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綻びを繕う者 ~三十五歳の設備保全員、異世界で唯一の修繕師になる~  作者: のむ


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21/21

終章 帰る場所

王都を発つ日は、快晴だった。

 城門の前に、馬車が一台止まっている。かつてセリアが乗ってブランデルにやってきた、あの王都の紋章入りの馬車だ。ただし、今回の行き先は反対——王都からブランデルへ。

 見送りに来た者は少なくなかった。

 アリシア王女が、護衛を連れて城門まで来てくれた。

 城門前の広場は、朝の光に満ちていた。世界の綻びが全て閉じてから、空は以前よりも青く、光は以前よりも明るくなったような気がする。気のせいかもしれないが、世界が健康になったということは、光の質にも影響するのかもしれない。

 「良い旅を、柏木殿。ブランデルで何か困ったことがあれば、いつでも王城に連絡してください」

 「ありがとうございます。でも、困ることはあまりないと思います」

 「そうでしょうね」

 アリシアは微笑んだ。

 「世界を救った方が、辺境の町で壊れた鍋や農具を直す生活に戻るというのは——なんだか不思議です」

 「不思議じゃないですよ。俺にとっては、鍋を直すのも世界を直すのも、やってることは同じですから」

 アリシアは声を立てて笑った。初めて見る、屈託のない笑い方だった。

 「それが、あなたの強さなのでしょうね」


 ヘルムート学院長も見送りに来ていた。

 「修繕師殿。君のおかげで、世界は三十年ぶりに安寧を取り戻した。感謝する」

 「学院長にも助けていただきました。ありがとうございます」

 「なに、わしは何もしておらん。セリア君と、君自身の力だ。それと——」

 学院長は柏木の耳元で囁いた。

 「セリア君のことを頼む。あの子は優秀だが、研究に没頭すると寝食を忘れる。誰か面倒を見てやれる者が傍にいないと危なっかしい」

 柏木は苦笑した。

 「それは俺に言うことですか」

 「ほかに誰に言うのだ」

 学院長はにやりと笑って去っていった。


 セリアは王都に残る選択肢もあったが、ブランデルへの同行を選んだ。

 「研究は場所を選びません。それに、ブランデルの周辺には先史文明の遺跡がまだ未探索のものがあります。フィールドワークの拠点として最適です」

 理路整然とした説明だったが、その頬がわずかに赤いのを、リーナは見逃さなかった。

 「セリアさん、正直に言えばいいのに」

 「何のことですか」

 「リョウイチさんの傍にいたいって」

 「な——! そ、そんなことは——研究上の利便性を考慮した結果であって——」

 「はいはい」

 リーナはにやにやしながら馬車に乗り込んだ。セリアは真っ赤になりながらも、同じ馬車に乗った。


 マルクスも、もちろんついてきた。

 「護衛の任は、世界が平和になったからって終わるわけじゃない。柏木が生きてる限り、俺の仕事は続く」

 「そんな大げさな。もう危険はないだろう」

 「世の中に絶対安全はない。それに——」

 マルクスは肩をすくめた。

 「正直に言えば、ブランデルの赤猪亭のシチューが恋しい。王都の飯は上品すぎて、俺には合わん」

 「それが本音か」

 「本音だ」

 二人は顔を見合わせて笑った。


 馬車が動き出す前、柏木はふと振り返った。

 王都クロンシュタットの城壁が、朝日を浴びて白く輝いている。七つの尖塔を持つ王城。広大な市街地。初めて訪れたときは、その規模に圧倒された。学院で修繕術の基礎理論を学び、古代の遺跡で世界の秘密に触れ、そしてあの最後の戦いを経て——この街は、柏木にとってもう一つの故郷のような場所になっていた。

