第十四章 西の鍵——永遠の砂漠
西の永遠の砂漠への旅は、最も過酷な道のりだった。
大陸の西方に広がるこの砂漠は、東西百キロメートル、南北二百キロメートルに及ぶ広大な不毛地帯だ。昼間の気温は五十度を超え、夜は零度近くまで下がる。水場はほとんどなく、道標もない。
砂漠に入る前に、入口にあたる交易町「レグルスの門」で物資を調達した。
「この砂漠を横断するには、最低でも七日間かかります。水と食料を十分に確保してから出発しましょう」
セリアの計画に従い、ラクダに似た大型の砂漠獣を四頭借り、水樽と食料を積んだ。
砂漠の交易商人——日に焼けた顔の痩せた男——が、出発前に柏木たちに助言をくれた。
「砂漠には三つの敵がいる。太陽、砂、そして幻だ。太陽は身体を焼き、砂は方角を失わせ、幻は心を惑わせる。三日目あたりから、ありもしないものが見え始める。水が見えても、近づくな。それはただの蜃気楼だ」
「幻覚が出るのか」
「砂漠の魔力が原因だと言う者もいる。この砂漠の地下には、先史文明の遺跡があるという噂がある。その残留魔力が、人の脳に影響を与えるのかもしれん」
先史文明の残留魔力。それが、オアシス遺跡の手がかりかもしれなかった。
砂漠に入って初日。
灼熱だった。太陽が頭上から容赦なく照りつけ、砂の表面温度は素手で触れば火傷するほどだ。布で顔を覆い、帽子を目深に被り、砂漠獣の影に隠れながら進む。
「暑い……」
リーナが消え入りそうな声で呟いた。密林の湿度も辛かったが、砂漠の乾燥と熱はそれ以上だった。
柏木も汗が止まらなかった。しかし、汗は出た端から蒸発する。水分補給を怠ればすぐに脱水症状になる。マルクスが定期的に全員に水の配給を行い、厳格に管理した。
「一人一日、水は一リットル半。それ以上は許さん。七日分の水を六日で使い切ったら、最後の一日は歩く屍になる」
夜は嘘のように冷えた。昼間五十度だった気温が、夜には零度近くまで下がる。焚き火を囲んで毛布にくるまっていても、身体の芯から冷える。
「極端すぎるだろ、この気候」
柏木がぼやくと、マルクスが鼻を鳴らした。
「自然ってのはそういうもんだ。人間の都合なんか考えちゃくれない。だからこそ、準備が物を言う」
三日目の夜。
砂漠のど真ん中で、柏木とセリアが二人きりで焚き火を囲んでいた。リーナとマルクスは先に眠っている。
満天の星空が広がっていた。砂漠の空は、他のどこよりも星が近い。空気が乾燥して澄んでいるせいだろう。二つの月——青と琥珀——が、星の海の中で静かに光っている。
「セリア」
「はい」
「お前は、なぜこの旅についてきたんだ。本当の理由は」
セリアは焚き火の炎を見つめていた。眼鏡のレンズに炎が映り、二つの小さな火がちらちら揺れている。
「何度も答えましたが。研究のためです」
「それだけか?」
セリアは長い沈黙の後、口を開いた。
「……柏木さんは、人に本音を訊くのが上手ですね」
「工場にいた頃、機械の不調を見つけるのが得意だった。何かがおかしいと、わかるんだ」
「機械と人を一緒にしないでください」
「すまん」
セリアは眼鏡を外し、目をこすった。眼鏡がない彼女の顔は、いつもより柔らかく見えた。
「正直に言います。研究のためというのは嘘ではありません。でも、それだけでもない」
「うん」
「私は——王都の学院で、ずっと一人でした」
セリアの声が、焚き火の音に混じるように小さくなった。
「同僚はいました。挨拶を交わし、会議で議論し、研究成果を共有する相手は。でも——友人と呼べる人は、一人もいなかった。研究に没頭して、人付き合いを疎かにしていたから。気づいたら、研究室に一人きり。朝から晩まで本と向き合い、たまに食堂で一人で食事をして、また研究室に戻る。それが私の日常でした」
