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綻びを繕う者 ~三十五歳の設備保全員、異世界で唯一の修繕師になる~  作者: のむ


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第十六章 凍てつく山脈と最後の鍵

凍てつく山脈——フロストヴァル連峰は、大陸の北端を東西に走る巨大な山脈だった。

 最も高い峰は標高六千メートルを超え、万年雪に覆われている。冬場は麓でさえ零下二十度を下回り、山の上部は吹雪が絶えない。人の住めない土地だ。

 そしてその山脈のどこかに、最後の鍵——北の鍵が眠っている。

 「文献によると、氷の遺跡はフロストヴァルの主峰——フェルゼン山の中腹にあるようです。標高三千メートル付近に、先史文明が建設した観測施設があったという記録があります」

 セリアが手元の資料を確認しながら言った。その息は白く、頬は寒さで赤くなっている。

 山脈の麓に着いたのは、王都を発ってから一ヶ月半後のことだった。秋は既に深まり、北方では早くも冬の気配が漂っている。

 「これ以上は馬車では進めません。ここからは徒歩で登るしかない」

 マルクスが厳しい表情で山を見上げた。元騎士団の彼は、山岳行軍の経験もあるようだが、それでもこの山脈には畏怖の念を抱いている様子だった。

 「全員、防寒具を確認しろ。水と食料は三日分。それ以上の長期戦になったら、一度下山する」


 四人は、麓の猟師小屋で一泊した後、早朝から登山を開始した。

 最初の数時間は、針葉樹の森の中の比較的穏やかな登りだった。しかし標高千五百メートルを超えたあたりから、植生がなくなり、岩と雪の世界に変わった。

 風が容赦なく吹きつける。気温はどんどん下がり、吐く息が一瞬で凍った。

 柏木はスーツの上に獣の毛皮のコートを羽織っていた——遠征中にブランデルでガルドが仕立ててくれたものだ。それでも寒さは骨まで沁みた。

 「リョウイチさん、大丈夫ですか?」

 リーナが気遣わしげに声をかけた。彼女も寒そうだが、若さと鍛えた身体のおかげで、柏木ほど辛そうには見えない。

 「大丈夫。ちょっと膝が冷えるだけだ」

 「おっさんだからな」とマルクスが横から茶化した。

 「お前もおっさんだろうが」

 「俺は鍛えてるおっさんだ。鍛えてないおっさんとは違う」

 軽口を叩き合いながら、四人は登り続けた。


 標高二千五百メートルを超えたとき、異変が起きた。

 吹雪が急に激しくなった。それだけなら天候の変化で説明がつくが、問題は吹雪の中に紫色の光が混じっていることだった。

 「瘴気混じりの吹雪……!」

 セリアが叫んだ。

 「この山にも綻びがあるんだ。しかも、かなり大きい」

 柏木の【鑑定眼】が、前方に巨大な瘴気の反応を捉えた。綻びから放出された瘴気が吹雪に混ざり、有毒な嵐と化している。

 「このまま進んだら、瘴気にやられる。一度浄化しないと」

 柏木は【瘴気浄化】を発動し、周囲の瘴気を中和した。しかし、吹雪が次々と新しい瘴気を運んでくる。浄化しても浄化しても、きりがない。

 「綻びの位置を特定して、直接修繕するしかないな」

 四人は瘴気混じりの吹雪の中を、柏木が周囲を浄化しながら進んだ。魔力の消費が激しい。三十分ほどで、柏木は既に魔力の半分を使い果たしていた。

 しかし、前進を止めるわけにはいかない。

 標高二千八百メートル付近で、綻びを発見した。