 「名残惜しそうですね」

 セリアが声をかけた。

 「少しな。ここで学んだことは多い」

 「また来ればいいんです。学院はいつでも歓迎しますよ」

 「ああ。そうだな」

 柏木は前を向いた。行く先にはブランデルがある。帰る場所がある。それだけで、胸が温かくなった。


 馬車は王都の門を出て、東の街道を進んだ。

 途中、いくつかの町を通った。

 それぞれの町で、柏木たちは歓迎された。かつて綻びを修繕した町では、住人が総出で出迎えてくれた。

 ケルン村では、村長が涙ながらに新酒を振る舞ってくれた。

 「あんたのおかげで、今年は十年ぶりの豊作だ。見てくれ、あの畑を。全部、あんたが瘴気を浄化してくれた土地だ」

 車窓から見える畑は、一面の黄金色。麦が実り、風に揺れている。かつて瘴気に侵されて灰色に枯れていた大地が、こんなにも豊かに蘇っている。

 「……すごいな」

 柏木は素直に感嘆した。

 「あんたが直してくれたおかげだよ」

 「いや、直しただけだ。畑を耕して麦を育てたのは、あなたたちだ」

 村長は首を横に振った。

 「直してくれなきゃ、耕すこともできなかった。あんたがいなかったら、この村はもうなかった」

 柏木は言葉に詰まった。

 工場にいた頃は、こんなふうに面と向かって感謝されることはなかった。設備が正常に動くのは当たり前で、止まれば文句を言われる。直しても「ご苦労さん」の一言で終わり。それが普通だと思っていた。

 しかし、この世界では違った。直すことそのものが、これほど人の心に響くとは。

 村の子供たちが柏木の周りに集まってきた。

 「修繕師さん、うちの人形も直してくれる?」

 女の子が差し出したのは、片腕がもげた木彫りの人形だった。瘴気のせいで壊れたのではなく、ただ遊びすぎて壊れただけだろう。しかし子供にとっては大切な宝物だ。

 柏木は膝をついて人形を受け取り、【修繕術】を発動した。

 淡い光が人形を包み、もげた腕が元の位置に戻る。ほんの数秒で、人形は元通りになった。

 「わあ! すごい! ありがとう、修繕師さん!」

 女の子は人形を抱きしめて、嬉しそうに走っていった。

 それを見ていたリーナが、穏やかに微笑んだ。

 「リョウイチさん、今すごくいい顔してますよ」

 「そうか?」

 「はい。世界の封印を直した時より——今の方が、ずっと」

 柏木は照れ臭くなって頭を掻いた。リーナの言う通りかもしれない。巨大な綻びを修繕するのは確かに達成感がある。だが、目の前の子供が笑顔になる瞬間——それは、設備保全員だった頃には味わえなかった種類の幸福だった。


 旅の四日目の夜、宿屋で食事をしているとき、セリアが切り出した。

 「柏木さん。一つ、報告があります」

 「なんだ」

 「封印の修繕後、世界の糸の状態を観測した結果、あることがわかりました」

 セリアは手元のノートを開いた。

 「世界の糸は、修繕によって元の状態よりも強くなっています。あなたの修繕術の特性——直すだけでなく、強化する——が、世界規模で作用したようです」

 「強くなった?」

 「はい。封印の耐久性は、先史文明が施した時よりも向上しています。虚無の王が再び封印を破ろうとしても、以前よりもはるかに長い時間がかかるでしょう。数百年、あるいは数千年」

 「それは……いい知らせだな」

 「はい。ただし、永遠ではありません。いつか再び封印が劣化する可能性はゼロではない。だからこそ——」

 「修繕術の原理を解明して、後世に伝える。セリアの研究が大事なんだな」

 「そうです。あなたの修繕術を理論化し、教育可能な形にすることが、長期的な安全保障になります。世界を守る力を、一人の人間に頼るべきではない」

 セリアの言葉は正しかった。柏木がいなくなった後も、世界を守り続ける仕組みが必要だ。

 「協力する。いくらでも実験台になるよ」

 「ありがとうございます。それと——」

 セリアは少し躊躇した後、続けた。

 「元の世界に帰る方法についても、並行して研究を進めます。約束します」

 「……ありがとう」


 五日目の午後、馬車はブランデルの町に着いた。

 門をくぐった瞬間、柏木は息を呑んだ。

 町が変わっていた。

 かつて綻びがあった北側——瘴気に侵されて住人が逃げ出した区域が、生まれ変わっていた。

 新しい家が建ち並び、畑が広がり、子供たちが走り回っている。柏木が修繕した水路から、澄んだ水が流れている。道の両脇には若い木が植えられ、青々とした葉が風に揺れていた。