柏木は黙って聞いていた。セリアが自分のことをこんなに話すのは珍しい。
「それが普通だと思っていました。研究者とはそういうものだ、と。寂しいと感じたこともなかった。——いいえ、感じていたのかもしれません。でも、認めたくなかった。認めたら、自分が惨めに思えるから」
セリアは膝を抱えた。
「柏木さんたちと旅をして、初めて『仲間』というものを知りました。一緒に戦い、一緒に食事をし、一緒に笑い、一緒に不安を分かち合う。リーナの明るさ。マルクスの頼もしさ。そして——柏木さんの、壊れたものに向き合う真摯さ。それがこんなに温かいものだとは、知りませんでした」
セリアの声が、かすかに震えた。
「だから——この旅が終わっても、一人に戻りたくない。あの研究室に、一人で帰りたくない。それが——本音です」
焚き火がパチリと爆ぜた。
柏木は砂に手をついて、空を見上げた。
「俺も似たようなもんだ」
「え?」
「元の世界では、仕事ばかりで人付き合いを全部捨てた。妻も失った。友人もいなくなった。工場が閉鎖されて、自分の居場所がどこにもなくなった。駅前の雨の中で、ぼーっと立ってた。何のために生きてるのかわからなくなってた」
柏木は焚き火の向こうのセリアを見た。
「この世界に来て、初めて——仲間ができた。ガルドがいて、リーナがいて、トーマスさんがいて。そして、セリアがいて」
セリアの目が潤んだ。
「一人にはならないよ。ブランデルに帰っても、俺たちは仲間だ。王都の研究室に一人で帰る必要はない。研究室は鍛冶場の隣にでも建てればいい」
セリアは目を赤くしながら、小さく笑った。
「鍛冶場の隣は騒がしすぎます。ガルドさんの金槌の音で集中できません」
「じゃあ、鍛冶場の向かいに」
「……検討します」
砂漠の夜空に、二つの月と満天の星が輝いていた。二人の間に流れた沈黙は、暖かかった。
五日目に、砂嵐が来た。
それまでの日々が穏やかだった分、嵐は突然だった。地平線の彼方に砂の壁が見えたと思った瞬間、猛烈な風が四人を叩いた。
「全員、砂漠獣の陰に! 荷物を下ろすな!」
マルクスの判断は素早かった。四頭の砂漠獣を円陣に並べ、その内側に身を寄せる。砂漠獣は本能的に嵐に背を向けてうずくまり、厚い体毛で砂を防いだ。
しかし嵐は止まなかった。数時間が経っても、視界はゼロのままだった。砂が目に入り、口に入り、鼻に入る。布で顔を覆っていても、砂の粒が隙間から侵入してくる。
セリアが方角を測る魔法で進路を確認した。
「嵐の中を進むのは危険です。でも、留まっていると水が——」
「進む」
マルクスの決断に、全員が従った。
嵐の中の行軍は、地獄だった。五メートル先も見えない砂の渦の中を、砂漠獣の手綱を握りしめて歩く。足元は砂にめり込み、一歩一歩が重い。風が容赦なく砂を叩きつけてくる。
柏木は砂漠獣の陰に身を潜めながら、仲間のことを考えた。リーナは細い体で必死に風に耐えている。セリアは方角の魔法に集中力を注いでいる。マルクスは先頭で道を切り開いている。
——俺にできることは何だ。
砂嵐の中で戦えるわけでもない。道を切り開けるわけでもない。方角を測れるわけでもない。
だが——装備を直すことはできる。
砂嵐の中で、全員の装備は急速に傷んでいた。革紐が磨耗し、金属部品に砂が噛み、布地が裂けていく。
柏木は歩きながら、手の届く範囲で仲間の装備を修繕し続けた。リーナの靴紐が切れかけているのを直し、セリアの魔導書の留め金が砂で緩んでいるのを締め直し、マルクスの革鎧の肩当てが裂けかけているのを修復した。
小さな修繕の積み重ね。嵐の中でも、やれることをやる。
三時間後、嵐が突然止んだ。
まるでカーテンが開いたかのように、砂の壁が消えた。