 岩壁に走る紫色の亀裂。長さは十五メートル以上。これまで修繕した中で、最大級の綻びだ。

 「セリア、魔力共鳴を」

 「はい」

 セリアが柏木の手を握った。二人の魔力が共鳴し、融合する。

 柏木は残りの魔力を全て注ぎ込み、修繕を開始した。

 巨大な綻びとの格闘。金色の光と紫色の瘴気がぶつかり合い、空間が軋む。吹雪が渦を巻き、雷のような音が山肌に響く。

 十五分に及ぶ修繕の末、綻びは消滅した。

 瘴気混じりの吹雪が止み、澄んだ冷気だけが残った。空が晴れ、北方の星空が見えた。

 柏木は雪の上に倒れ込んだ。

 「リョウイチさん!」

 「大丈夫……ちょっと休ませてくれ……」

 魔力が空だ。身体が動かない。しかし、綻びは消えた。

 セリアが魔力回復の術をかけてくれたが、完全回復には時間がかかる。四人は近くの岩陰で一晩を明かすことにした。

 焚き火を囲み、硬いパンとチーズの夕食を取る。星空が美しかった。


 「リョウイチさん」

 火の向こうで、リーナが口を開いた。

 「何だ」

 「この旅が終わったら——世界の封印を直したら、リョウイチさんはどうするんですか?」

 「どうするって?」

 「元の世界に帰るんですか?」

 柏木は黙った。

 正直、考えていなかった。元の世界——駅前の雨、リストラ通知書、誰も待たない一人暮らしのアパート。あの世界に帰る方法があるかどうかもわからない。帰りたいかどうかも。

 「わからない。帰る方法があるかどうかも含めて」

 「もし——帰る方法がなかったら。このままこの世界にいてくれますか?」

 リーナの声は、いつもの元気な調子ではなかった。どこか不安げで、切実だった。

 「ブランデルに帰りたいです。あの町で、みんなと一緒に——」

 「ブランデルか」

 柏木は火を見つめた。

 ガルドの鍛冶場。トーマスの赤猪亭。エルザのギルド。小さいけれど、温かい町。

 「帰れたらいいな。ブランデルに」

 リーナの顔に、安堵の笑みが広がった。

 横でセリアが小さく微笑み、マルクスが薪を火にくべた。


 翌朝、柏木の魔力は七割ほど回復していた。

 四人は最後の登攀に挑んだ。標高三千メートルを目指して、凍った岩壁をよじ登る。

 昨夜の綻び修繕のおかげで、瘴気の吹雪はなくなっていた。しかし、通常の寒さと風だけでも十分に過酷だ。

 三時間の登攀の末、標高三千メートル付近の尾根に到達した。

 そこに、氷の遺跡があった。

 山の斜面に刻まれた、半球状の空間。入口は氷に閉ざされていたが、柏木の修繕術——正確には、凍り付いた扉の「本来の状態」を修繕することで——氷が溶け、入口が開いた。

 遺跡の中は、予想に反して温かかった。先史文明の魔法が、二千年の時を経てなお遺跡の内部環境を維持していた。

 内部は天文台のような構造だった。ドーム状の天井にはレンズのような結晶が埋め込まれ、星の光を集めて室内を照らしている。壁面には先史文明の文字がびっしりと刻まれ、柏木の鑑定眼がそれを翻訳した。

 「ここは、先史文明の観測施設です。次元間の障壁——世界の糸の状態を観測するための場所」

 セリアが壁面の文字を柏木の翻訳を頼りに読み解いた。

 「世界の糸の太さ、張力、ほつれの位置——それを常時監視していたようです。そしてここに、北の鍵の守護者が——」

 遺跡の最深部、観測室の中心に、白い結晶の祭壇があった。

 しかし守護者の姿はなかった。代わりに、祭壇の上に一枚の石板が置かれていた。


 柏木が石板に触れると、文字が浮かび上がった。


 ——————————————

 碑文:

 「北の鍵の守護者は、虚無の王の最初の侵攻により滅びた。

  鍵は守護者の最後の力により封印されている。

  この封印を解くには、四つの試練を超えた者の修繕の力が必要である。

  鍵に触れ、封印を修繕せよ。

  ただし警告する——鍵の封印を解く行為は、

  虚無の王にお前の位置を知らせることになる。

  覚悟せよ。」

 ——————————————


 「虚無の王に位置を知らせる……」

 セリアが顔を曇らせた。

 「つまり、鍵を手に入れた瞬間から、虚無の王が本気で柏木さんを排除しに来る可能性があるということです」

 柏木は祭壇を見つめた。

 ここまで来て、引き返すわけにはいかない。

 「やる」

 柏木は祭壇の上の、白い結晶に手を伸ばした。

 結晶の表面は氷のように冷たかったが、触れた瞬間に内部から熱が伝わってきた。封印の力——先史文明の守護者が最後に残した力だ。

 【修繕術】を発動。封印を「修繕」する——壊すのではなく、封印の内側にある鍵を「本来あるべき場所」へ戻すイメージで。

 白い光が溢れ、結晶が割れた。中から、透明な結晶——北の鍵が現れた。


 ——————————————

 四つの鍵:全て獲得

 南の鍵(翡翠):取得済

 東の鍵(蒼碧):取得済

 西の鍵(紅蓮):取得済

 北の鍵(白銀):取得済


 新スキル獲得:

 【世界修繕】Lv.1

  世界の根幹構造に干渉する修繕を行える

 ——————————————


 【世界修繕】——世界そのものを修繕するスキル。四つの鍵を全て手に入れたことで、解放された力。

 柏木は手の中の四つの結晶を見つめた。翡翠、蒼碧、紅蓮、白銀——それぞれの色が淡い光を放ち、互いに共鳴するように脈動している。密林の守護者、海蛇、炎の精霊、そして最後の守護者の遺志。四つの試練を超えるたびに、柏木は自分の修繕が「直す」だけのものではないと感じるようになっていた。

 壊れたものの声を聞く。傷ついた構造に寄り添う。元の形を想い、それ以上の強さを込めて再構成する。それは技術であり、同時に——祈りに近いものだった。

 工場で機械と向き合っていた十三年間も、本質は同じだったのかもしれない。言葉を持たない機械の不調を感じ取り、その訴えに応える。それを、柏木は「仕事」と呼んでいた。しかし本当は、それは対話だった。

 しかし喜びに浸る暇はなかった。

 碑文の警告通り、異変が起きた。

 遺跡の外から、地響きのような振動が伝わってきた。

 「外に出ろ!」

 マルクスの叫びで全員が遺跡の外に飛び出した。

 山の上空に、巨大な綻びが出現していた。

 長さ五十メートルを超える、漆黒の亀裂。これまでの紫色の綻びとは明らかに異質だ。まるで夜空に穴が開いたかのように、その向こうには何もない——虚無だけが広がっている。

 そして、その漆黒の綻びから——何かが這い出してきた。

 人型。しかし、人ではない。三メートルの長身に、闇をまとった異形の姿。頭部には二本の角があり、両腕は不自然に長い。全身から漆黒の瘴気が立ち上っている。

 虚影の兵士とは、比較にならない圧倒的な存在感。空気が震え、大地が軋んだ。


 【鑑定眼】が反応した——しかし、表示は不完全だった。


 ——————————————

 対象:虚無の使徒

 種別:次元間存在(上位)

 危険度:Sランク以上

 弱点:——(解析不能)