 「おかえり!」

 門番のマルクスが叫んだ。——彼はブランデルの門番のマルクスだ。護衛のマルクス・ヴォルフとは別人だが、同じ名前の二人を区別するのに、柏木はいまだに慣れていない。

 町の中心広場に馬車が止まると、住人たちが集まってきた。

 「柏木さんが帰ってきたぞ!」

 「修繕師さん! おかえりなさい!」

 「世界を救った英雄だ!」

 「英雄って大げさだろ」柏木は照れくさそうに手を振った。

 人混みの中から、トーマスが歩いてきた。

 「おかえり」

 「ただいま」

 トーマスは柏木の肩を叩いた。いつもの大きな手。温かい手。

 「飯、食ったか」

 「馬車の中で軽く」

 「そうか。なら、赤猪亭に来い。今日は特別メニューだ」

 「また肉の硬いシチューか」

 「今日は柔らかいぞ。お前の歓迎のために、特別に仕込んだ」

 二人は並んで赤猪亭に向かった。


 赤猪亭には、見知った顔がそろっていた。

 ガルドが一番乗りでカウンターに座っていた。

 「遅いぞ、柏木。修理の仕事が山積みだと言ったろうが」

 「ただいま、ガルド」

 「ふん。ただいまじゃない。明日から働け」

 口は悪いが、ガルドの目は笑っていた。

 エルザも来ていた。ギルドの受付から抜け出してきたらしい。

 「おかえりなさい、柏木さん。ギルドにも新しい依頼がたくさん来ていますよ。綻びの修繕じゃなくて、普通の修理依頼ですけど」

 「それがいい。普通の仕事がしたかったんだ」

 店主がシチューを運んできた。本当に、肉が柔らかかった。

 柏木は一口食べて、目を閉じた。

 美味い。王都の高級料理よりも、このシチューの方がずっと美味い。

 隣でリーナが幸せそうにパンを齧っている。セリアはエールを一口飲んで「苦い」と顔をしかめている。マルクスは早くも二杯目のジョッキを空けていた。

 トーマスが隣に座った。

 「なあ、柏木」

 「なんだ」

 「この町はな、お前が来る前は、ゆっくり死んでいく町だった。綻びに蝕まれて、人が減って、いつかなくなる。そう思ってた。でも、お前が来て、綻びを直して、水路を直して、壊れた道具を直して——町が生き返った」

 トーマスはエールを一口飲んだ。

 「お前は世界を救った英雄だと、みんな言う。でもな、俺にとっちゃ、お前はまず——この町を救ってくれた恩人だ。それが一番大きい」

 柏木は何も言えなかった。喉の奥が熱くなって、シチューが飲み込めなくなった。

 「……ありがとう、トーマスさん」

 「こっちの台詞だ」


 宴は夜遅くまで続いた。

 町の住人が入れ替わり立ち替わり赤猪亭を訪れ、柏木に酒を注ぎ、感謝の言葉を述べていった。柏木は照れながらも、一人一人と言葉を交わした。

 やがて客が減り、店に残ったのは柏木たち四人とトーマス、ガルド、エルザだけになった。

 リーナは酔って眠ってしまい、テーブルに突っ伏している。マルクスもカウンターで船を漕いでいた。

 「さて、寝るか」

 柏木は立ち上がった。

 「鍛冶場の二階、空いてるんだろう」

 ガルドが頷いた。

 「言った通りだ。空けてある」

 柏木は赤猪亭を出て、夜の町を歩いた。

 月明かりが石畳を照らしている。この世界の二つの月——青い月と琥珀の月が、並んで夜空に浮かんでいた。初めてこの世界に来た夜も、この二つの月を見た。あの時は、不安と孤独でいっぱいだった。