そして、目の前に——信じられない光景が広がっていた。
砂漠の真ん中に、干上がったオアシスの跡があった。枯れた棕櫚の幹が何本か突き出し、地面には干割れた泥の平原が広がっている。そして、その中央に——石造りの遺構が見えた。
「オアシス遺跡です! 砂嵐が——まるで私たちをここに導いたかのように」
セリアが息を呑んだ。
遺跡は砂に半ば埋もれていたが、入口はまだ使えた。先史文明の魔法文字が、かすかに光を放っている。
地下に降りると、広大な空洞があった。
かつて巨大な地底湖があった場所だ。今は完全に干上がり、底には塩の結晶が白く堆積している。洞窟の壁面には水の痕跡——水位線がくっきりと残り、かつてここが豊かな水を湛えていたことがわかる。
「この地底湖が、かつてオアシスに水を供給していたんだな」
柏木は干上がった湖底を歩きながら言った。
「はい。文献によると、このオアシスは砂漠の交易路の中心でした。水があるから人が集まり、交易が生まれ、文化が栄えた。オアシスが枯れた時、砂漠の交易路も死にました」
「水路が詰まって、水が来なくなったのか。ブランデルの農業用水路と同じだ」
柏木の呟きに、セリアが目を見開いた。
「同じ……? 確かに、原理としては同じかもしれません。水の通り道が壊れて、水が届かなくなった。規模は違いますが」
「規模が違うだけで、やることは同じだ。壊れた水路を直す」
奥に進むと、さらに深い洞窟に出た。そこに——炎の精霊が待っていた。
人型の、しかし全身が炎で構成された存在。三メートルほどの背丈で、周囲の温度を一気に上昇させた。干上がった地底湖の中に立つ炎の精霊は、水と火という相反する要素の奇妙な共存だった。
「修繕師よ。砂漠を越えてきたか」
炎の精霊の声は、炎が爆ぜるような音を伴っていた。
「ああ。鍵をもらいに来た」
「鍵は与える。だが、ただではない。試練を果たせ」
炎の精霊は六本の腕を——炎でできた腕を広げた。
「この砂漠はかつて、緑の大地だった。地下水脈が大地を潤し、草原が広がり、多くの命が息づいていた。千五百年前、地殻変動で水脈が途切れ、大地は砂漠と化した。——しかし、水脈は死んでいない。途切れているだけだ」
「水脈を修繕して、オアシスを復活させろ、と」
「その通り。水は命の源。命を蘇らせてこそ、真の修繕師だ」
柏木は地底湖の底に立ち、【鑑定眼】と【構造理解】で地下の状態を調べた。
膨大な情報が流れ込んできた。地下には確かに水脈が存在していた。しかし、複数の箇所で石灰岩の層が崩壊し、水路を塞いでいる。さらに、瘴気の影響で一部の地層が変質し、水を通さない硬い層になっている箇所もあった。
柏木は地底湖の底に両手を当てた。
「ブランデルの水路と同じ。規模が違うだけ。やることは同じだ」
その言葉を、自分に言い聞かせた。
【修繕術】と【領域修繕】を組み合わせて発動。
金色の光が地面に浸透し、地下深くまで広がっていく。崩壊した石灰岩の層を修復し、途切れた水脈を繋ぎ直す。瘴気で変質した地層は、【瘴気浄化】で元の状態に戻す。
作業は膨大だった。密林の浄化とは違い、世界樹のネットワークのような「近道」がない。一つ一つの崩壊箇所を、地下数十メートルの深さまで手探りで見つけ、修繕していく。
三十分が経過した。柏木の額から汗が滝のように流れ落ちる。
一時間。視界が明滅し始めた。
「リョウイチさん、もう——」
リーナの声が聞こえたが、柏木は止めなかった。あと少し。最後の一か所——最も深い位置にある水脈の断裂。ここを繋げれば、水が流れ出す。
柏木は最後の力を振り絞った。
金色の光が地下の最深部に到達し、断裂した水脈を接合した。
そして——。
地底湖の底から、水が湧き出した。