 備考:虚無の王の直属の使徒。

    単独でBランク冒険者の部隊を壊滅させる力を持つ。

 ——————————————


 Sランク以上。柏木たちの実力をはるかに超えた存在だ。

 「修繕師よ」

 虚無の使徒が口を開いた。いや、口がないのに、声が空間を震わせた。

 「王が来る前に、お前を始末する。鍵を渡せ。そうすれば、苦しまずに消してやろう」

 「断る」

 柏木は四つの鍵を胸の内ポケットにしまい、仲間の前に立った。

 「俺たちは、ここを通る。邪魔するなら——直してやる」

 虚無の使徒の笑い声が山に響いた。

 「直す? 我を直すだと? 愚かな——」

 マルクスが大剣を構え、前に出た。

 「話は後だ。リーナ、左を頼む。セリアは後方支援。柏木、お前は死ぬな」

 「それは全員に言いたい台詞だ」

 戦闘が始まった。

 虚無の使徒の力は、圧倒的だった。

 腕を一振りするだけで衝撃波が走り、岩が砕ける。マルクスが渾身の一撃を放っても、使徒の身体にかすり傷一つつかない。闇の瘴気をまとった身体は、物理攻撃をほとんど通さなかった。

 リーナの「暁光」——瘴気耐性を持つミスリルの刃——だけが、わずかにダメージを与えられた。しかし、与えたダメージは瞬時に回復する。

 「無駄だ。次元間存在の肉体は、この世界の力では破壊できない」

 使徒が腕を振るい、マルクスが吹き飛ばされた。岩壁に叩きつけられ、鎧が凹む。

 「マルクス!」

 「大丈夫だ……骨は折れてない」

 マルクスが起き上がったが、動きが鈍い。ダメージは大きい。

 セリアが最大出力の攻撃魔法を放ったが、使徒は片手で弾いた。

 「お前たちの力は、わしにとっては風にすぎない」

 使徒がリーナに向かって腕を振り上げた。回避が間に合わない——。

 「リーナ!」

 柏木が飛び出した。

 何ができるかわからない。戦闘は素人だ。しかし、身体が勝手に動いていた。

 リーナの前に立ち、使徒の腕が振り下ろされる——。

 その瞬間、柏木の中で何かが弾けた。

 四つの鍵が、胸の中で共鳴した。

 金色の光が柏木の全身から溢れ出した。使徒の腕が光に触れた瞬間、弾き返された。

 「なっ——!」

 使徒が驚愕の声を上げた。

 柏木自身も驚いていた。しかし、身体が勝手に動く。四つの鍵の力が、柏木を通じて発動している。

 【世界修繕】——その力の一端が、守りの力として発現した。世界を直す力は、世界を壊そうとする力を拒絶する。

 「今だ! セリア、全力の魔力を俺に!」

 「はい!」

 セリアが柏木の背に手を当て、魔力を注ぎ込んだ。【魔力共鳴】が最大出力で発動する。

 柏木は虚無の使徒に向かって右手を伸ばした。

 修繕術を、使徒の身体に向けて発動する。

 使徒の身体——それは、虚無の力で構成された異常な存在だ。この世界の法則から外れた「壊れた」存在。

 ならば——直す。この世界の法則に合うように、修繕する。

 金色の光が使徒の身体を包み込んだ。

 「やめろ——やめろ! 何をする!」

 使徒が悲鳴を上げた。その身体を構成する虚無の力が、修繕の光によって浄化されていく。闇のまとった異形の姿が崩れ、内部の構造が露わになる。

 その内部には——一つの核があった。小さな紫色の結晶。使徒を使徒たらしめている存在の核。

 リーナが見た。

 「あれを!」

 柏木の修繕術が使徒の防御を剥がした一瞬の隙を、リーナは見逃さなかった。

 「暁光」を両手で構え、全力で踏み込んだ。

 ミスリルの刃が、核を貫いた。

 虚無の使徒は断末魔の叫びを上げ——漆黒の粒子となって四散した。

 山の上空に開いていた巨大な綻びも、使徒の消滅とともに縮小し、やがて消えた。


 四人は、雪の上に座り込んだ。全員が満身創痍だった。マルクスは鎧が凹み、リーナは左腕を負傷し、セリアは魔力を使い果たし、柏木は立ち上がる力もなかった。

 しかし、全員が生きている。そして、四つの鍵は揃っている。

 「やったな」

 マルクスが呟いた。

 「ああ」

 柏木は空を見上げた。星が、嘘みたいに美しかった。

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