 今は違う。

 背後に、足音がした。

 「リョウイチさん」

 リーナだった。目をこすりながら追いかけてきたらしい。

 「起きたのか。もう少し寝てればよかったのに」

 「目が覚めたら、リョウイチさんがいなかったので」

 リーナは柏木の隣に並んで歩いた。

 「明日から、また二人で依頼を受けましょうね」

 「ああ。Eランクからやり直しだな」

 「え、もうDランクですよ。忘れたんですか」

 「冗談だ」

 二人で笑った。

 ふと、リーナが立ち止まった。

 「リョウイチさん」

 「何だ」

 「私——リョウイチさんに出会えて、本当に良かったです。父を失って、一人で何をすればいいかわからなかった。でも今は——やるべきことがわかる。大切な人を守ること。壊れたものを直すこと。その手伝いをすること」

 「……リーナ」

 「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」

 リーナは深々と頭を下げた。

 柏木はしばらく何も言えなかった。やがて、ぽつりと答えた。

 「こっちこそ。ありがとう」

 リーナは顔を上げ、いつもの笑顔を見せた。月明かりに照らされたその笑顔は、柏木がこの世界で見た中で、最も美しいものの一つだった。

 鍛冶場が見えてきた。煙突から煙は出ていない。ガルドはまだ赤猪亭にいるのだろう。

 二階への外階段を登り、自分の部屋の扉を開けた。

 簡素なベッド、木の椅子とテーブル、窓の外に広がる草原。何も変わっていない。ガルドが言った通り、そのまま空けてくれてあった。

 「おやすみなさい、リョウイチさん」

 「ああ、おやすみ」

 リーナが去った後、柏木はベッドに腰を下ろした。

 窓の外に、二つの月が見えた。

 半年前——いや、もっと前のような気がする——この部屋に初めて入った夜のことを思い出した。異世界に来て、仕事と住処を得たばかりの夜。まだ何もわかっていなかった。スキルの使い方も、この世界の仕組みも、自分がなぜここにいるのかも。

 今は、わかる。

 壊れたものを直すために、ここにいる。

 世界の綻びは直った。虚無の王は封じられた。しかし、壊れたものは世界中にまだまだある。家の壁、農具、水路、橋、道——大きなものから小さなものまで。

 そして、何より大事なのは——人の暮らしを支える小さな修繕の積み重ねだ。

 世界を救ったことよりも、一人の少女の剣を直したことの方が、柏木にとっては大きかった。ケルン村の農地を蘇らせたことの方が、誇らしかった。ブランデルの水路を修繕して、住人の顔が明るくなったことの方が、嬉しかった。