最初はちょろちょろと。しかし、修繕が進むにつれて水量が増し、やがて勢いよく水が噴き出し始めた。
冷たく、澄んだ水が、千五百年ぶりに地底湖を満たし始めた。
「水だ……!」
リーナが叫んだ。
洞窟の壁面に反射した水の光が、天井を揺らめく模様で彩った。炎の精霊の赤い光と、水の青い反射が交差して、洞窟内に幻想的な光景が広がった。
柏木は修繕を止めなかった。地底湖だけでなく、地表へ続く水脈も修復する。
地上で待機していたマルクスの声が、遠くから聞こえた。
「おい、水が——水が出てきたぞ!」
枯れたオアシスの跡から、水が湧き出していた。最初は小さな泉だったが、みるみるうちに広がり、周囲の砂を濡らした。
水に触れた砂から、信じられない速さで緑が芽吹いた。砂漠の砂の下に眠っていた種子が、千五百年ぶりの水を得て、一斉に芽を出したのだ。細い緑の芽が、次々と白い砂の上に顔を出す。
砂漠の真ん中に、緑のオアシスが蘇った。
柏木は地底湖の縁に座り込んだ。魔力は空に近い。しかし、目の前には千五百年ぶりに蘇った水が、光を反射してきらきらと輝いている。
炎の精霊は静かに頷いた。
「良き仕事だ、修繕師。水は命の源。枯れた命を蘇らせるには、命の源を蘇らせなければならぬ。お前はそれを成した」
炎の精霊は一つの結晶を差し出した。深い赤色——紅蓮の結晶。内部で炎が揺らめいているかのように、赤い光が脈動している。
「西の鍵を託す。この鍵は、大地の熱から生まれた結晶だ。変化と再生の力が込められている」
「ありがとう」
「礼を言うのは、わしの方だ。千五百年、わしはこの地の水脈が枯れるのを見守ることしかできなかった。炎は水を蒸発させることはできても、湧き出させることはできぬ。——お前が来てくれて、救われた」
炎の精霊は微笑むように目を細め——そして、赤い粒子となって空気中に散っていった。最後に残ったのは、洞窟の中にほんのりと漂う温もりだけだった。
地上に出ると、オアシスの水が広がり、周囲の砂地が湿り気を帯び始めていた。枯れた棕櫚の幹の根元から、小さな緑の芽が出ている。千五百年の眠りから目覚めた種子たちだ。
「すごい……」
リーナが感嘆の声を上げた。
「砂漠がオアシスに変わった」
「変わったんじゃない。戻ったんだ。元の姿に」
四人は蘇ったオアシスで一泊した。
オアシスの水は澄んでいて、冷たく甘かった。千五百年ぶりに地上に湧き出した水は、砂漠の灼熱に長く触れていないぶん、驚くほど新鮮だった。
焚き火を囲んで、マルクスが水を手ですくい上げた。
「砂漠の真ん中で、こんな水が飲める日が来るとはな」
「修繕師がいると、旅が楽だな」
「楽って言うな。死ぬほど疲れてる」
レベルは十二に到達した。
三つの鍵——翡翠、蒼碧、紅蓮の結晶を並べた柏木は、残り一つの鍵に思いを馳せた。
「北の凍てつく山脈」
セリアが地図を広げた。
「三つの鍵の中で、最もアクセスが困難な場所です。文献によれば、先史文明はあの山脈を『世界の背骨』と呼んでいた。大陸で最も次元の壁が薄い場所で、そこに北の鍵を置いたのは——」
「最も危険な場所に、最も重要な鍵を隠した」
「はい。虚無の王にとっても、最もアクセスしやすい場所。つまり——」
「守護者が滅ぼされた場所」
沈黙が落ちた。
マルクスが火に薪をくべた。
「難しい場所ほど、行く価値がある。そうだろう、隊長」
「隊長って呼ぶな」
「隊長は隊長だ。名実ともにな」
リーナが立ち上がった。
「行きましょう。怖いけど——怖いからこそ、行かなきゃ」
「リーナの言う通りだ」
柏木は鍵をしまい、立ち上がった。
砂漠の夜空に、二つの月が輝いていた。
残るは北の鍵のみ。
しかし、北方の凍てつく山脈に向かう前に、事態が急変した。




