

 こみ上げてくるものを、堪えきれなかった。


 柏木のもとには、意外な訪問者もあった。

 ヴィクトル・レーヴェン侯爵——いや、元侯爵だ。爵位を剥奪された彼は、護衛もつけずに一人で病室を訪れた。

 「入ってもよろしいかな」

 柏木は警戒した。しかし、かつての傲慢な笑みはなかった。代わりにあるのは、疲れ果てた一人の中年男の顔だった。

 「何の用ですか」

 「謝罪に来た」

 ヴィクトルは頭を下げた。

 「私は、自分の欲のためにあなたを利用しようとした。あなたの拉致を命じ、アリシア王女を陥れた。全て、私の愚かさの結果だ」

 「……」

 「爵位が剥奪され、領地を失い、全てを失って——初めて気づいた。私が本当に欲しかったのは、土地でも権力でもなかった。領民を守りたかったのだ。綻びに苦しむ領民を救いたかった。だが、その方法を間違えた」

 柏木は黙って聞いていた。

 「許してくれとは言わない。ただ——綻びが消えたことには、心から感謝している。私の元領民たちは、ようやく安心して暮らせるようになった。それだけで十分だ」

 ヴィクトルは立ち上がり、一礼して去っていった。

 柏木はしばらく黙っていた。

 壊れたものを直す——人の心も、直せるのだろうか。ヴィクトル侯爵の中にある何かが、綻びの消滅によって少しだけ修繕されたのかもしれない。


 ある日の午後、アリシア王女が個人的に病室を訪れた。

 護衛も従者もつけず、一人きりだった。

 「お加減はいかがですか」

 「だいぶ良くなりました。明日には退院できるそうです」

 「そうですか。良かった」

 アリシアは窓際の椅子に座り、しばらく黙っていた。

 「柏木殿。王国として、あなたに褒賞を贈りたいと考えています。領地、爵位、金銭——望むものを言ってください」

 「いりません」

 柏木は即答した。

 「領地の管理なんてできないし、爵位があっても使い道がない。お金も——まあ、多少はあると助かりますが、大金は持て余します」

 アリシアは微笑んだ。

 「では、何を望みますか」

 柏木は少し考えた。

 「ブランデルに帰りたいです。あの町の鍛冶場で、壊れたものを直す仕事に戻りたい」

 「……それだけ?」

 「それだけです。あ、あと一つ。世界中の綻びが完全に閉じたか確認したい。もし残っているものがあれば、直しに行きたい」

 アリシアは小さく笑った。

 「わかりました。ブランデルへの帰還と、残存綻びの調査・修繕の支援は、王室が責任を持って行います。それから——」

 アリシアは真面目な顔に戻った。

 「セリア先生の研究を継続させてください。修繕術の原理が解明されれば、将来再び綻びが発生した時に対処できる人材を育成できます。それが、長期的には世界を守ることに繋がります」

 「もちろん。セリアの研究には、いくらでも協力する」

 「ありがとうございます」

 アリシアは立ち上がり、ドアに向かった。そして振り返って言った。

 「柏木殿。この世界に来てくださって、ありがとうございました」

 柏木は頭を掻いた。

 「来たくて来たわけじゃないんですが——まあ、結果的には、良かったと思います」

 アリシアは微笑み、ドアノブに手をかけた。そしてもう一つだけ付け加えた。

 「柏木殿。あなたの存在は、この国の——いえ、この世界の歴史に永遠に刻まれるでしょう。しかし、私にとってあなたは——世界を救った英雄ではなく、困っている人を見捨てられない、一人の修繕師です。その姿に、何度も勇気づけられました」

 「王女殿下にそう言ってもらえるとは」

 「アリシアで構いません。もう、そのくらいの間柄でしょう」

 「では——アリシアさん。あなたも、政治の世界で壊れかけたものを直し続けてください。王宮の修繕師として」

 アリシアは一瞬驚いた顔をし、それから声を立てて笑った。

 「王宮の修繕師、ですか。良い肩書きですね。いただきます」


 退院の日、柏木はセリアの研究室に立ち寄った。

 「セリア。一つ訊きたいことがある」

 「何ですか」

 「俺は——元の世界に帰れるのか?」

 セリアは一瞬黙り、それから正直に答えた。

 「わかりません。理論的には、次元間の移動は綻びを通じて行われます。しかし、あなたが来た時の綻びは自然に閉じており、再現する方法は見つかっていません」

 「そうか」

 「ただし——」

 セリアは眼鏡を直した。

 「研究を続ければ、いつか方法が見つかるかもしれません。次元間の移動は、先史文明でも研究されていた分野です。時間はかかりますが、不可能ではないと思います」

 「そうか。まあ、急ぐ話じゃない」

 柏木は窓の外を見た。青い空。綻びのない空。

 元の世界に帰りたいか——と自問した。

 駅前の雨の夜。リストラ通知書。誰もいないアパート。

 帰りたい気持ちがないと言えば嘘になる。あの世界にも、未練はある。美咲にもう一度謝りたいという気持ちもある。

 しかし——。

 この世界には、仲間がいる。居場所がある。自分を必要としてくれる人がいる。

 「ゆっくり考える」

 柏木はそう言って、研究室を後にした。

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