 柏木遼一は、英雄にはなれない。なるつもりもない。

 ただの修繕師だ。壊れたものを直す者。

 それでいい。それが、自分の生き方だ。


 翌朝、柏木は日の出とともに起きた。

 顔を洗い、ガルドが淹れた苦い茶を飲み、鍛冶場の作業台に向かった。

 作業台の上には、壊れた品々が山のように積まれていた。折れた鎌、ひびの入った壺、歯の欠けた鋸、取っ手の取れた鍋。どれも生活に必要な、何の変哲もない道具たちだ。

 柏木は一つ目の品——折れた鎌を手に取った。

 【鑑定眼】を発動する。


 ——————————————

 対象:鉄の鎌

 損傷度:45%

 状態:刃が折れ、柄が緩んでいる

 修繕難易度:極めて低い

 ——————————————


 世界の封印を直した手で、折れた鎌を直す。

 壊れたものを、元の、あるいはそれ以上の状態に戻す。

 金色の光が手のひらから溢れ、鎌の刃が蘇った。

 「よし」

 柏木は直った鎌を脇に置き、次の品を手に取った。

 ひびの入った壺。これは赤猪亭の店主のものだ。先週の宴会で、酔っ払った客がぶつかって割ってしまったらしい。

 修繕する。壺のひびが消え、元の丸みを取り戻す。

 次。歯の欠けた鋸。木こりのヨハンのものだ。長年使い込んで、刃が磨り減っている。

 修繕する。刃が蘇り、切れ味が戻る。ついでに、柄のぐらつきも直す。

 次。取っ手の取れた鍋。パン屋の女将のものだ。毎日シチューを煮込んでいるから、取っ手に負荷がかかったのだろう。

 修繕する。取っ手がしっかりと固定され、本体との接合部が強化される。

 一つ直し終えるたびに、柏木の心が穏やかになっていく。これが自分の仕事だ。世界を救うことではなく、壊れた鍋を直すこと。壊れた鎌を直すこと。壊れた壺を直すこと。

 小さな修繕の積み重ねが、人の暮らしを支えている。

 それが、柏木遼一の生き方だ。

 窓の外には、綻びのない青い空が広がっていた。

 ブランデルの鍛冶場に、金槌の音と修繕の光が戻ってきた。

 柏木遼一の異世界生活は、今日も続く。




 断章 それぞれの、その後



 ブランデルに帰還してから、三ヶ月が経った。


 ◇


 リーナ・フォルストは、Bランクの冒険者に昇格していた。

 遠征を通じて得た実戦経験と、暁光の扱いの上達により、彼女は辺境随一の剣士と呼ばれるようになっていた。

 しかし、彼女が最も多く受ける依頼は、相変わらず柏木との二人パーティでの修繕関連の仕事だった。

 「リーナちゃん、Bランクなのに修理の護衛ばっかりしてていいの?」

 冒険者仲間にそう訊かれると、リーナは胸を張って答えた。

 「修繕師の護衛は、世界で一番大事な仕事です!」

 父アルベルトの形見である暁光は、柏木の修繕によって最高品質の剣に生まれ変わっていた。リーナはその剣を毎日手入れし、父の教えを胸に、剣の腕を磨き続けている。

 ある日、リーナは柏木に一通の手紙を持ってきた。

 「リョウイチさん。父の旧友を名乗る方から手紙が来ました。父が最後に綻びの調査に向かった時のことを知っているそうです」

 柏木はリーナとともにその人物を訪ね、アルベルトの最期について話を聞いた。

 アルベルトは、ヴァルデの森の綻びから現れた虚影の兵士と戦い、致命傷を負いながらも森の外まで退却し、そこで息を引き取ったという。暁光が瘴気に侵されてボロボロの状態でブランデルに届いたのは、アルベルトの旧友が遺品として持ち帰ったからだった。

 「父は、逃げずに戦ったんですね」

 リーナの目に涙はなかった。悲しみを超えた、誇りの表情だった。

 「強い人だったんだな」

 「はい。私も、父のように強くなりたい。守るべきものを守れる人に」

 リーナはそう言って、暁光の柄を握った。


 ◇


 セリア・ヴァンデールは、ブランデルに研究拠点を設立していた。

 「王立魔法学院ブランデル分室」と名付けられたその施設は、ガルドの鍛冶場の隣に建てられた小さな建物だったが、中には最新の魔法計測器具が揃えられていた。アリシア王女の計らいで、予算は潤沢だった。

 セリアの研究テーマは三つ。

 一つ目は、修繕術の原理解明。柏木の修繕術が発動する際の魔力パターンを詳細に分析し、理論化する作業。これが完成すれば、修繕術の教育プログラムが作成できる。

 二つ目は、先史文明の遺跡調査。ブランデル周辺にはまだ未発見の遺跡がある可能性があり、そこから世界の構造に関するさらなる知見が得られるかもしれない。

 三つ目は——次元間移動の研究。柏木が元の世界に帰れる方法を探る研究だ。

 「進捗は?」

 柏木が研究室を訪ねると、セリアは山積みの書類の向こうから顔を出した。

 「修繕術の理論化は、七割ほど完成しています。あと半年で論文にまとめられる見込みです。先史文明の遺跡調査は、有望な候補地を三つ特定しました。来月から調査を始めます」

 「三つ目は?」

 セリアは少し黙った。

 「まだ、理論段階です。次元間の移動を安全に行う方法は、先史文明でも完全には確立されていなかったようです。時間がかかります」

 「急がなくていい。ゆっくりやってくれ」

 「でも——」

 セリアは何か言いかけて、やめた。

 代わりに、いつもの冷静な研究者の顔に戻って言った。

 「今日の実験、手伝ってもらえますか。修繕術の発動時に脳波に相当する魔力波動を計測したいのですが」

 「いいよ。何を直せばいい?」

 「このインク壺を」

 セリアが差し出したのは、わざと割ったインク壺だった。

 柏木は笑って、インク壺を直した。


 ◇


 マルクス・ヴォルフは、ブランデルの自警団の指導員を務めていた。

 「辺境の町には、正規の軍隊は来ない。自分たちの身は自分たちで守る必要がある。だが、烏合の衆では話にならん。基本的な戦闘技術と、組織的な動き方を教える」

 元・王国騎士団第三中隊長の経験を活かし、マルクスは町の若者たちに戦闘訓練を施した。リーナも助手として参加し、剣術の指導を行った。

 「世界の綻びが消えたとはいえ、魔物はまだいる。瘴気に汚染されていない通常の魔物だ。野盗もいる。備えあれば憂いなし、だ」

 マルクスの訓練は厳しかったが、町の若者たちは熱心に取り組んだ。綻びの脅威が消えたことで、町に希望が生まれ、若者たちの間に「この町を守りたい」という意識が芽生えていたのだ。

 訓練の合間に、マルクスは赤猪亭でエールを飲みながら、柏木と語り合った。

 「なあ、柏木。お前がここに来てから、この町は変わった。人が増え、活気が出てきた。北の区画にも新しい家が建ち始めている」

 「俺がやったのは、壊れたものを直しただけだ。町を発展させたのは、住人自身の力だ」

 「そうかもしれん。だが、きっかけはお前だ。壊れたものを直す男がいる。その事実が、人に希望を与える。希望があれば、人は動く」

 マルクスはエールを飲み干し、ジョッキをカウンターに置いた。

 「俺は長い間、騎士として戦うことが仕事だった。敵を倒す、領地を守る——それが全てだと思っていた。だが、お前を見ていて気づいた。守るだけじゃなく、直す。壊れたものを蘇らせる。それが、本当の意味で人を救うということだ」

 「大げさだ」

 「大げさじゃない。事実だ。——もう一杯頼む」


 ◇


 ガルド・ヘンメルは、相変わらず鍛冶場で金槌を振るっていた。

 しかし、一つだけ変わったことがあった。

 ガルドは柏木の修繕術を間近で観察し続けた結果、独自の「修繕鍛冶」とでも呼ぶべき技法を編み出していた。壊れた武器を溶かして鍛え直すのではなく、金属の組織構造を理解した上で、最小限の加工で修復する技法だ。

 「修繕術は使えんが、金属の構造を理解する目はわしにもある。お前の仕事を見ていて、金属というものの奥深さを改めて知った。四十年鍛冶をやってきて、まだ知らないことがあった。お前のおかげだ」

 「ガルドに教えられることなんてないよ。俺は鍛冶師じゃない」

 「鍛冶師じゃないからこそ、鍛冶師には見えないものが見える。それがお前の強みだ」

 ガルドは新作の短剣を柏木に見せた。柏木が初日に修繕した短剣と同じデザインだが、ガルドの新技法で鍛えられたその刀身は、驚くほどの品質だった。

 「お前がいなかったら、わしはこの短剣を作れなかった。感謝はせん。代わりに——」

 ガルドは短剣を柏木の手に押し付けた。

 「護身用に持っておけ。お前は戦えんのだから、せめて良い武器を持て」

 柏木はその短剣を受け取り、腰に佩いた。初めての「自分の武器」だった。

 短剣の重みを腰に感じながら、柏木は思った。この世界に来た日、自分が持っていたのはふやけたリストラ通知書だけだった。今は——仲間がくれた武器がある。それは、信頼の証だ。


 ◇


 トーマス・グレインは、ブランデルの町長として、日々忙しく過ごしていた。

 綻びが消えたことで、ブランデルには移住者が増え始めた。瘴気に侵されていた北の区画が完全に回復し、新たな農地や住居地として開発が進んでいる。人口は半年で二百人から三百人に増えた。

 「嬉しい悲鳴だよ。人が増えるのはいいが、家を建てる資材が足りん、道を整備する人手が足りん、学校が必要だ——やることが山積みだ」

 トーマスは忙しそうだったが、その顔は生き生きとしていた。かつての疲れ切った表情は消え、町の未来に向けて精力的に動いている。

 「柏木、お前に頼みがある」

 「何だ」

 「北の区画に井戸を掘りたいんだが、地下水脈の位置がわからん。お前の鑑定眼で見てくれないか」

 「それは修繕じゃなくて調査だな。まあいいよ、見てやる」

 柏木は北の区画を歩き回り、【鑑定眼】と【構造理解】で地下の状態を調べた。地下水脈の位置を特定し、井戸を掘るのに最適な場所を三か所見つけた。

 「ここと、ここと、ここ。この三か所なら、深さ十メートルほどで水が出る」

 トーマスは柏木が示した場所に印をつけた。

 「助かる。来週から掘削を始める。立ち会ってくれるか」

 「ああ。地盤が崩れないように、修繕しながら掘る方が安全だ」

 「頼む」

 こうして、柏木は町の発展にも力を貸し続けた。壊れた建物を直し、老朽化した城壁を修繕し、傷んだ農具を蘇らせる。世界を救った英雄のやることとしては、あまりにも地味な仕事ばかりだ。

 しかし、柏木はそれでよかった。いや、それがよかった。

 トーマスはそんな柏木を見て、よくこう言った。

 「お前は変わらんな、柏木。世界を救っても、やることは同じだ」

 「直すことしか能がないからな」

 「それが一番の才能だと、まだわからんのか」

 トーマスは呆れたように笑って、柏木の背中を叩いた。いつもの大きな手。この半年で何度叩かれたかわからないが、そのたびに柏木は思う。ここに来てよかった、と。


 ◇


 エルザ・キルシュは、ブランデル冒険者ギルドの支部長に昇進していた。

 町の発展に伴い、ギルドの業務も拡大した。移住者の中には冒険者志望の若者もおり、ギルドの登録者数は倍増した。

 「柏木さんのおかげで、うちのギルドは大忙しです」

 エルザは笑いながら書類を片付けた。

 「修繕の依頼だけでなく、周辺地域の探索依頼も増えています。瘴気が消えたことで、今まで行けなかった場所に行けるようになりましたから」

 「そういえば、Eランクの頃が懐かしいな。最初の依頼は水路の修繕だった」

 「覚えています。あの依頼、二ヶ月も誰も受けてくれなかったんですよ。柏木さんが来てくれて、本当に助かりました」

 エルザは柏木に一枚の依頼書を見せた。

 「最新の依頼です。どうです?」


 【依頼:旧街道の橋の修繕】

 ランク:D

 依頼主:ブランデル町役場

 内容:北の区画と東の農地を結ぶ旧街道の石橋が

    老朽化により通行不能。修繕を求む。

 報酬:銀貨十枚


 柏木は依頼書を受け取った。

 「受けます」

 「いつもありがとうございます、柏木さん」

 柏木は依頼書をポケットにしまい、ギルドを出た。

 外は青い空。綻びのない、澄んだ空。

 「リーナ! 新しい依頼だ。橋の修繕。行くぞ」

 「はい! 行きましょう!」

 リーナが暁光を背負って駆けてきた。

 二人は並んで、旧街道に向かって歩き出した。


 三十五歳の元設備保全員は、今日も異世界で壊れたものを直している。

 それは、世界を救うことよりもずっと地味で、ずっと小さな仕事だ。

 だが、世界は大きな奇跡ではなく、小さな修繕の積み重ねで成り立っている。

 一つの短剣を直したことから始まった物語は、世界の封印を修繕して一つの区切りを迎えた。しかし、柏木遼一の物語はここで終わらない。

 壊れたものがある限り、修繕師の仕事は続く。

 綻びを繕う者の旅は、終わらない。


 ◇


 その夜——。

 鍛冶場の二階の部屋で、柏木はベッドに横になっていた。

 窓の外には、二つの月が浮かんでいる。青い月と、琥珀の月。初めてこの世界に来た夜と、同じ月だ。

 ポケットに手を入れると、何かの感触があった。

 取り出したのは——ふやけてぼろぼろになった紙。リストラ通知書の残骸だった。

 あの夜、駅前の雨の中で受け取った紙。異世界に来てからずっと、ポケットの中に入ったままだった。修繕しようと思えばできたが、あえて直さずにいた。

 柏木はその紙を広げた。もう文字はほとんど読めない。「会社都合」「人員整理」——かろうじて読める単語が、かつての自分の姿を思い出させる。

 三十五歳。リストラされたおっさん。家族もなく、友人もなく、居場所もなかった男。

 今は——。

 仲間がいる。居場所がある。直すべきものがある。

 柏木はリストラ通知書を丁寧に折り畳み、テーブルの引き出しにしまった。

 これは、もう要らない紙だ。しかし、捨てはしない。これが自分の出発点だから。全てを失った場所から始まって、ここまで来た。それを忘れないために。

 窓の外で、虫が鳴いている。この世界の虫の声。高くて、リズミカルで、心地良い音。

 階下の鍛冶場からは、ガルドの金槌の音が微かに聞こえる。あの頑固なドワーフは、夜遅くまで仕事をしている。通りの向こうでは、赤猪亭の灯りがまだ点いている。マルクスがエールを飲みながら、若い冒険者たちに昔話を聞かせているのだろう。セリアの研究室にも明かりが見える。また遅くまで研究しているに違いない。明日、「ちゃんと寝ろ」と言わなければ。

 リーナは——もう寝ているだろうか。明日の依頼に備えて、早めに休んでいるはずだ。あの真面目な性格だから。

 みんな、ここにいる。

 柏木は目を閉じた。

 明日もまた、壊れたものを直す一日が始まる。

 それでいい。

 それが、柏木遼一の人生だ。


 綻びのない空の下で、修繕師は静かに眠りについた。

 夢を見た。

 工場の夢だった。旋盤が回り、フライス盤が唸り、プレス機がリズミカルに稼働している。あの懐かしい金属の匂いと、油の匂い。機械たちの健やかな鼓動。

 夢の中で、柏木は若かった。入社したばかりの二十二歳。先輩が言った。「覚えておけ、柏木。機械は嘘をつかない。壊れたら壊れたと教えてくれる。人間より正直だ」

 あの言葉は正しかった。そして、この世界でも同じだった。壊れたものは、壊れたと教えてくれる。だから直せる。

 夢の中の工場が、やがてブランデルの鍛冶場に変わった。

 ガルドの金槌の音。リーナの笑い声。セリアの魔法の光。マルクスの低い笑い。トーマスの大きな手。

 二つの場所が重なり、溶け合い、一つになった。

 柏木遼一の居場所が、ここにあった。



                         ——了——

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